誰もいないしんとした拝殿の階段を、山羊と乙女が裸足で下りていく。一歩ごとに階段の木が太く軋む音を立てている気がした。
「壁のどこかに神様の錠前がついてる。触れるといいことがあるっていう言い伝えもあるんだ」
乙女の言葉は山羊に半分ぐらい届いていなかった。階段を降りきった山羊は乙女と手を繋いだまま廊下の壁を触り、まだ一メートルほど先が見えている廊下の暗さ加減にほっとした。子供だましなのだ。お化け屋敷だって夜道だって押入れの中だって暗いけど本当は周りが見える程度の暗さで、何も出ないとわかっていればそれほど怖くはない。こんなものにわざわざ並んで通る大人たちはやっぱりちょっと迷信深い。
……そう思っていたが、そんな強がりが通用したのは先に行った乙女に続いて廊下の角を曲がるまでだった。
角を一つ曲がると段違いに見えなくなった。
一歩先に乙女の気配があるがその輪郭も幽霊みたいに点々が動いているようにしか見えない。おぼろで、明るさと暗さの差異もよくわからない感じになる。
二人しか通行人のいない廊下だ。回廊の先から吹いてくる風が異様に冷たく感じられた。
「おじさん、いる?」
「いるよ山羊。暗いだろう。神官や修験者になると、こういう道を一人で通るのも修行なんだ」
乙女おじさんが闇の中からずっと喋りかけてくれるのは、山羊の心細さをまぎらわすための気配りなのだろうか。気がつくとおじさんの手を握り締める自分の手がとても固くなっていた。触れている場所の熱さや、湿気や汗にまで気付く。
おじさんの輪郭が見えなくなる。山羊のもう一つの手は壁がさらに折れているのを感じ取った。
もう一つまがるともう輪郭は見えなかった。
鼻先に羽虫が飛んでいても絶対に見えない。眼を開けていても閉じていても差異のない、光の失われた世界がそこにあった。人間は目を閉じたら真っ暗だというけれど、それはまぶた越しに光を感じていることを意識していないうそっこの話だったんだと山羊は思った。
「なんにもみえない」
「大丈夫だぞ。一本道だ」
壁を触る手が、ただ前に伸ばしていればいいのにメトロノームみたいに大幅に上下へとふれて、なるべく大きい面積で壁を探ろうとした。見えない上に二人でいても静かずぎる。足が思ったように進まない。自分が見えないのをいいことに、あの世の何かがすぐそばにまで来ていたらどうしようと思った。
冷たい風に混じって、一陣のなまあたたかい風が手先から肩までをのぼった。
いま”にょろ”が触ったかもしれない。触ってても自分ではわからないんだ。
「おじさん、”にょろ”がさわった」
「にょろ? おじさんのとこには黒いのなんかいないよ」
「あとどれぐらい続くの」
「大丈夫だよそんなに長くないから」
乙女おじさんの口調がなだめるような調子に変わっているのを山羊は感じ取ってしまった。そんなに長くないと言いながら結構長いに違いない。本当に一寸先も見えないせいで、息があがってとても短くなっているのが音でわかった。そうこうしているうちに手の先にまたうっすらとぬるい何かがさわった。
「出る! もどる」
「山羊、大丈夫か」
「こわい。あぶない……」
すっかり足がすくんで動けなくなったとはいえ、一歩先にいる乙女おじさんも山羊がどこにいるか全く見えないのだった。「よしわかった。おじさんも見えないから今度は山羊がおじさんの手を引っ張って戻りなさい」といわれ、山羊は闇の中で一旦両手を乙女おじさんの手につなぐと今度は反対側の手に繋ぎかえ、慌てて、でも思ったより遅い足で元きた道を戻っていったのだった。
元の入り口に戻ってきたとき、山羊は泣くに泣けず肩を落としてすっかりしょげていた。昼間は前後間断なく観光客が入っていて廊下内ももう少し安心して歩けるのだが、それがなかったのも大きかったなと乙女おじさんは顎をかきながらフォローしてくれた。
「こわかったか。山羊」
「……うん」
「あそこは神様の真下だから、悪い霊なんかは近寄らないし大丈夫なんだよ。……でもまあ怖かったな。また今度にしようか」
乙女おじさんは山羊の頭を撫でると拝殿から山羊を連れて自分の家に帰る。その晩は二人で同じ部屋に布団を並べて寝た。ひそかにいくじなしと馬鹿にされるかもしれないと思っていた山羊だったが、乙女おじさんは”霊がかかわることはそれぐらいで別にいいんだ”と割り切ってあっさりしたものだった。
次の日、山羊はねのと参りの話をしようと朝から蟹のそば屋に立ち寄った。蟹は山羊の話を聞いて眉を八の字にしながら笑っていたが、朝はどうも忙しいらしく「また遊びにおいで」といって従業員用のそば飴を二つ山羊に持たせてくれた。
人がたくさん居るように見える時期でも、この地方に定住している人間は少ない。
水瓶のところにもにょろの生態を報告しにいこうと思ったが、いかんせん移動青果店なので朝方の水瓶の居場所は杳として掴めなかった。二人の話し相手のイベントが終了すると山羊はまたしてもすることがなくなってしまった。
「……こんなところで一ヶ月もやっていけるのかなあ」
道端で座り込んでそば飴を舐めながら、そろそろ増え始めてきた乗用車の往来をあてもなく眺めた。きっと山に入って虫や草を観察していれば一ヶ月は早く過ぎてゆく。
ここに居る間はおとうさんのこともおかあさんのこともなるべく忘れていようとぼんやり決めた。まだ子どもの友達はいない。山羊はこの山奥で昼間は基本的にひとりぼっちだった。
「おじさんが言ってたほかの店もいってみよう」
することがなかった山羊は周辺の店にあいさつ回りをしてみることにした。この辺には他にも天秤のお土産屋と魚のお土産屋がある。観光客にまぎれて尋ね、「神社の乙女おじさんに世話になっています。山羊です」と両方の店の店主に挨拶して回った。
えびす顔っぽい笑顔の天秤おじさんは、「よろしくね」といいながらお土産の販売に忙しそうだった。小さい店だし売り上げに響くような手間はかけさせまいと山羊は勝手に気を使って店を離れる。
藤かごを中心に店を開いている魚おじさんは、余裕があったのか山羊を店の縁側にあげて色々な話を根掘り葉掘り聞いてきた。都会の事情に飢えていたらしい。「この時期にこんなにお客さんこなくて大丈夫なの?」と山羊が尋ねると、金持ちの道楽だからいいんだよというとんでもない答えが返ってきた。
「店先から見て中が暗く見えるのがよくないんだと思う。お金持ちならお店の中の電気を増やしたほうがいいよ」
「竹が色あせるかと思ってやってなかったんだけど、考えてみたらそうかもね。もう少し高級感を出した内装に改装したら売れるかもなあ」
でもそうしたら天秤さんに恨まれちゃうな、といって魚は笑っていた。近所で同じような商売をしていると付き合いは何かと面倒らしい。
「天秤さんはね、この辺で一番売り上げのいいきれいなお土産屋さんだってことを誇りにしてるんだ。過去にもいろいろお土産さんが新しく開いたことがあったけど、あんまり売れすぎると天秤さんが噂話をしながらさりげなくそこの嫁姑事情とか旦那の浮気話とかいろんなことを教えてくれるんだよ。おかげで天秤さんの店はここ十数年売り上げトップなんだ。まあ彼の場合忙しいほうがお互いのためなんだね」
「……刃向かっちゃだめな人ってこと?」
「長く付き合ってるとクセが見えてくるってだけで、それはそれで苦労するんだよ。天秤さんも。あ、言っとくけど乙女さんは安泰だ。神社さんのおかげでこの辺の商売はもってるわけだからね」
「あんまりおっきいお店に見えなかったよ。こっちのほうが広いし」
「それは天秤さんの前じゃ言っちゃだめだよ。薄暗くてぼろっちいのがうちの売りだから。こっちがあんまり目立たなきゃ、天秤さんは誰にでもいい人。これもほんとだ」
山羊は魚の話をきいているうちに子どもながら憮然とした顔になってきた。
「よのなかってよくわからない」
軒先にころんと転がる。魚は笑いながら山羊にそば饅頭をくれた。大人ってなんで子どもにおやつばっかりいっぱい食べさせようとするんだろうと、山羊にはそれもわからなかった。