星座で801ログ保管庫出張所

やぎの夏休み(小石にお絵かき)

 毎日毎日同じような日が続くように見えても、水面下で切り開かれるようにして山羊の世界は進んでゆく。
 ことり池から無事に一人で帰ってきた山羊を乙女伯父さんはあつあつのお風呂を焚いて迎えてくれた。山羊は山羊でことり池のへりにあった丸い石ころを二つ持ち帰り、お風呂あがりにはお茶をのみながら石ころにサインペンで顔を描いて乙女に散策の話をたくさんした。
「射手さんがね、僕のサインペンでこんな風に石に顔描いたら楽しいよって教えてくれたんだ。絵めちゃくちゃ上手いんだよ。左目が義眼なのに」
「……義眼?」
「うん。最初ちょっとびっくりして怖かった。でも話してみたら全然怖くなかったんだ」

 乙女は山羊の話を聞くと宙に視線を漂わせてやや考え込むしぐさをとった。

「どうしたの?」
「ん、何でもない。義眼か」
「何年も前からこの辺に来てるって。友達を待ってるって言ってたけど、おじさん友達だったりする?」
「いや。そういう間柄じゃない。昔そんな人が境内に写生に来ていたことがあった」
「神社にも来てたんだ!」
「たまたま山羊たちがこっちに来るのが遅かった年じゃないかな。入れ違いだったと思う」
 確かによくよく考えてみると射手は乙女よりも何歳か年下のように見えた。同年代の友達と呼ぶには雰囲気が違うかもしれないなあ、と山羊は顔を描いた石をころがしながら思ったのだった。
「牡牛のそば屋さんもおいしかったよ」
「お。何頼んだ?」
「天ざるそば」
「わかってきたじゃないか」
「えへへ」



 次の日、顔の描かれた石ころの一つは和風のコースターにのせられて乙女家のテレビの上に飾られ、もう一個はティッシュにくるまれて山羊が自分の家に帰った時のためのお土産となった。山羊の中ではサインペンでの落書きがプチブームになり、山羊はチラシの裏にことり池の散策日記を書き溜めるとサインペンを片手に外へと遊びに出てゆく。
 水瓶や魚、近所でも話に付き合ってくれる人がいる。山羊は晴れた日の道べりを歩きながら、温かく焼けた小石を次々に吟味し気に入った形のものをポケットに拾い集めていった。
「山羊くんの描く小石は素朴でかわいいね」
 素直に褒めてくれたのは魚だった。かご屋でのことだ。急に自分が図画工作で並以上の成績をとったことがないのを思い出して、山羊は柄じゃないような気がしてきた。
「あ。えーと、その……まだまだです」
「どうしたの急に。子供なんだから照れなくてもいいのに」
 優しく笑う魚の横で気恥ずかしくなってお絵かきをやめる山羊であった。ポケットにはもう描き溜めた石ころがいくつか入っているのだが、これが評価にかけられるかもしれないと思うとどうにも居たたまれなくなる。
「あとで、道にこっそり並べてくる」
「それはいいね。いっぱい並んでたら見た人もなごむと思うよ」
「うん」
 昨日の散策の疲れを癒すためもあってその日は特に大きな事件もなく和やかに過ぎていった。かご屋の中には外とは一線を画した、こもりたくなるような侘びさびが漂っている。魚が商品に優しくはたきをかけたり何かの帳簿をつけているのを見ているうち、山羊はすっかり腰に根が生えて店と家の間の軒先で寝息を立ててしまった。すぐに起きたが三十分ぐらいそこで寝ていたと思う。魚は「ああ、いいよいいよ」と言って気にしない風情である。
「毎日山遊びしてたら昼寝も気持ちいいだろう」
「うん……」はっとして訂正する。「でもよそで寝ちゃ迷惑になっちゃうから」
 お茶をすすりながら笑っている魚の話題をそらそうとして、山羊はやっぱり射手のことを聞いてみた。魚は首をかしげながら記憶をさぐってうーんと唸る。
「それは天秤さんに聞いたほうが詳しくわかるんじゃないかなあ」
「天秤さん?」
「うん。僕って街の情報網の中じゃわりあい端っこのほうにいるからねえ。その人の話も天秤さんの受け売りになるけど、”左目さん”ってあだ名で地元じゃわりと知ってる人が多いよ」
 毎年夏ごろに川田地方に現れては各所の絵を描いていく。始めはこの辺の商店街などにもイーゼルを立てていたが、そのうち自分がいると近くの店の客足に響くと思うようになったのか商店街周辺からはいなくなった。
「観光客の子だと思うけど、誰かがふざけておもちゃの眼帯を押しつけたことがあったんだよね。左目さんは何かの漫画のキャラだと思ったらしくて眼帯をつけてくれてたけど、天秤さんが店先から出てきてその子の頭べしってひっぱたいたもんだから騒ぎになったんだ」
 本当に目が悪い射手が眼帯を押し付けられて困った笑顔を浮かべる姿がありありと想像できて、山羊はなんだかむかむかした気分になった。そしてすぐそこの店にいる天秤さんをちょっと偉いと思った。やはり刃向かってはだめな人なんだろうけど。
「やっぱりねえ、茶髪の子供の頭をはたくのはリスクが大きいよねえ。しかも店の前で……あの時だけは観光地でよかったと思ったよ。かなりの人が一日で入れ替わるからね。天秤さんは気にしなくていいって声かけてたけど、左目さんは次の日から商店街の絵は描かなくなっちゃった」
 人里をはなれ、人里に遠慮し……自分のせいで義眼になったわけでもないのに射手は人に気を遣って川田地方をさまよう。絵を描いている時にはあんないい顔をする人なのに。うまくいかない世の中に山羊がもにょもにょしていると、
「義眼の人はどこでも大変なんだろうね。それでもこの辺に残って絵を描いてるあたり、よっぽどここの地方にこだわってるんだろう」
 と魚がしめくくった。



 店を出た山羊はポケットに溜めた小石をどこに置こうか思案したあと、魚と天秤の店の間にある道路のふちに並べることにした。魚には居眠りのお礼に。天秤にはなんとなく”えらかったよ”と言ってあげたい気持ちで。日差しをあびながら福々と道端に並ぶ小石の顔は山羊にちょっとした満足感をもたらした。
 帰り際に天秤の店に立ち寄ると天秤は今日もひしめく観光客相手に笑顔を絶やさず忙しそうであった。他の店と違って本当に忙しそうなので山羊も声をかけるチャンスがない。店内にあるおみやげ菓子の試食ビンをつまみながら、ちらちらカウンターを見て挨拶のチャンスを伺う。
 買い物客の会計をすませた天秤と目が合う。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは」
 天秤はあの笑顔でうなずいてくれた。それから急に何か思い出したのか、山羊の姿に助かったと言いたげな顔をする。山羊は天秤の手がこちらを手招いたのを見て、試食菓子のビンを閉めると何事かとカウンターに歩いていった。