神社の中、近所のそば屋、お土産屋、移動青果店。
少ない道路沿いにひとりで歩ける領域を広げていきながら、山羊はまだ森の中を歩いたことがなかった。土地勘がない上に森歩きというものがどういうものかよくわかっていなかったのだ。チラシの裏に今まで歩いたところの地図を描いてみると、広範に広がっている未開の領域をただ「森」という一文字で済ませるしかない。山羊はテーブルにもたれながら森を示す斜線部分に思いを広げるのだった。
「おじさん。森って入っちゃだめ?」
仕事を終えて居間で座椅子に座っていた乙女にたずねると、乙女は首を横に振った。
「だめ」
「どうして?」
「迷ったらどうするんだ。お前は都会っ子でその辺の勘がないだろう。そういうのはな、森を歩いたことがある大人とか、年上の子と一緒に歩いてなじんでいくのがいいんだ」
「じゃあおじさん一緒に歩こう……」
「ん……。おじさんは日が昇ってる間はお仕事がある」
「夜でもいいよ」
「夜歩く森と昼歩く森も別物だよ。すまんな」
山羊は、サインペンを持ちながら悲しそうな顔になって黙り込んでしまった。
へそを曲げてしまったかなと乙女は思ったが放っておいた。山羊にはこの夏で多くのことを学んで欲しいと思っていたが、それも自分の目の届く範囲で育てたいと思うのが伯父心だ。なにせこの少年は大事な弟の一人息子なのだから。
「……今度、また休みがとれたらどこか一緒に行こうか。山羊?」
「それっていつ」
「一週間ぐらいかかるかな」
「わかった。どこかつれてって。でも、僕はおじさんが休みになる前に自分でもどこか行かなくちゃいけないんだ」
──おとなを待って一人で座ってるのは、もうしないって決めたんだ。
黙っている山羊の中で何かが彼をせきたてた。待っていれば一週間がまるまる不毛に終わる。だってだれも来ないから。そんな期待をするのはもうやめたのだった。
ふたたびどこへ行こうかと思案して、山羊は蟹のくれた観光チラシの湖を思い出した。湖面が鏡のように周辺の森と、山脈と空を写しこむ神秘的な景色。
「おじさん、蟹おじさんのくれたチラシのあの湖って一人でいける?」
「御鏡池《みかがみいけ》か」
「うん」
「あれは川田山の中腹にある池だ。見に行こうとしたら車を使って、さらに一日登山になる。山羊一人じゃちょっと行かせられないな」
「ツアーでもだめ?」
「子供は保護者がいないと参加できないよ。人様に迷惑はかけられん」
子供にやすやすと征服されるほど川田の自然は甘くないのだった。一筋縄でいかないんだなあ、と山羊が頬杖をついて空想の山を見上げていると、乙女おじさんは思い出したように声を明るくして山羊にこう付け足した。
「御鏡池は無理だが、ことり池ならどうだ?」
「ことり池?」
山羊は頬杖をついた状態から黒目がちな目を漆玉のように光らせて乙女の顔を見上げる。
「ことり池も景色がいい。一日頑張れば山羊の足でも行って帰ってこれるし、バスも通ってるから途中で疲れたらバスに乗って帰ってきてもいい。電話をくれればおじさんが車で迎えに行くこともできる」
「ことり池って小鳥がいるの?」
「小鳥もいるよ。植物と動物がいつも賑やかな場所なんだ」
山羊のこれまでの散策の中でも特に長い散策(になる予定)だったので、山羊は子供がてらにことり池攻略のために一日準備日を作ったのだった。
まずリュックサックに入れるものをチラシの裏に書いて準備する。水筒。大きいおむすび一個。攻略マップ(チラシの裏)。サインペン。お財布。乙女おじさんの携帯電話。レジャーシート。ハンカチ。ティッシュ。ビニール袋二枚。レインコート。絆創膏三つ。なんとなくいろんなことが不安で替えの服も入れたほうがいいだろうかと乙女にたずねたが「リュックに入らん」とあっさり一蹴された。代わりに帽子を渡される。日射病にとくに気をつけるようにとのことだった。
朝出発してことり池に行く途中で、牡牛のそば屋に立ち寄って水筒の水を補給してもらうようにと乙女に言われた。順調にいけば牡牛のそば屋で早めの昼食になる。
山羊は一通り準備を整えると、今度はメモを片手に持って外に飛び出し水瓶の移動青果店まで歩いていった。水瓶は昼過ぎになるといつも最初に出会った場所でまったり車を止めているらしい。
忙しい伯父さん以外に話をしてくれる人がいるのが、今の山羊には嬉しい。水瓶の座っている路地には森からの青葉の陰が複雑な模様をくっきりと作っていた。
「へえ。それじゃ山羊はことり池に一人でいくのか」
「はい」
「どうせならトラックに乗せてやろうか。僕もことり池方面に営業をかけると思えば、それほど面倒でもないんだけど」
「えっ……」
山羊は水瓶の言葉に迷った表情を見せたが、少し考え込むと膝に手を乗せ、これと決めた顔で首を横に振った。
「いいです。ひとりで歩くって決めたし」
「いいのかい」
「いいです」
「そうか。……そのプラン表だけど、水筒の中身は水やお茶じゃなくてスポーツ飲料にしたほうがいいな。糖分とミネラルが一度で両方摂れるしバテにくくなるから」
水瓶は山羊をいつもの椅子に待たせると車の荷台の裏に周り、スポーツ飲料の粉袋を一つもってきて山羊にくれた。
「あげる。水に溶かして飲むといいよ」
「いいの?」
「子供を日射病から守るのは夏の大人の義務。気にしないでもらっとけ」
「ありがとう。あ、ありがとうございます」
「タメ口でいいよ」
水瓶は嫌味のない淡々とした口調で笑った。
ことり池攻略について話がてら、山羊はねのと参りの途中でにょろに触ったという話を水瓶にした。それまでお兄さん面していた水瓶もこれには目の色を変える。
「やはり君はにょろに親和性があるのかもしれない。あいつらは暗闇を好むという仮説があったが、それも間違ってなかったようだ」
知性の光る落ち着いた口調で真剣にそう言われたものだから、山羊はまじめな面持ちになって”やっぱりあそこにはにょろがいたんだ”という確信を強くした。虫たちが盛大にざわめくトラック脇の木陰でにょろ捜索隊の密談は続いた。
「風みたいにさわさわしてたんだ。あのね、手の産毛をさわさわーって触ってきたんだ」
「さわさわした感触か……思ったより湿度がないのかな。あるいは髪の毛や何かみたいな体毛に近いものが触れたのか」
「なんでにょろがいるのに観光名所って言ってみんなを通してるんだろ。あそこ」
「僕があそこを通ったときはにょろには会えなかったからなあ。人間が多いときには出てこないんじゃないだろうか。暗いにしても人が喋っててうるさいし」
「水瓶さんもあそこ通ったの? ……お客さんと一緒のときだったの?」
「うん。人気スポットだからね。一人や二人なんていう少人数で入れるのはよっぽど特別待遇じゃないとなあ。乙女さんがよければ今度懐中電灯を持って一人で入ってみたいと思うんだが、君もどうだい?」
山羊はあの場所にためらいもなく懐中電灯を持ち込もうとする水瓶の態度にやや眉をよせた。そりゃ光があったらあの場所は怖くもなんともないのだろうが……抗議したくなったが自分があの場所に入って、途中で引き返したことを知られるのはいやだった。
「にょろは明るいのが嫌いなんでしょ」
「多分ね。でも生活環境みたいなものが拝めるかもしれないじゃないか」
「だめだよ。乙女おじさんがそんなの許してくれないよ」
「懐中電灯だったらポケットに隠しといて中でつければいい。一人で入っていいっていう許可さえもらえればいいのさ」
「だめ! だめったらだめ。ばちあたりになるよ」
「ばちあたりなことがあるものか。あそこは物理的にはただの木造の廊下なはずだろ。乙女さんだってもしあの中で誰かが怪我をしたりしたら、助けに入るときにはためらいなく懐中電灯を使うはずだ。いや、もしかしたら僕らが触らない反対側の壁に電気のスイッチがあるかもしれないな」
知性が乱暴に過ぎた。どんどん神聖なものからかけ離れていく水瓶の言動に山羊はつい大声を出した。
「だめだったら!!」
……しばらく周囲に蝉の鳴き声がうずまいていた。
水瓶は、押し黙ったままで山羊の顔をみた。にょろに対する学識というか認識の違いがあるのだと納得するまでに、彼は何十秒かの時間を要した。山羊は山羊でむくれっつらで膝の上に小さい拳をつくってうつむいていた。
「あそこはただの観光名所だよ。山羊」
優しくもとどめを刺すようなことを水瓶は言った。山羊はもっと意固地になる。山羊にとってねのと参りのあの通路は、まだ、いつか踏破しなければならない大きな難関なのだった。こわいけど。
「とにかく中で電気つけちゃだめだからね。勝手にやったら僕、怒るからね」
となりで水瓶が肩をすくめているのがわかる。最終的にはいつも山羊の側が許されるのだ。大人なんてたまにどうしようもなく馬鹿なのに、自分ばかりが許されている気がして、山羊は自分の子供っぽさも時々いやだった。
川田での生活もだんだん慣れてきて、山羊は乙女の待つ家に帰ると夕食も風呂も早めに済ませて布団に入った。明日のことを考えるとわくわくしてしばらく寝付けなかったものの、派手に寝返りをうっているうちにうまく体が冷えたのかたくさんの夢にみまわれる。
夢の中ではバッタやキリギリスや蝶やクモが人間みたいに喋っていた。山羊自身も何かの虫になって空を飛んだりする。いつのまにかあの暗い通路の中に迷い込んで、一生懸命出口を探したまま夢が暗転していった。