星座で801ログ保管庫出張所

やぎの夏休み(自由研究)

 初めて山羊が乙女の家にお泊りした次の日の朝、山羊が布団の中でうごうごしていると寝室にはもう台所からご飯と味噌汁の匂いが漂ってきていた。まだ日も昇りきらぬ早い時間で、山羊は起きるか起きまいかうたた寝のまま迷っていた。
 いつもみたいに出勤前の母親か父親があわただしく起こしにくるのかなと思っていたが、いつまで待っても自分を起こしに来る声がなかった。どこかで安堵しながら急にじわっと涙が出そうになって、
「さびしい」
 と、布団の中で消えそうなちいさな声を漏らした。

 それから約二時間後に乙女が山羊の部屋の襖を開けると、山羊はまだ布団の中で丸まっていた。子供だからよく寝るのかなと思いながら乙女が声をかける。
「山羊。朝だ」
「はい」
 すぐに返事が返ってきた。起きていたが乙女が声をかけるまで布団の中にいたのだ。すぐに布団から出ててきぱきと布団をたたむ小さい山羊を見て、乙女はつい「無理しなくていいぞ」と山羊に洩らしてしまった。
「無理してないよ。布団あげるんでしょ?」
「うん。まあそうなんだが……うーん」
 他の自由気ままな子供たちと比べて、できた子だと褒められる。そういう風にして山羊は”かっこいい”自分を満足させてきたのだった。従ってこの手の規則を守ることは山羊にとってすぐ習慣になるのだ。
 乙女おじさんは山羊に対してどう扱ったらいいものか、早くも思案している様子だった。
「おじさんが子供の時だって、そこまで進んでやらなかったもんでな。よっぽど家のしつけがしっかりしてたんだな」
 山羊は何も言わなかったが代わりに布団を上げながら顔をむっとさせた。乙女が眼鏡の向こうからくだけた調子でその甥っ子の表情を読み取る。
「お前のお父さんに学ばせたいぐらいだ。汚い家でもお前がいたらきれいになる。真面目なのも才能だよ」
 無理やり布団を押し込んでいた小さい腕がちょっと緩んで、布団のふくらみを受け止めた。山羊がきょとんとした顔になったのを見てから乙女はさらりと朝食をとるよう告げて台所へと先に戻った。

 山羊は乙女おじさんといるとちょっとペースが狂うのだった。
 なんというかだんだんやんちゃでいい加減になってくるような気がする。それまで動かすこともなかった足を朝食時にふらふら振るような感じだ。
「山羊、宿題はやったか」
「やったよ。自由研究だけ決めれなくて持ってきた」
「ふむ。おじさんは残念ながら稼ぎ時なんで昼間は相手してやれん。困ったことがあったら神社のどっかにいるが、それ以外は勝手にやってなさい」
 朝食が済んでから山羊は乙女が洗い物をするのを率先して手伝った。乙女も止めない。自分のものだけ洗ったら後はいいと言われたので、山羊はそのまま何かをやるあてもなく居間のテレビをつけて畳の上にごろりと転がった。
 やはりテレビでアニメはやっていなかった。山羊は十分ほどごろごろしてすぐに飽きてしまい、作務衣を着替えている乙女に「外に出てもいい?」と訊いてすぐに外へと出て行った。


 神社のある川田地方はおりしもお盆時でレジャー客が毎日行楽に押し寄せている状態だった。名物のそば屋が乱立するメインアーケードらしき一角はあるのだが、そこ以外は隣家まで十メートル二十メートル単位で離れているのがザラ、しかも全て山中という典型的な田舎の行楽地である。
「みんなでおそば食べたことはあるけどそれ以外のとこって行ったことないんだよなあ……」
 夏の最中なのに、下の街と比べていつも涼しかった場所。変わりやすい天気と手入れされた林を吹き降りる山風。今日は入道雲が大きい。
 山羊は道路を歩き出した。絶えず往来する車をよけながら、レジャーに来ている家族連れやさまざまな人々を観察してきょろきょろ首を左右に回す。みんな今日中にどこか遠くへ帰ってしまう人たちばかりだった。なんとなく声をかけられずにいたが、それでもまだ一人で散歩するのを寂しいとは思わなかった。
 一日目はあちこちのおみやげ屋の主人の顔を覚えることから始めた。お店の中をうろうろしながらただ店の人の顔を観察する。若いおねえさんからおじいさんまで勤めている人はいろいろだった。あとで乙女おじさんにあの人たちのことを聞いてみようと思いながら、お昼時までかなりの時間を一人で歩いた。
 山羊のお腹が健康に空腹を訴えたとき、山羊はメインアーケードからかなり離れた通りまで歩いてきていた。飲み物もお金も持ってきていない。山奥には水を飲める蛇口がないんだということを山羊は汗だくになりながらようやく知った。
 涼しいとはいえ紫外線はそれなりにあったので歩きながらくらくらしていた。戻るべきか行くべきか。もう少し道路を行った先にトラックを改造した青果即売所が出ている。車の横で誰かが暇そうに三脚椅子に座っているのを見つけて、山羊はそっちへと歩いていった。
 喉が渇いて吐息が熱く埃を吐いているような気がした。
 三脚椅子に座っている店員は二十代中盤とおぼしき垢抜けない男だった。無言で手帳に書き物をしていたが、山羊が近くまで歩みよっていくとお遣いの子供とでも思ったのか「いらっしゃい」と不思議そうな視線を山羊の顔へ向けてくる。
「すいません、お水ください」
「日射病かな。お父さんとお母さんは?」
 山羊は息を荒くして首を横に振りながら、どうにか「きてません」と告げた。
「この辺の子? それともおじいちゃんかおばあちゃんの家にでも泊まりにきたのかい」
「おじさんの家に泊まってます。お水……」
 汗を拭きながら山羊が今にも座り込みそうな様子だったので、店員の男はまず店先のひさしの下に山羊を通した後水筒の中から麦茶を注いでくれた。山羊がもらった麦茶を一気に飲み干す。大きく息をついてすぐに「おかわり」と大きな声を出した山羊に男は呆れながら二杯目の麦茶を注いでくれた。
「あんまり飲むと水っ腹になるぞ」
「お茶おいしい!」
「すいかも食べるか。麦茶だけじゃ塩分がとれないだろ」
 笑いながら店先のすいかをトラックの裏へともっていく。山羊がお礼を言いながら名前を尋ねると男は水瓶と名乗った。水瓶が切ってくれたすいかはぬるかったが、塩が十分にふられていてその時の渇ききった山羊にはひどく美味しく感じられた。
「あー、乙女さんとこの甥っ子か。こんな僻地によくきたね」
「水瓶さんは八百屋なの?」
「八百屋だよ」
 わざとらしく周囲の目をうかがう水瓶の姿に山羊がすいかをほおばりながら目をぱちくりさせる。水瓶は慎重に周囲の人影がないことを確認すると、身をかがめるようにして山羊に耳打ち話をした。
「ここだけの話、僕は”にょろ”を探している」
「にょろ?」
「なんか黒くてにょろにょろしたやつだ。他にも進化系とか違う生態系のやつが何種類かいるのを確認してる。そういうのを捕まえて学会に発表すると、その生物には発表者が好きな名前をつけることができる」
 山羊の身体が固まる。水瓶は山羊がこちらを見返す視線を見るなり「君も見たか」と語調を熱くした。
「あれ、にょろって言うんですか!」
「仮の名前だ。学会に発表するときは『ニョローリ・ニョロリーネ・ミズガメウス』という学名で命名しようかと思っている」
 感心の声をあげながらすいかを握る山羊に水瓶は得意そうな顔で満足げにうなずいた。それから流暢な台詞回しで
「だから君、そのすいかの代金だと思ってちょっと店番をしていてくれたまえ。簡単なアルバイトだ。僕は少しの間そこの森に入ってフィールドワークしてくるからね」
 と繋げ、反応に困っている山羊を置いてさっさと森の中に入っていった。。山羊は結局そこで三十分ほど椅子に座って店番をし、途中で買い物をしにきた観光客に桃を一パック勝手に売った。
 フィールドワークから戻ってきた水瓶は特に収穫もなかったようで、研究には労力がかかると肩をすくめていた。山羊もこれ以上他のルートを開拓するには足がくたびれている。しばらくトラックの陰に座って一緒に店番をした。乙女以外で初めての話し相手ができて嬉しかったというのもあるかもしれない。
 水瓶いわく、神社に一番近いところにあるそば屋の店主が「蟹(常連とよく話してる)」、少し遠くにある一番有名なそば屋の店主が「牡牛(忙しいらしく顔は見られなかった)」、蟹のそば屋の近くにあるおみやげ屋の店主が「天秤(笑うと目が恵比寿さまっぽい)」、そのまた近くにある竹細工屋の主人が「魚(暇そう)」という名前らしい。
「みんな僕より年上だ。君みたいな子供がしばらくいるってわかったら、みんな喜ぶと思うよ」
「僕と同じくらいの子供はいないの?」
「僕の知る限りではいないな。小学生がいるような家はみんな星座市の近くの町まで引っ越してしまった。この辺は小学校自体がないんだ」
 話を聞きながら山羊は納得とともにさびしさを覚えた。見せたくない感情があるとつい無口になってうつむく。水瓶は山羊の心を知ってか知らずか、構わぬ顔をして自分の手帳をパラパラとめくってみせる。中には山羊の見た黒いにょろ以外にも異形のものたちがたくさん書かれていた。
「君もノートにつけたらどうだ。自由研究とか」
「幽霊はノートにつけても自由研究にならないよ」
「君はあれを幽霊だと思っているのか? 僕はあれがどう見ても新種の生物に見えるんだが」
「どっちにしても学校の先生にうそっこ書いてるって思われるのは一緒だよ」
「僕は君ぐらいのころ街中の農家を訪ね歩いて片っ端からすいかを叩き割ったことがある。農家ごとのすいかの違いを研究するためだ。大きさ・甘さ・たねの数・日照具合・水遣りの時間・土のペーハー値・肥料と農薬の使用量まで全部調べた。ちょっとばっかし割った量が多かったんで農家と親は激怒したが先生は大喜びで研究自体は県知事から金賞をもらった」
「……それが?」
「科学に必要なのは純粋な動機だってこと。あと、多少無茶でもそういうのは後で大化けする可能性がある、ってこと」
 ちょっと得意げになる水瓶の鼻先が双子に似ていた。大人って何で時々軽くて大人気ないんだろう。ふーんと露骨に棒調子で返したら水瓶はあてが外れた顔をしてぽりぽりとうなじを掻いた。
「夢がある話だと思ったんだが」
「夢で先生褒めてくれないよね」
「レアリストだなガキのくせに」
「あっガキって言った」
「うるさいなあ」
 余計むきになってつっかかる山羊を鼻白んだ顔であしらう水瓶だった。山羊はむくれながら「すいかありがとうございました」とつっけんどんに言い放って即売店を後にする。神社まで帰ると昼を過ぎてもうおやつの時間になっていた。
 乙女は台所の冷蔵庫におむすびと漬物を置いておいてくれた。山羊はこれも食べてひと心地つけるとまた居間に横になり、あとで乙女の仕事を覗いてみようと思いながら身体をうんと伸ばす。
 日暮れ時になって乙女が家を覗いてみると、山羊は風鈴の音を聞きながらタオルケットもかけずに、畳の上で寝息をたててのびていた。