眼鏡を外した乙女は、壁の時計を見つめている。
そして時計のあらわす時刻を読んでると同時に、見ているのは、この家のある山のふもと。
山道の入り口で、戦いを始めようとしている天秤の姿だ。
「天秤は閉店した売店に潜り込んでいる。手を胸に当てている。いまシャツのボタンを開き始め」
「説明しなくていいよ、そんなこと」
「……俺だけ覗きなんて不公平だ」
「仕方が無いだろ」
乙女はしばらく微妙な表情をしつつ、天秤のストリップを遠視していた。
やがて口を開く。
「……時間通り。いま車が山道に到着。道路を走り、いま急なカーブを曲がっている。減速した車に、山の斜面に待機していた天秤が飛び込んだ」
乙女は目を閉じて、視点の位置を変更しているみたいだった。
「車内の様子。運転手がひとり。助手席にひとり。後部座席にふたり。すべて天秤があっさりと始末し終えた。制御を失った車内から、天秤はすみやかに脱出」
乙女の表情が歪む。そりゃそうだろう。言葉では表しきれない残酷な風景を、乙女は見ているはずだ。
すかさず蠍が、乙女に声をかける。
「よくやった。助かったよ乙女。おまえの能力がなければ、俺たちはなにもわからないところだった。おまえは俺たちを助けた。おかげで俺たちは安堵できる。だからおまえも安堵できるはずだ。そうだろう?」
それは蠍による、乙女の心に添わせるための、複雑な催眠の言葉だった。
乙女は、ほっとしたように息を吐いた。
「すまない蠍。もう大丈夫だ」
それで、みんなから緊張が抜けた。
穏やかになった空気の中、蟹がコーヒーをくばりつつ、乙女に尋ねる。
「天秤の様子に、おかしなところは無いんだね」
「怪我はない。様子も落ち着いている」
「よかった。彼は無茶をする人ではないけど、受けてしまった傷を隠すようなところがあるから……」
そして未来の予定が書き込まれたタイムテーブルの紙を、山羊が確認する。
「次の出来事が起きるまでは、しばらく間がある。いちど天秤を引き上げたほうが良いんじゃないか?」
暇そうにしてた射手が、さっと手をあげた。
「じゃ、行ってくる」
待てと、獅子が止めた。
「射手、牡羊を連れて行け」
俺?
水瓶が反論した。
「それはよせ。牡羊は今回の出来事のキーだ。なるべく家に置いて守ったほうがいい」
正論だとは思う。しかし俺には、獅子の考えもわかる。
そして俺の予想通りの戦法を、獅子が語った。
「無駄だ。敵も未来を変える能力を持っているのだろう。なら、どう守っても意味が無い。だったら攻めろ」
あえて敵前に俺をぶら下げて、ゆさぶってやりゃあいいんだ。敵の目的が見えるかもしれねー。
あと単純に、獅子は射手を心配してるってのもあるだろう。
そして俺のほうも、勝ち負けって意味じゃなく、天秤が心配だ。
みなが考えるために沈黙してる中、カチカチと音が鳴り響いた。
双子がカッターの刃をのばしてた。そしてだれが止める間もなく、双子は手のひらを切った。
だらっと流れ落ちる血のしずくを目で追いながら、双子は言う。
「行ってすぐに即死ってことは無いみたいだ」
魚がすかさず双子を治しにいく。――家族で固まってて便利なところは、誰がなにをしてもすぐにフォローできることだ。
なにをするにも、人数は多いほうがいい。俺は射手を見た。
射手は何も言わず、俺にくっついてきた。
その瞬間、俺と射手は、森の中に居た。
湿っぽい風が俺の左右を駆け抜ける。蝉の声がうるさいくらいに響いている。
射手は辺りを見回すと、大声で叫んだ。
「天秤ー。どこだー!」
がさがさと足音がした。
俺は警戒して身構えた。距離を取って、目前に意識を集中する。
しかし表れたのは天秤だった。どこかに置いてあったらしい服のボタンを止めつつ、こちらに歩いてくる。
そして天秤は、首をかしげた。
「まあ大声でぼくを呼んでしまった時点で、これを言っても意味が無いんだけど。大きな音を出すのは、やめたほうがいいんじゃないかな」
射手は、肩をすくめた。
「わざとやってるんだ。予定に無い行動」
「なぜ?」
「作戦らしいぜ。俺らがこうして、相手の行動を読んで行動しても、相手はさらにそれを読んでるから、その予定をさらに……。わけわかんないな」
「うん。わからない」
「井戸マークに○×書いて遊ぶゲームに、勝手に△をつけてみよう、みたいな……」
「うん。やっぱりわからないから、早く帰ろう。迎えに来てくれたんだろう?」
射手はなにも起こらないことが不満みたいな感じだった。
俺も拍子抜けはしたが、安堵もしつつ、手招きをする射手に向かって歩いていこうとした。
そのとたん、世界が暗転した。
俺は暗がりで、土と枯れ葉にまみれながら呆然としつつ、一瞬で敵の正体を悟っていた。
頭上を見上げる。俺の背よりはるか遠いところに、落とし穴の出口が見える。
そして、さらにその向こうには、交差しあう木の枝が見えて、そこに掴まってこちらをのぞき込んでいる、馬鹿の顔も見えた。
「はっはっは! 引っかかったな悪人め!」
どっと緊張感が抜けた。孔雀かよ。
俺は立ち上がってケツの土をはらうと、穴を這い上がろうとした。
しかし湿気をたっぷり含んだ土はすべる。仕方が無いから足元の土を持ち上げるかと思ったところで、上方の出口に、天秤の顔がのぞいた。
「大丈夫?」
「おう。手がかりがねえから、地面ごと浮こうかと思ってたところだ」
「能力の無駄遣いはやめよう。なにか掴まれるものが無いか探してみるよ」
「孔雀は?」
「孔雀って、敵の名前? 射手が遊んでる」
天秤は顔を引っ込めた。
しばらくすると、頭上からツタが振ってきた。
すがって登り、地上に立つ。そしてさらに上を見上げると、孔雀が空を逃げ回っていた。
飛ぶ孔雀の背中に、射手が出現してつかまる。孔雀は必死で振り落として逃げるんだが、射手は即座にジャンプして位置を変え、また孔雀をつかまえる。
遊んでるのはわかるが、射手の心臓が心配なので、俺は二人を近くまで引き寄せた。
孔雀は俺の上方に、水平に浮いている。その背中に射手がまたがっている。
孔雀は、必死の形相だった。
「な、なんという卑怯な能力だ」
射手が本気で卑怯だったら、おまえ今ごろ、どこかの嫌な動物の檻の中にでも閉じ込められてるぞ。
天秤は俺のとなりで、ニコニコと笑っていた。
「牡羊、できれば孔雀の体を、どこかと接触させてほしいな。僕の能力は、浮いている連中とは相性が悪いから」
聞きつけた射手が眉をしかめ、同時に天秤の目前にジャンプした。
「やめろ。孔雀は連れて帰る」
「僕らの家族にする気かい? うーんそれは、ちょっと問題がある気がするよ」
「ちがう。孔雀のことは、獅子に判断させなきゃ駄目だ。昔の仲間らしいから」
俺はとりあえず能力をはなち、さっき落とし穴から出るのに使ったツタを持ち上げ、針と糸をあやつる要領で、孔雀のからだに巻きつけた。
そしてツタの一端を手に握り、ぐいと引っ張って、縛り上げた孔雀のからだを地面に引き落とす。
「よし。射手、そろそろ帰……」
天秤の体が、射手の体を透過した。射手のからだの前面に、天秤の服が貼りつく。
俺の視界で、天秤が孔雀に走り寄っていく。手を差し出し、縛られた孔雀のからだに触れようとしている。
しかし天秤の手が孔雀のからだと接触する直前、ジャンプした射手が、孔雀のからだに覆いかぶさった。
天秤はさっと手を引いたが、射手の体内をすこし傷つけたらしい。射手は痛そうに呻いていた。
俺は叫んだ。
「なにやってんだよ、天秤!」
天秤は目を細めて二人を観察している。たぶん射手のからだの厚みと、その向こうの孔雀の体の位置をさぐっている。
それを悟ったらしい射手が、孔雀ごとジャンプした。10メートルほど遠い位置に出現する。
天秤は顔をあげ、距離を計り、あきらめたように肩をすくめた。
二人のうち「移動する力」そのものは、射手のほうが強い。走り寄っても逃げられるだけだと考えたんだろう。
俺はさっきと同じことを天秤に聞いた。なにを、って。
天秤は世間話みたいに答えた。
「獅子はあれで優しいからね。敵には容赦ないけど、むかしの身内に手を出せる男じゃない」
それは逆に言えば、だからかわりに天秤が手を出すんだ、って意味だ。
天秤の行動は、間違ってはいない。川田の一味が、俺らの家にたどり着くまでに倒してしまうのが、今回の作戦だからだ。
だからこそ天秤は頑張って、さっき四人も倒してきたのだ。
ここで捕虜を捕まえちまう意味は、あまり無い。たとえそれが、もとの獅子の仲間だとしても。
むしろ危険だ。孔雀がいま、川田の一味になっているとしたら、連れ帰るというその行為が、どんな未来につながるか分かったもんじゃない。
しかし……、俺はそれでも、なにか違和感を感じるんだ。
俺に天秤が説得できるか?
「孔雀からは色々と聞き出せると思うぜ。みんなの能力を使えば。蟹と蠍と山羊と……」
「そのこと自体が問題なんだ。家族に彼を会わせるというのが」
「なにが問題なんだよ。いいじゃねえかべつに。みんなに判断させりゃ」
「僕は獅子の過去をすこし知ってる。なぜ獅子がむかし何故、自分がリーダーだったグループを抜けたのか知ってるかい?」
俺は首を横に振った。本当に知らなかったからだ。
天秤は裸のからだを、俺のほうに向けた。
「裏切り者が出たからだ。メンバーの誰かが獅子を裏切った。そして裏切り者の正体は不明なままだ。獅子としては誰も疑いたくなかったんだろうね。狙いが自分なのは明らかだったから、グループを解散するしかなかったんだよ」
「その裏切り者が、孔雀かもしれねえって?」
「あるいは。だから彼を家族に会わせるのは反対だ。仲間を裏切るような人間は、危険だ」
天秤の言葉が、自嘲に聞こえたのは、俺の気のせいだろうか。
俺は天秤を説得することをあきらめた。そもそも向いてねえ。俺は俺の言葉でしか語れねえ。
「天秤! 頼むからやめてくれ。この通りだ。天秤が正しいのかもしれねえが、俺は馬鹿だから判断できねー」
「僕は牡羊が馬鹿だとは思わないけど、自分が正しいとは思っているよ」
駄目だ。俺は射手に怒鳴った。
「家に飛んでくれ射手! 孔雀を連れて!」
射手は素早く納得してくれた。さっと姿を消す。
俺はほっとした。地面に落ちていた服を拾い上げて、天秤に差し出す。
天秤は受け取らず、困った顔をした。
「強引だね、牡羊」
俺はなんか、恨めしい気分になった。
「うまく言えねえけど、孔雀は違うと思うんだ。勘っつーか」
「僕を信じてはくれないんだな」
「信じてる。だから弱ってんだろ」
「……」
「けど天秤が正しいとしても、正しいのと、良いのとは、ちょっと違うと思うんだよ」
「……」
「うまく説明できねえ! あーもう、こういうときって何をどう言えばいいんだ?」
髪をかきむしって考えていると、なぜか天秤は笑った。
そして俺の肩を抱いた。
「僕が悪かったよ。すこし判断を急ぎすぎた。すまない。本音を言うとね、焦っていたんだ」
焦る? 天秤が?
天秤はなんか、はにかむみたいな顔をしていた。
「うん。焦ったんだな。牡羊がここに来るなんて予想外だったしね。これ以上、家族ときみを、危険な目には会わせたくなくて」
「敵を焦らせるための作戦だったんだけど」
「それで僕が焦ってれば世話は無い。本当に悪かった。すこし歩いて頭を冷やそう」
そして天秤は宙を見上げた。
「乙女、視てるかい? 僕らは歩いて帰るよ」
ふたたび差し出した服を、天秤はやっぱり受け取らなかった。「実は裸のほうが歩きやすいんだ」と言って。
たしかにそうみたいだ。裸の天秤には障害物が無い。樹木を通り抜け、落ちてくる木の葉を透過させ、ただまっすぐに歩いていくだけでいい。
幽霊か、妖精か、そんなもんにも見える。正直、綺麗だ。
体力には自信があったんだが、ついていくのに苦労した。
汗をかきつつ思った。本当は綺麗な天秤なのにな、って。