ことり池攻略の日、川田地方の朝は曇りだった。
平野部よりも標高が高いこの地方で山羊は涼しい朝を迎えたが、起きるなり窓の外の明るさで天気がよくないことを知った彼は出発を少しばかりためらった。今日は神社からことり池までかなりの距離を一人で歩かなければならない。どんなに途中で疲れても、最低でもバス停まで歩かなければ自力で家には帰れないのだ。
「雨にぬれたらやだなあ。ザーッて降るのかな」
明日に延期してもいいけれど……そこまで考えて、思い直す。もし本当に雨が降るのなら家の中にいたくない。することがなさすぎてまた考え事の虫が畳の隙間からわいてきそうな気がするから。
結局リュックの中に折り畳み傘を追加し、ビニール袋ももう少し余計に入れた。先に起きていた乙女おじさんが窓の外を見上げ、早駆けするねずみ色の空に山羊の身を気遣う。
「ちょっと天気がよくないな。今日はやめておくか? 明日以降でもいいんだぞ」
山羊は頑固に首を横に振った。
「いく。今日って決めたから」
「そうか。雨が降ってきても小降りならいいが、大降りになりそうならいつでも電話しなさい。一人だからな。危なそうなときには早めに帰ってくるぐらいでちょうどいい」
湿気た空気にまかれた林が神社の石段のところで一瞬切れる。その神社の長い石段を降りて、山羊は背中に背負ったリュックサックをもう一度しょいなおした。自作の攻略マップの他に乙女おじさんから借りたこの辺の地図もある。ことり池までは大きな車道沿いに歩いて、あとは大きな看板を見ればたどり着けるということらしい。
遠くまで続く車道を見通しながら、少しの不安と一緒に歩き出した。虫たちは一度しかない夏を無駄にすまいと今日も忙しく鳴いている。車道沿いの林は誰が入っても遠くまで見えるように木が間引かれ、開かれた雰囲気をかもしていた。車道沿いに続く山羊の遠足はその天気にもかかわらず、歩いてみると案外見晴らしは悪くないのだった。
「お昼までにそば屋さんに行けるかなあ。雨ふらないといいな」
小さなスニーカーでとことこと歩き続けて、途中で一度止まって振り返ってみる。
それまで自分が立っていた地点がもうずっと遠くにまで離れているのを確認して、少しその場に立ち尽くしていた。今日は誰も止めにこない。何かあっても自分ひとりでどうにかする旅。
「もう神社がみえないや……」
──僕は思ったよりもいっぱい歩けるんだ。
──車なんかなくたって、大人なんか見ていなくたって、誰も見ていなくたって。森の木や鳥や虫がそっと見ててくれる。僕は自分の足で、好きなところへ、どこまででも行けるんだ。疲れてもその時は休んで、あきらめさえしなければ。
学校で暗くうつむいていた時のことを山羊は思い出さなかった。山の景色はどこを見ても元気いっぱいで、林の木の並び具合やその辺に生えている草の葉っぱの形すら面白くて、そんな昔を思い出していたらもったいなかったから。
歩いていると途中でツバメが目の前をひゅんと横切って飛んでいった。
「あ、ツバメだ」
ツバメが低く飛ぶのは天気が悪い時なんだよなあと山羊は図鑑で読んだまめ知識を思い出した。それから、シジミチョウや緑色のアゲハチョウがヒラヒラ車道沿いに飛ぶのを見た。時々道路を通る車に家族連れが乗っていた時には”もったいないなあ”と思った。歩くのもそれに見合った楽しみがあるのに、車に乗っているとわからないのだ。多分。
午前中は天気もそれ以上崩れず平和にすぎていった。汗もかきすぎるほどかいているわけではないし、日射病の心配がないのは却って良かったかもしれないと思い出したぐらいだ。たっぷり歩いて、もう一日分歩いたという気に早くもなりかけているとようやく山羊の目に大きな墨書き文字の看板が見えてきた。
『蕎麦処 牡牛 100m先を左折』
「うしのそば屋さんだ!」
ようやく見えた最初の目的地に山羊は大きな声をあげた。蟹のそば屋以外に皆で行ったことがあるそば屋はここだけだ。そばの味は通を唸らせるほどの造詣だが、山奥にありながら車での客を受け容れる駐車場がそれほど大きくなく、いつもそこに収容できる程度の客しか受け付けない。そうやって客数をセーブすることで自然にそばの質を保っているのだと双子だか乙女だかがうんちく交じりに語っていたのを山羊は聞いたことがある。
一気に気がはやって100mがとても長く感じた。車道の下り坂を降りた先に何台もの車が並んで左折した列を作っている。駐車場が空かなくて順番待ちのようだ。山羊は出し抜くような気持ちでその横をすたすたと通り過ぎていった。牡牛のそば屋は純和風なつくりで駐車場と一緒にそびえ立ち、山羊がリュックサックを背負ってその自動ドアをくぐると玄関に微かに溜まった松の香りで彼を出迎えた。
「いらっしゃいませ。何名様ですか」
玄関に出てきた女性店員に山羊はどきどきしながら返事をした。
「一人です。あの、神社からきました山羊です。水筒にお水をもらってもいいですか?」
「かしこまりました。一名でご予約の山羊様ですね。どうぞこちらへ」
山羊は乙女の計らいで先にカウンター席を用意されていたのだった。リュックサックはテーブルの下の棚に置けたがカウンター用の椅子がのぼりづらく、椅子の周りであたふたしていると店員が踏み台を持ってきてくれた。子供向けの配慮ではあったが椅子に座る当人には恥ずかしい。
メニューには蟹のそば屋と違ってお子様セットがなく、代わりにそれぞれのそばに「小盛」というオプションがついていた。
「大人のそば屋だ……」
乙女の作ってくれたおむすびはあったが、非常用にしなきゃと自分にいいきかせて食べないでいるうちに山羊はすっかりお腹がすいていた。不意に蟹のそば屋でいつものを頼む乙女の顔が浮かび、天ざるそばを並盛りで注文してみる。注文してから出てくるまでに周りからの食べ物の匂いでお腹がぐうと鳴った。しぶとくお冷で我慢していると天ぷらとそばが運ばれてきた。「いただきまーす!」と声を出してから割り箸を割って掻き揚げ天ぷらをつまみ、だしにつけて口の中で噛みしめたときの衣の軽く充実した歯ざわりがたまらない。
しばらく無言で夢中で天ざるそばを食べた。味わうというにはがつがつした動きだったが、山羊がようやく一息ついたのはお腹がいっぱいになって再度お冷を飲んだ後だった。
「おいしい」
まだそばが少し残っている。これもゆっくり味わって食べる。ことり池まではここからならすぐだ。山羊が元気を出してうきうきしていると、不意にカウンター席の前の調理場に調理着を着た男が一人現れた。
蟹とは違って、温厚だが物静かなたたずまいの四十男だった。じっと山羊を見ている。山羊が自分に向けられた視線に気付いて緊張しながらぺこりと頭を下げると、男はそこから微笑んで山羊が店員に預けた水筒をカウンターにおいてくれた。
「ようこそ。食べに来てくれてありがとう。そばは美味しかったかな」
山羊はなんとなく、雰囲気からこの男が店主の牡牛だと気付いて肩の力が抜けた。こくりとうなずくと牡牛の目尻が垂れて顔がさらに優しくなった。
「はい。すごいおいしかったです」
「そうか、よかった。乙女さんから電話をもらってあるんだが、ここに来るまでに何か困ったことはあったかい」
「いいえ」
「うん。ならいいんだ。おじさんは他のお客さんにそばを出さなきゃいけないんでもう引っ込むけど、何かあったらいつでも声をかけてくれていいからね。ことり池まであとちょっとだからがんばって」
「ありがとうございます」
牡牛は言葉少なに笑ってうなずくとまた厨房のほうへと戻っていった。この男が言うと”がんばって”という言葉も嫌味に感じない。優しい人なんだなと山羊が思っていると店の中がそれまでよりも明るくなってカウンターの上のそばを鮮やかにした。山羊が窓の外を見ると、雲が駆け抜けたねずみ色の空の端から太陽が雲を切り、空が一気に白く色を抜いていくのが見えた。
店の外に出ると曇っていた景色が一変して辺りが明るくなっていた。雲を押していた風が林道の山羊にも吹いてくる。林の中にも上から小さな葉や季節外れの枯れ葉がひらりと舞い落ちる。
『ことり池・川田植物園 この先1km』
牡牛のそば屋からは車道沿いの看板で残り数字を数えながらの遠足になった。長い林道だった道にも観光客相手の食べ物屋やお土産屋がぽつぽつ出てくる。歩けば歩くほど変わっていく景色に山羊が息を弾ませながら進んでいくと、山羊はとうとうことり池前の広場にまでたどり着いた。
ことり池前の広場は神社周辺に負けず劣らず人が多かった。知る人ぞ知る場所という予想からは離れていたが、広場にある色とりどりの花壇に咲く花が森の花とは違う明るさで山羊をやさしく迎える。
着いた!
山羊はばんざいのポーズからそのまま空に向けて思いっきり大きく伸びをした。ことり池はどうも植物園と隣り合った池のようだ。散歩道の木にはところどころ案内板やネームプレートがくくりつけられている。きょろきょろしながら他の観光客にまぎれて進んでいくと、散歩道のある林からさらに奥に知らない植物の密生する池がちらりと顔をのぞかせる。
池のそばに着いて、林は一気に開けた。山羊は池から一気に飛び立つ渡り鳥の群れに驚きながら、池沿いにずらりとひしめく植物たちの群れにしばらく見入ってしまっていた。
池自体は三十分でぐるりと一周できるような、さほど大きくはないものだった。途中に渡された木の橋にも青い羽の小鳥がとまる。白い花や赤い花、形の違う季節の花が虫の声に囲まれて季節を謳歌し、その花弁にみつばちがとまってそっと花粉をもっていく。地面には他の渡り鳥や赤茶色の頭をしたすずめが歩いたり日向ぼっこをしている。
散歩の途中で切り株を模した椅子に座って、リュックを下ろして一休みする。山羊の見つめる風景の中で、池脇の芝生の広場に三十代ぐらいの男がイーゼルを立てて画板に一人絵を描いていた。山羊はこの土地で一人で何かをする人間を見つけるのが上手かった。
天気がよくなってよかったなと思った。絵が描きやすいからだ。ちょっと興味があって絵を見に行ってみると、アマチュアにしては随分上手い絵が池まわりの夏の空気を精密に描いていた。迷いのない筆運びに思わず男の顔も見てしまって、びっくりして口が止まる。
絵を描いている男の左目は義眼であった。子供の山羊の言い方で言えば、「右目が動いているのにこっちだけ動いていない目」。描写対象の池に向ける表情はすっきり透徹して美しい印象すらあるのに、全体の動きの中でついていけずに眼窩にとどまっている左目の存在だけがどうにも不自然に見えた。
悪いものを見た気がして、山羊はつい顔を横にそむけた。それがまたちょっと遅かった。
「こんにちは」
声をかけたのは男のほうだった。気さくな声が響く。山羊がびっくりして、視線を男の胴体あたりにそらしながら「こんにちは」と返事をすると、男は山羊の声から緊張ぶりを感じ取ったのか苦笑して目を伏せ左目を手で隠した。
「ごめん。びっくりしたか。これならびっくりしない?」
「あ、いや……ごめんなさい」
「いや、こっちこそごめんな。左目が作り物なんだ。いつもは色眼鏡かけてるんだけど、絵を描くときは外させてもらってる。……勘弁してもらえるかな?」
「も、もちろんです」
男は山羊のこわばった返事をまた鼻先で笑った。左手を下ろした男の顔を再度山羊が見てみると、だんだん男の顔にも見慣れてくる。左目の義眼以外は誰にでも開かれた印象のある、どこにでもいそうな普通の男だった。
「坊や、お母さんやお父さんとはぐれてないか。大丈夫かい」
「いや、僕は一人できたんです」
「へえ。どうやって?」
「おじさんの家が神社で、そこから歩いてきました」
「へー! 神社の子か。そりゃすげえな。結構歩いたんじゃないか?」
山羊はうなずきながらリュックを握り締めた。
「いっぱい歩きました。……おじさんが絵描くの、見ててもいいですか?」
「うん、いいよ。お兄さんって言ってもらえるとうれしいけど」
「お兄さん? ……まあいいや。じゃあお兄さんっていいます」
「許されたんだ。まあいいや」
男は苦笑しながら絵筆を遊ばせ、肝心の絵描きをしばらく忘れたようだった。
「いや、お兄さんも一人で来たからさ。名前きいてもいい?」
「山羊です。お兄さんは?」
「俺は射手。ここには毎年来てる」
「え? ……ごめんなさい、僕も結構来てるけどお兄さん見たことないや」
「射手って呼んでもらえたらうれしいよ。山羊」
「射手さん」
一人身の男が会ったばかりの他所の子どもを連れて歩くことがどれだけ警戒されるか、射手という男は熟知していたのかもしれない。山羊が池のほかの場所に行くと言っても彼はついて来なかった。山羊が一人でことり池と植物園を満喫して、ふたたび池のほとりに戻ってくると射手はまた時間を忘れたようにことり池の絵を描いていた。
「絵うまいんだね」
「ありがとう。人に見せる絵でもないんだけどね。そう言ってもらえるとうれしいよ」
「射手さんは川田の街や森が好きなの?」
「好きだよ。子どもの時、ここに来てよく友達と遊んでた」
絵筆を動かし、遠くを見つめながら射手は山羊に喋り続けた。子どもの時にこの地方で怪我をして左目を失ったこと。それを思い出すのが嫌で、大人になるまでしばらくはこの地方に来られなかったこと。
「なんでも、怖くて一度引き返しちゃったところって余計にそうだろ。怖いと思ってそこを避けたりすると人間はそこがもっと怖いって思いこんじゃう。──それが嫌だったから大人になってからもう一度来るようになったんだけどね。
ちゃんと腰をすえて来てみると、この地方はすごく面白いところなんだよ。見れば見るほどきれいなんだ。ほんとに。でも友達にはまだ会えてない」
「友達?」
「ここの地元の子だった。もう一度会えたら、わだかまりが全部消えるような気がしてるんだけどな」
遠くに思いを馳せる射手の姿を見て、山羊は複雑な気分になった。しばらくしてから射手が黙った山羊の姿に気付く。
「射手さんはともだちがいて、いいな」
それが年齢の近い、同年代の友達というニュアンスを含んでいるらしいことを射手は自分の話の中から悟る。
「学校に友達いないのか」
「学校にはいるよ。でも川田に来てから、同い年くらいの子に会えてない。……みんな帰る家が遠くにあって、車ですぐに帰っちゃうんだ」
「俺が友達になってやろうか。第一号だ」
「射手さんは第一号じゃないよ。それだったら水瓶さんとか、先に認定したい人がいるもん」
「そっか。じゃあ何番目かの列に加えてほしいね。つうか水瓶さんって誰だ。初耳だなw」
面白がっている射手と話しているとさびしい気分も抜けていく。山羊はその場で射手を友達認定すると、リュックから取り出した乙女のおにぎりを射手と半分こにして食べた。
なんだか振り返ると川田に来てから知っている人の数がどんどん増えている気がした。乙女の家を出る時には帰りも徒歩でと思っていた山羊だったが、射手と話しているうちにバスで帰ろうと思い直す。義眼を晒しながら朗らかによそでの冒険譚を笑い話交じりに語る射手の姿は、山羊にはとてもものめずらしく見えた。