夏も盛り、この時期の川田地方の店舗にはほぼ一ヶ月休みがない。乙女の神社もそのご多分に漏れなかったが、乙女はある日同僚の神官に半日神社を任せると山羊を連れて近所のそば屋を訪れた。
「山羊も遊びにきたときはよくここのそば屋で食べてただろう」
「うん。ここってそば屋さん何件ぐらいあるの」
「この辺一帯で言うと三十件ぐらいあるんじゃないか。遠くにも出てる店があるから」
早くも真っ黒に日焼けし始めている小さな山羊の身体に、店に入ると同時にクーラーの冷気が当たった。いつもの作務衣で気軽に歩く乙女はすっかりこの店の顔なじみだ。席につくやいなやすぐに出された氷水のグラスに透明な結露が日光を含んでまとわりつく。
乙女がメニューも見ずに山羊の前で店内を眺め、山羊がちょこちょこメニューをめくって何を注文しようか迷っているとしばらくして店の奥から温厚な顔をした男が店の前掛けをつけて出てきた。ここの店主の蟹らしい。
「乙女さん。甥っ子連れてきたって本当かい」
「ああ。挨拶も兼ねて連れてきたんだが……参ったないつの間に知れたんだ」
「水瓶君が野菜持ってきたときに言ってたんだ。もうそこらへんの店ならみんな知ってるよ。
というか、僕がかなり広めてしまった。ごめん」
謝りながら愛嬌のある笑みでもってこめかみを撫でる。辟易した顔を作る乙女の様子も慣れたものだ。赤の他人にはあまり表情を動かさない乙女おじさんがこんな顔を作ってみせることからしてかなり仲がいい人なのかな、と山羊は口を閉じたまま思った。
「こんにちは。はじめまして」
「甥っ子。山羊って名前なんだ」
「始めまして山羊くん。蟹です。川田へようこそ」
手堅くお子様そばセットを注文した山羊に対し、蟹は「はい」と応えながら川田地方の観光チラシを持ってきてくれた。手前に鏡のような湖を構えた山脈の写真に夏の間の観光イベントが涼しげな文体で印刷されている。
「ゆっくり居るみたいだから、山羊くんも何か参加したら面白いかもね。
乙女さん。乙女さんはいつものでいいかい?」
「ああ。ありがとう」
二人の注文をうけた蟹が浮かれた調子でまた裏のほうへと戻っていく。山羊はそれを見送ってからチラシを手に乙女に尋ねた。
「いつものって何?」
「天ざるそば」
「おじさんと蟹さんってお友達なの?」
「まあな。ご近所さんだし、町会の委員なんかでも一緒になる」
蟹の店のそばは観光地らしく満足のいく美味さ加減だった。お子様そばセットなどをメニューに入れるあたり格式よりも大衆性を好んで取り入れているらしい。お子様そばセットについてきた杏仁豆腐をつるつる口に入れる山羊の前で、乙女は旨そうな息をつきながらそば湯をすすっていた。
「このチラシ、ハイキングとかお祭りとかそばの花を見るツアーとか色々あるんだね」
「山羊も何か申し込んでみるか?」
「うーん、まだ決めてない。この湖のあるところ行ってみたいなあ」
山羊がチラシを前にいろいろ考えていると店の奥からまた蟹が出てきた。蟹はどうも子供好きらしく、「ごちそうさまでした」と挨拶した山羊を乙女よりも猫かわいがりしそうな勢いだ。この手のかわいがりに子供ながら馴染みきれない山羊である。
「山羊くんはもう”ねのと参り”はしたのかい?」
「ねのとまいり?」
「ん、まだ行ってないのかな? おじさんの神社の拝殿のとこにあったよね?」
「山羊にはまだ早すぎる。せめて小学校高学年になってからだ」
横から口を挟んだ乙女に山羊はやや眉をよせ、乙女の顔を見返した。一瞬聞き返すのをためらったのはそれが大人の話なのかどうか判断がつかなかったからだ。乙女はすぐに山羊の顔を見て彼の様子を把握したが、視線を抜いてわずかに肩をすくめただけだった。
「山羊くんにも教えてあげたらいいんじゃないの。乙女さん」
「む……」
「山羊くんは一人で神社の中を歩いてるんだろう。誰もいないときにいきなりあそこに入ったらパニックになるかもしれない。
ここにいる間に、乙女さんが一緒になって案内してあげたらいいと思うんだけどどうだい」
かくてその日の真夜中、人もいなくなった神社拝殿内に山羊は連れてこられたのだった。古びた白熱電球が灯された堂内は木肌の色がより色濃く強調され、各種の調度品類が素朴でありながらおごそかな雰囲気をかもし出している。
中に入る間絶対に手を離すんじゃないぞと前置きしてから、乙女は拝殿の隅にある小さな下り階段に視線を泳がせた。
「おじさん、ねのと参りって何するとこなの?」
「うん。あそこに小さな階段があるだろう。あれを下ってな、本殿に祭ってある御神体の真下に通ってる地下通路をくぐる。根の国の戸……つまりあの世に近い場所を一時的に通るから”根の戸参り”っていうんだ。あまりに小さすぎる子供だと根の国に呼び戻されるかもしれないから、小学校に入っていない子は特に通行禁止にしてる」
「地獄?」
「神道には地獄はないよ。肉体を抜けて霊になってしまうってことだ」
「ふーん。でも僕もうすぐ小学校高学年になるし、平気だよ」
「いや、霊的なこともそうなんだがな。あの地下通路は中が真っ暗闇なんだ。完全に外からの光を遮断するつくりになっているから、目を開けてても前が見えない。歩くときは右手を壁について、ずっと壁を探っていきなさい」
乙女の説明を聞いてにわかに足がすくんだが、怖いというだけでやめるのはどうにも格好がつかなかった。二人は地下への階段の前まで歩いていくと、地下にいたる木造の廊下を見下ろす。廊下はまだ上からの光を受けてきちんと見えていた。どうせ奥も暗闇といったって、ほんの少しぐらいは見えるだろうと山羊はたかをくくった。
「どうする。やめておいてもいいぞ」
山羊が首を横に振ったの受けて、乙女が”うむ”とうなずく。二人はしっかりと手をつないだ。もっぱら乙女おじさんの大きな手が山羊の手を繋ぎとめてくれている感触だった。
「よし。じゃあいくか」