毎日が話し合いと、作戦立てと、準備の日々になった。
活躍したのは乙女だった。なにかについて計画を立てたい、という場合において、乙女の能力はとても役に立つ。
地図を広げて、どこかの状態を見たいと思えば、乙女に聞けば良かった。誰かの居場所を知りたいと思えば、乙女に聞けばよかった。乙女に見えないものは無かった。
だから俺たちはちょっと、乙女に頼りすぎたんだと思う。
あるときのことだ。その日はみんなそれぞれ用事があって、外に出ている者もいれば、部屋に居る者も居た。
俺は、暇だった。力仕事が必要無く、頭を使い計略を立てる段階だったから、やることが無かったのだ。
だから居間で、牡牛と宿題をしていた。いや正確には、牡牛の宿題で俺のぶんの答えあわせをしていた。
そして二階の部屋から乙女が出てきて、廊下から階段へ向かおうとしている姿を、俺は一階からなんとなく見ていた。
階段の前に来たとき、乙女の姿が揺れた。
喉もとを押さえ、のけぞり、身を折り、それからくず折れていく乙女の姿を、俺はハッキリと見た。
俺は咄嗟に力を放った。乙女の胴体を宙に固定して、階段よりも奥に移動させて、ゆっくりと落下させる。
それから走った。階段を二段飛ばしに駆け上がり、乙女のもとにたどり着く。
乙女は廊下に倒れて、体を曲げて苦しんでいた。
俺は家に居る連中を呼ぼうとした。廊下の手すりから身を乗り出し、叫ぼうとした。
そのとき、うしろから肩を引かれた。
振り返ると、自分の部屋にいたはずの山羊がいた。首を横に振り、静かな声で言う。
「騒ぐほどのことじゃない。死にはしない。だいいち乙女が嫌がってる」
乙女を見ると、たしかに片手を上げて、俺を制止するような姿勢を取っている。
けれど息は苦しそうだし、体の震えもひどいし、顔色は悪い。俺は戸惑った。
牡牛も二階に上がってきた。乙女の様子を見て目を丸くする。
けれど牡牛はすぐに、何かを思いついたような顔をして、ハンカチを取り出すと、かがみこんで乙女の口元に当てていた。
見ていた山羊が、それで良いというふうに頷いた。
「不安神経症、パニック障害。過呼吸症候群。制限によるものだ」
山羊の説明によると、本人は死ぬほど苦しいらしいが、どこが悪いというわけでもないんだそうだ。過度の不安が神経を狂わせているだけらしい。
辛い制限だなと言うと、山羊は悩ましげに眉を寄せた。
「からだの問題は、癒えさえすれば問題ないが、心の問題は尾を引く。俺も制限のあいだは心を失っているが、正直、怖いよ。究極に無防備な自分をさらすわけだから」
「なにかされても、どうしようもないわけだ」
「ああ。まわりの人間を疑ってしまう自分が嫌になる」
心を縛る制限。だから魚よりも、蠍の領域なのだが、どちらも外出している。
薬箱をあさろうかと言うと、山羊は考えるようにうつむいたあと、やはり首を横に振って、俺の耳元に口を寄せた。
「それよりもむしろ、心配なのはこのあとだ。不安は欝状態を呼ぶ。そうなると乙女は、自分で自分を傷つけ始める」
薬や、蠍の力が、本当に必要になるのはそのときだから、それまでは騒がしくしないほうが良いのだという。
牡牛が乙女を抱き上げた。乙女の部屋まで運んでいく。
俺は、扉を開くのを手伝った。乙女が寝かされるのを見届けると、廊下で山羊と話し合った。
で、俺と山羊と牡牛、三人で、交代で乙女を監視することになった。
※※※
部屋のベッドに寝かされたあとも、乙女はしばらく苦しんでいたが、やがてふつうの呼吸を取り戻した。
まだ疲れた顔のまま俺を見上げて、こう言った。
「俺の眼鏡は?」
ドアを開いて廊下を覗いてみたが、落ちてなかった。
無いぞというと、乙女は眉をしかめた。
「あれが無いと何も見えない。仕事にならない」
「今日はゆっくりしてたらいいんじゃねえの」
「そうはいかない。時間もないし、出来る準備は完ぺきに整えておかないと」
言いながら乙女は身を起こし、宙を睨んだ。
「……山道の工事が、終わってる。道具を撤去している。やはりルートの変更は無いから……」
俺は、驚いた。いま制限で倒れたばかりなのに、また能力を使ってるのかこいつは。
ベッドに飛び乗って手を伸ばし、乙女の目をふさいだ。けどそれじゃ意味が無いってことも知ってた。
だからとりあえず、くすぐっておいた。
ひとしきり乙女を暴れさせたあと、もう何も見てないと確認してから、俺は手を離した。
乙女は肩で息をしつつ、俺を睨んだ。
「なんなんだ、いったい」
「今日は休むんだよ乙女は。神経が参ってるんだから」
「いま思い切り暴れさせておいて、休めもくそも無いだろう」
「体は大丈夫なんだろ? あんたの制限は。だから、心を休ませねえと」
「……何かしてないと苛々する。働かせろ」
「駄目だ」
乙女はむっとしていたが、俺は動揺することなく乙女を見返した。
やがて乙女はあきらめたようだった。ぱたっと上体をベッドに倒すと、体を向こうに向けてしまう。
そのまま「視て」るんじゃねえだろうなと観察したが、そんな様子も無かったので、俺は椅子を引き寄せてその上に座った。
腕組みしながら決意した。ぜったいに、乙女に仕事をさせねえと。
そのまましばらく、乙女の背中を睨みつづける。
乙女はじっと動かなかったが、ふいにこちらを向いた。
「蟹は今日、遅くなるんだ」
そういや、そうだ。蟹は食料その他の買い出しに出ているのだが、その量が12人分だから、一日仕事になってしまうのだ。
「蠍と魚もついて行ったから、買い物そのものは楽なんじゃねえの」
「しかし食事の支度が出来ないからと、俺が頼まれていたんだった」
ベッドを降りようとする乙女を、俺は全力で押し留めた。
「なんで大人しく寝てられないんだよ!」
「病気でもないのに寝てられるか! 離せ!」
仕方が無いので、俺は能力を放った。
ベッドに固定された乙女は、俺に向かって、こんなやり方はずるいとかぬかしやがった。
俺は言い返した。
「メシくらい誰でも作れるだろ」
「誰もが忙しくて作る暇が無いから、俺が頼まれたんだろうが。ええい、離せというんだ」
「いやだっ」
乙女は刺すような目で俺を見た。
それから、ふっと息を吐いて、すごく落ち着いた声音でこう言った。
「牡羊。俺は大丈夫だ。いくらなんでも料理くらいはできる」
作戦を変えて、俺を説得することにしたらしい。
俺は考えた。
「けど、料理って神経使うだろ。ぼーっと休んでるのが一番いいんだって山羊が言ってた」
「俺の性格では、ぼーっとしているのが一番神経にさわるんだ。わかるだろう」
「うーん……」
「また倒れるようなことがあったら、そのときは交代する。取り合えず下に降りさせてくれ」
どうする? 大丈夫だろうか。こいつ包丁握ってて、いきなり手首切ったりしねえだろうか。
いや、いくらなんでも、そこまでイっている感じじゃない。が。……乙女って、神経使わずに作業が出来るタイプじゃない。
俺は力を解除したあと、こう条件をつけた。
「下に降りるだけ。作るのは俺がやる」
「牡羊が?」
「できるよ。まえの家では、おばちゃんの手伝いでよくやってたんだ」
「……」
「あんたは見てるだけだ。嫌だっつーんならもう、俺が疲労でぶっ倒れるまで、あんたをベッドにくっつけといてやる」
乙女は考えていたが、やがて溜息をついた。
「どうせ眼鏡が無いと、うまく動けないから……、牡羊にまかせる」
俺は乙女と連れ立って移動した。乙女は眼鏡が無いせいで、階段も怖そうだったが、俺に手を貸されることは嫌がった。
すげえ意地っ張りだ。俺もそういうとこあるけど、ここまで酷くない。
で、台所に行くと、牡牛が居た。エプロンしめて、冷蔵庫から材料を取り出して、作業台に並べていた。
俺たちに気づくと、こう言った。
「乙女がやるって聞いたから、かわりにやってやろうと思って」
「俺も手伝う。乙女は見てるだけだから」
乙女は壁にもたれて、不満いっぱいの目でこちらを睨んでいた。
俺は気づかないフリをしつつ、牡牛を見上げた。
「なに作るんだ?」
「蟹がメモを置いてあって、煮物って書いてあるんだけど。今から煮物なんか作って間に合うのかな」
牡牛は首をひねりつつ、包丁を手にとって、芋を剥き始めた。
俺は大鍋を取り出して、コンロに置いた。
牡牛が剥いた芋を刻んではボウルに入れる。やがてボウルの中身が山盛りになったので、鍋の中にあけた。
すかさず乙女の声が飛んできた。
「面取り」
「ん?」
「角を取るんだ。芋の角を丸くしないと、煮たときに崩れるんだ」
「いーじゃねーか。大きめに切ったんだから崩れても」
「出来上がったときに不恰好になるだろう」
俺は鍋の中身を取り出して、角っこを削っていった。
やがて角を取り終え、すべての材料を放り込み終えて、鍋に水を加えた。
調味料の器を持って、中味を鍋にあけようとしたら、また乙女の声が飛んできた。
「早い」
「……」
「火をつけて、煮立ってから三分後。でないと味を含まなくなる」
なんか、イライラしてきた。
しかし俺は黙って従った。乙女の好きにさせねえと。リラックスさせてやらねえと。
大鍋は沸騰するまで時間がかかった。俺は腕組みして待った。
やがてぐつぐつ言い始めたので、醤油の瓶を握りつつ時計を見て、三分待って、いざ投下しようとしたら、また声が飛んできた。
「順番」
「なんだよ!」
「甘いものが先。砂糖とみりん。次に塩。醤油は材料が煮えてからだ」
「……」
「しかもちゃんと量を計ってない。目分で入れると味が狂う。辛すぎてはどうしようも……」
俺は乙女の首を抱くようにして台所を出た。
ロビーを横切る途中で、乙女が椅子に腰をぶつけたので、いったん立ち止まった。
乙女は痛そうに腰を撫でながら、俺を見た。
「どうしたんだいきなり」
「乙女、やっぱり寝てたほうがいい。あんた目を開いている限り、なにかにピリピリし続けるから」
乙女は口を開いて、なにか言いかけ、その言葉を飲み込んだ。
それから皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「能力と性格には関係があると思うか?」
いきなりの話題変換に驚いた。
だが乙女は、いま腰をぶつけたばかりの椅子に座って、俺の返事を待っていた。
だから俺も別の椅子をひいて、そこに座った。
「わかんね。けど、あるのかなとも思う」
「俺は確実に、あると思う。なければ困る」
「困る?」
「ああ。俺はこの能力に目覚めたのは、いまの家族に出会ってからだ。しかしそれまでにも、それらしい兆候はあったんだ」
乙女はいったん、黙った。
それから視線をうつむけて、言いづらそうにこう聞いてきた。
「牡羊は、球技が得意だったんだな」
「おう。だから野球やってた」
「しかし得意だと思っていたそれは、実は自覚していない能力の結果だったかもしれない。そう思ったことはないか?」
ある。はっきりと。
うなずくのには勇気がいった。自分のずるさを告白しているような気分になったからだ。
しかし乙女は、俺を責めなかった。かわりに自分のことを説明しだした。
「俺は子供のころからよく、幻覚を見ていた。ありえないものを見て、知りえないはずのことを知った。だから昔の俺は自分のことを、頭がおかしいのだと思っていた」
なんでも見えちまう力を、それと知らずに使っていたら。
人はそれをどう思うだろう?
「幻覚ってのは、無意識の、遠視だったのか?」
「と思う。自分の親が事故で死ぬサマも遠視した。はっきりと」
「それは……」
「親を失ったショックで幻覚を見るようになったのだと、周りの人間は説明した。だから毎日、薬を飲まされて、意識が朦朧としていた。俺は、このおかしな頭を正常に保ちたいと、ずっと考えて生きてきたんだ。正確に、目の前の出来事だけを信じて、判断しようと。そういう習慣のもとに生きてきた。だから頭を使うなと言われると困る。それこそ頭がおかしくなる」
違和感を感じた。
淡々と語る乙女。様子も落ち着いている。しかし何かがおかしい。
乙女と呼びかける俺の声を、乙女は無視した。
「これは能力なのだと聞いて安堵した。俺は頭がおかしいわけじゃなかったんだ」
「ええと、よくわからねえが、だから納得したって話なのか?」
「納得は……、実は今でもできない。はっきりと思い出せるからだ。あのとき幻覚だと思っていたものを」
「……乙女?」
「トラックが横転する。その横腹に突っ込んでいく乗用車。ぶつかって潰れてゆく車。ガラスが割れる。座席にある二つの体が、揺れる。ぶつかる。不自然に首が折れる。侵入してくるトラックの荷物。鉄骨だ。それがあっという間に、からだを貫いて……」
俺は乙女の肩を掴んで揺さぶっていた。
乙女はいま、能力を使っているわけじゃない。しかし、なにかの映像に捕らわれている。
山羊の言っていた通りだった。乙女は、自分で自分を傷つけ始めている。体をという意味でではなく。
どうしよう、どうすればいい何をすれば。俺には蠍や蟹の力は無い。どうやって乙女を戻せばいいんだ!?
やがて乙女の瞳は、現実への焦点を結んだ。
目の前の俺の顔を眺めている。ぼんやりと。やがて瞳の色ががく然としたものに変わる。
俺も焦りつつ、目で笑ってやる。……どうやら、悪戯が成功したみたいだ。
乙女ってたぶん、頭と体があべこべなんだ。俺みたいに脳みそ筋肉って意味じゃなくて、脳がからだ全体に詰まってる感じ。
なにかを感じてなきゃおかしくなるんなら、おそらく、怒ってるときの乙女が、いちばんまともだ。
で、ちゅーされた唇をぬぐうこともせずに固まってる乙女に、俺は言った。
「い、いたずらだからな。いたずらだぞ!」
「……お、羊。おまえ」
「まだ変なもん見えるか? ああ?」
「今、今これ以上は無いというくらい変なものを見せておいて、なにを言ってるんだ!」
「よーし。あんたはこれから部屋に戻って寝るんだよ。移動だ移動」
腕を掴もうとすると、乙女は顔を真っ赤にして、身をひいてよけた。
俺のほうも、照れも手伝って、大声で怒鳴りつけてしまった。
「そこで意識すんなよっ!」
「……俺はただ、これは性格だから、気にするなと言いたかっただけなんだ」
妙に弱弱しい声だった。俺は戸惑った。
乙女はそっぽを向いたまま、小声で、早口で語る。
「べつに牡羊が嫌いなわけでも、怒っているわけでもないから、気にするな、と」
「う、うん。わかってる」
「……」
「……なんも気にしてねえよ、俺」
「部屋に戻る。一人で大丈夫だ」
言いながら乙女はふらっと立った。危なっかしい足取りで歩いて、階段を上がっていった。
俺は後を追えない雰囲気になっちまって、その背中を見送った。
それから視線を上にあげて、二階の手すりから身を乗り出してこちらを覗きこんでいる山羊の姿に気づいた。
山羊は乙女が自室に入るのを見届けてから、階段を降りてきて、俺の目の前に立った。
そして、言った。
「乙女にあれはシャレにならないぞ」
見てたのか。
顔に血が上った。たぶん、さっきの乙女みたいな顔になってたと思う。
「あれはただ、びっくりさせてやろうと思って」
「それはいいんだ。そのあとだ。意識するなというのは酷い」
えーと。
ちょっと意味がわからねえんだが。
「俺、謝ったほうがいいのか?」
山羊は渋いものでも食べたみたいな顔をした。
「これ以上、残酷なことをするな」
「な、なにが。わかんねーよ。教えてくれ」
「乙女には俺がついてる。牡羊は牡牛でも手伝ってろ」
なんで山羊は怒ってるんだ。
そのあと俺は、またやることが無くなっちまったので、台所に戻った。
牡牛が米を研いでる横で、道具を洗いつつ、メシの仕上がりを待った。
だけど煮物はやっぱり時間がかかった。みんなが帰ってきても間に合わなくて、けっきょく、カップラーメン12個つくって食った。
メシのあと、俺は牡牛に、さっきの乙女との出来事を話した。
牡牛はなんか、不気味な笑みを浮かべた。
「けっきょく乙女は眠れなくなったのか」
「かもな。大丈夫かな。ラーメン食ってるときも目がうつろだった」
「時々、牡羊は策士だなって思う。けどそんなことはないから、牡羊はタチが悪い」
意味がわからねえ。
「おれの態度がアホすぎて、乙女が呆れちまったって意味か?」
「ぜんぜん違う」
「もうちょっと詳しく説明しろよ」
「人間、なにかに悩み出したら、べつの悩みには気が回らなくなるってことだよ」
乙女を悩ませたくなくて、俺はがんばったんだが。
俺は、乙女の心配性が伝染したみたいな気分だった。牡牛は、そんな俺の状態を見て笑いながら、ずっと着たままだったエプロンのポケットに手を入れた。
そして取り出したのは、乙女の眼鏡だった。
「あとで返さないと」
「おまえが取ってたのか?」
「うん。これがないと、乙女は何も出来ないって知ってたから」
牡牛は策士だと思うぜ。間違いなく。
とりあえず、乙女はあんまり動揺させたり、乱暴な扱いをしちゃいけないってことは、よく理解できた。
けどそれは……、俺みたいな性格の人間にとっちゃ、すげえ難しいんだけど。
やっぱあとで謝ったほうがいいかな。あと説明もした方がいいのか。俺のやること、いちいち気にするなって。
うん。それがいい。そうしよう。きっとそれが一番だ。たぶん。