夏休みに入った。
俺はピンチだった。体育の推薦で今の学校に入ったくせに、クラブやめた俺は、成績が悪いことが許されねえ立場になっちまったのだ。
てんこ盛りの宿題を出された。それをこなさなきゃ、来年は二年になれないかもって先生に言われた。
とにかく家族に頼った。みんな協力してくれたんだが、読書感想文とかは、誰かに教えてもらうってわけにもいかない。
困っていると、蟹がアドバイスをくれた。
「蠍に頼ってみなよ。そういうのは、彼に聞くのがいちばんだ」
「むずかしい漢字って、催眠で読めるようになるのか?」
「ちがう、ちがう。能力じゃなくて、職業に頼るんだよ。蠍は作家だから」
なるほど蠍はよく本を読んでいる。あれは趣味じゃなくて仕事の一環だったのか。
納得しつつ、蟹の手作り夜食を食う俺に、蟹はなんか嬉しそうにこう言った。
「本当に、きみは食べ物を、とても美味しそうに食べるね」
「そりゃ、うまいものを、不味そうには食えねえよ」
「だからかなあ。蠍がきみを気に入ってるのは」
どういう意味だ?
「俺の食いっぷりが良いから、蠍が俺を気に入るのか?」
「いや。きみのその、からだの感覚のシンプルさが、蠍には心地よいんだよ」
俺が単純馬鹿だと言いてえんだろうか。まあその通りだが。
で、蟹の手作り夜食を食いきったあと、俺は蠍の部屋に行った。
しかし俺の頼みを聞いて、蠍はこう答えた。
「ギブアンドテイク」
お返し? 俺になにができると。……まさか。
「蠍が嫌なわけじゃねえけど。俺もノっちまうほうだけど」
「ん?」
「なんの構えもねえのに、いきなり未修正でダイレクトな世界に放り込まれると、ショックの方がでけえんだよ!」
蠍は、笑った。ぜってー俺のこと、ガキだなあって思ってる。
俺は他に、俺の持っているものや、スキルについて考えた。
「金はねーし、芸もねーし。肩でも揉めっつーんならできるけど」
「時間をくれ。あしたつきあえ。出かける。ついでに書店にも寄って、牡羊に本を買ってやる」
「いいよそんなの。貸してくれればそれで」
「駄目だ。まっさらな本を手に入れて、自分で読みながらラインを引いて、書き込みをして、折り目をつけて、手垢で汚して、そうしていけば、その本は自分だけのものになるんだ。そういう習慣をつけるといい」
「夏休み終わるまでに間に合うかな」
「おまえがその本を気に入れば」
というわけで次の日、蠍と出かけた。
蠍は俺を先に本屋に連れて行って、分厚い新書を買ってくれた。
で、本を抱えて次に行ったのは、喫茶店だった。
地味で古い店だ。すみの席に俺が座ると、蠍は俺の隣りに座った。
なんでカップル座りなんだよと俺が文句を言うと、蠍はあっさりと答えた。
「対面に、知り合いが来るから」
そんなこと聞いてなかった。誰だろう?
10分ほど待ってたらそいつは来た。サングラスかけた男だった。でもって、どこかで見たことがあるようなやつだった。
そいつは俺たちの対面に座ると、蠍に「本当に来るとは思わなかった」と言った。
蠍は、無言だった。
男は俺を見て、こうも言った。
「ずいぶん若いんだな」
そりゃ俺は若いと思うが、それが何だっつーんだよ。
今度は蠍も答えた。
「年は関係ない」
「しかし、蠍の趣味とはぜんぜん違うタイプに見えるよ」
「だから良いんだ」
なにが良いんだよ。
男は次に俺に向かって、「ぼくのこと、知ってる?」と聞いた。
俺は正直に言った。
「どっかで会ったことあるような」
「どうだろう。でも知ってもらえてはいるみたいだね。ぼくの名前はカラス。ただ別の名前があって、それは……」
有名なバンドのボーカルの名前だった。
俺は、驚いた。カラスの別の名前に、というよりも、そんなやつと知り合いだという蠍に。
蠍はしかし、びっくりしてる俺に、静かな目を向けてきた。
「大丈夫。金が無くても、芸も無くても、牡羊は牡羊。……自信を持て」
それは、催眠の言葉だった。
俺の中に自信があふれてきた。芸能人がなんだ。カラスが何様だ。俺は俺だ。
カラスは蠍の言葉を聞いて、軽く笑っていた。
「ぼくも、あまり構えないでくれるほうが有り難い。今さらぼくらの昔の関係を、どうこうと言うつもりはないんだ。同じように、今のきみたちの関係をどうこう言うつもりも無い」
俺と蠍は家族だが、そういう意味じゃないのか?
自信に満ちあふれた俺は、その思いをカラスに向けて、そのまま口に出した。
「関係ってなんだよ」
「聞かされてないの? ぼくらのこと」
「知らねえ。なんのことだ」
「それは……、蠍、問題があるんじゃないか」
蠍は、微笑んだ。演技のように。
「牡羊が、人の過去を詮索したがるようなタイプに見えるか?」
カラスは、俺をじっと見たあと、腕組みした。
「見えないね。なるほど」
蠍は微笑を消す。やっぱり演技めいている。
「俺を呼び出した理由は」
「繰り返し言うが、ぼくはきみらの関係を邪魔するつもりはないんだよ。用件はまったく別のことだ」
だから関係ってなんだよ。
俺がそれを問うよりも、今度はカラスが説明しだすほうが早かった。
「ぼくはいま、川田のグループに所属している。今日は指令を受けてきた。蠍を引き抜けと」
つまり、こいつも能力者なのか。
蠍を見ると、やっぱり、作ったみたいな無表情だった。
「俺は行かない」
「ああ。しかし知っての通り、蠍を連れて行くのは簡単だ。ぼくが、ぼくの能力を使えば」
「俺は行かない。行けるわけが無い」
「ぼくも蠍の意思を無視するのはいやだ。しかし川田には逆らえない。困ったよ実際」
なにを言ってやがるんだこいつは。
俺のメンチを受けて、カラスは首をかしげていた。
「ぼくは所属のことを話しているだけで、蠍はこれからも、変わらずきみのものだ。それでも不満なの?」
俺は、きっぱりと言った。
「蠍は行かねえ。あんたは手ぶらで帰る。そんだけだろ」
「いや、きみを連れて帰るという手もあるんだ。そうすれば蠍は、自分の意思でついて来てくれるかもしれない」
はじめて蠍が動揺していた。
続いて出した声も、震えていた。
「やめてくれ」
「何度も言っている通り、きみらの関係は邪魔しない。ただ、ぼくは知っている。人の心はとてももろい」
「やめろ。カラス、よせ」
「もろくて、もろくて、少しつついただけで壊れる。牡羊、きみはきみの意志で蠍を裏切る。なぜならぼくはきみを、愛しているから」
俺の心臓が一回、跳ねた。
俺はうろたえた。なぜなら俺は、嬉しかったからだ。カラスに惚れられてると知って。
しかし、なんでだ。初対面なのに。
俺の疑問をカラスの笑顔がとろかしてしまう。すっげぇ格好いいなと思う。
俺もカラスが好きだ。ああ、こんなやつになら、何をされてもいいような……。
蠍が言った。
「牡羊。嘘だ。気づけ」
すっと頭が冷えた。
俺は気づいた。俺はカラスに嘘をつかれた! 当たり前だっ、なんで俺がカラスに惚れられなきゃならねえんだ!
戸惑う俺にカラスが言う。
「でもぼくは牡羊を愛してるし、牡羊もぼくが好きだろう?」
ああ好きだ。なんでかわかんねーけど、今このときから、俺はカラスのものだ。
蠍が言う。
「嘘だ。魅了の能力だ。牡羊はカラスが好きじゃない」
そうだ俺はカラスが好きじゃない。なんだと能力だと。みりょーって何だ畜生。
しかしカラスがまた、
「能力でもいいじゃない。ぼくはきみを愛してるんだから」
と言ったので、なんか能力でもいいような気がしてきた。
この気持ち。熱くて、気持ちよくて、ふわっと体が舞うような感覚は、本物だと思う。
頬染めている俺にまた蠍が言う。
「カラスは牡羊を愛してない。牡羊はカラスを好きじゃない」
※※※
こんなに動きの無ぇ戦いは初めてだ。
三人で、テーブルについて、そのうち二人がぼそぼそ喋ってるだけ。
俺は赤くなったり青ざめたりしてるだけで。
喫茶店のお姉さんが水をそそぎに来てくれた。黙ってコップを取り、水を足して、何も気づかずに去っていった。
俺は緊張と弛緩をくりかえし、混乱していた。息が荒くなり、心臓がバクバク言って、熱いのに悪寒がした。
やがて俺の様子を見つつ、カラスが言った。
「限界だね、彼」
蠍がカラスに、厳しい目を向けた。
「無駄だ、カラス。俺は牡羊を守る。なんど魔法をかけても打ち消す」
「そうだね。このままじゃ、きりがない。……仕方が無い」
二人はにらみ合った。
俺には長い沈黙に思えた。しかし実際には、ほんの数秒だろう。
二人は同時に言った。
「ぼくは蠍を愛してる」
「カラスは牡羊を愛してる」
たった一文に込められた二人の作戦を、俺は疲労した頭で考えた。
カラスのみりょーで、いま、蠍はカラスに惚れた。
蠍の催眠で、いま、カラスは俺に……ええっ!?
カラスがサングラスを外した。熱っぽい目で俺を見ている。
そしてそんなカラスを蠍が、湿度の高い目で見つめている。
なんなんだこりゃ。誰かカエルで蛇でナメクジなんだ。
俺は言った。
「みんな嘘だって! なんだよこりゃ、やめろよ気持ちの悪い」
カラスはまあ、そこは認めてもいいだろってかんじの、格好よい笑顔を見せた。
「参ったな、こう来るとは思わなかった」
俺は必死で訴えた。
「嘘だからな、それ、嘘だから。今あんたが、俺になにか感じてても」
「ぼくにはそもそも、嘘の心と、本当の心の区別がつかない。だから、そこに境界は無いんじゃないかと思ってる。今だってそうだ。蠍の催眠のせいだとはわかっているけど、それでもぼくは牡羊を」
蠍が手を伸ばして、カラスの口をふさいだ。
おかげで能力の発動条件らしい「愛してる」の言葉は消され、俺は助かったんだが。
蠍の苦しそうな顔が、俺を弱らせた。
蠍、と声をかけると、蠍は黙って首を横に振った。
「魅了じゃない。魅了は関係ない。俺はカラスを忘れたことなんて無かった」
カラスは黙って蠍の手を取りはずし、同じように首を横に振った。
「それは違う、蠍」
「違わない。俺はカラスを愛してるから、カラスとは一緒に居られない」
カラスも困ったように微笑み「わかってる」と言った。
俺には意味がわからなかった。
つまりこいつらは昔、そういう関係だったんだ。だけど、別れちまったんだ。
けどなんで。愛してるから別れた? 俺には意味が分からない。
俺に惚れきっている状態のカラスが、俺に言った。
「ぼくも同じ気分なんだ。今のぼくは、牡羊を心から……、ん、だから、牡羊を連れていくべきではないね」
そう言ってカラスは席を立ち、伝票を取った。
「いちおう魅了を解いておこうか。蠍、やっぱりぼくは、蠍を愛していない」
蠍は一瞬、うろたえた様子を見せたあと、途方にくれたようにカラスを見上げた。
カラスはサングラスに表情を隠すと、さよならと言って、店を出て行った。
俺はしばらく放心し、それから蠍を心配した。
蠍は、手で口元をおおい、目を伏せて、震えていた。
声をかけると、蠍は俺の言葉を無視して、こう言った。
「……今日、一日でいい。牡羊、俺に惚れてくれ」
それで俺は蠍に惚れ、あとはずっと蠍に寄り添った。
店を出て、公園を散歩して、いろんな店に行って、……そのあいだ、俺たちはずっと手をつないでいた。
蠍には制限が出ているに違いなかった。息がおかしく、目つきがとろんとして、声が上ずっている。
なのに蠍は俺に、制限の相手をさせなかった。
夜になって、家に帰って、時計が0時になる直前まで、蠍は俺の部屋に居た。
何も喋らず、なにもせず、俺にぴったりくっついていた蠍は、やがて俺に言った。
「今日、買ってやった本。あれ、俺の新作」
「そうなのか。どんな本なんだ?」
「読めばわかる」
そして時計が0時になると同時に、蠍は部屋を出て行った。
俺はふつうの状態に戻ると、机につき、スタンドつけて、本を開いた。
徹夜で読んだ。本は分厚かったけれど、文章は綺麗で、話はわかりやすくて、読みやすかった。
いや、知らない人間にはそう思えるだろうって事だ。
俺は蠍を知っているから、その美しい文章の向こうに、すごく深いものが描かれていることや、わかりやすい話の奥に、めちゃくちゃ複雑なものがあらわされていることを理解できる。
話はこうだ。ある男が、ある女に出会う。男は売れない歌うたいで、女は作家のタマゴ。
男はいいやつだ。単純で優しくて馬鹿。歌うだけしか能が無い。
そして男は、病気だか呪いだか、よくわからんマイナスポイントを持ってて、そのせいで、人を好きになることができない。
……この病気ってのは、能力のことだろう。そして惚れられねえってのは、制限のことだ。
女は男を好きになったので、男を応援する。
……応援な。間違いなく蠍は、カラスに能力を使ったんだろう。
うわべだけ読むと、ここまでは、よくある話って気がする。ただそのあとの展開が違う。
男はある日気づく。自分たち二人の暮らす部屋が、迷宮となっていることに。男は部屋から出られなくなる。
この複雑な世界で男は、何も見えず、何も聞こえず、声も出せなくなる。
この「迷宮」ってのの描写が独特で、部屋がダンジョンと化したようにも読めるんだが、たんに男が狂ったようにも読める。
俺にはわかる。蠍の催眠のたとえ話だ、これは。
実際、このあとの男は、女の顔しか見えず、女の言葉しか聞こえず、女にしか語りかけることができず、女のことしか考えられなくなる。
女は男を守り、慈しみ、はげまし、精一杯の愛情をそそぐんだが。
ある日、子供の姿をした、美しい天使があらわれて、彼らの醜さを非難する。
そして天使は女を連れ去り、部屋には、男ひとりだけが残された。
巻末の解説によると、こういうの話のことを不条理っていうらしい。
しかし俺にとっちゃ、不条理どころか、これほど分かりやすい話は無い。
だって蠍は言ってたんだ。まっさらな本を手に入れて、自分で読みながらラインを引いて、書き込みをして、折り目をつけて、手垢で汚して、そうしていけば、その本は自分だけのものになるって。
ただし俺は、大切なものにラインなんて引かねえし、書き込みなんてしねえし、折り目も、手垢もつけねえけどな。
明け方に読み終えて、目をこすりながらロビーに降りた。
台所でコーヒー飲んでると、魚が寝ぼけ顔で入ってきた。
「あれ……、牡羊おはよう。早いね」
「おう、本読んでた。魚もはえーな」
「僕は昨日が早寝だったから。……あっ!」
魚は、俺のかかえてた本を見て、ぱっと顔を輝かせた。
「それ、蠍の新刊だね。読んだの?」
「ああ。魚も読んだのか」
「うん。良い話だよねえそれ。ロマンティックで」
「ろ……、ろまんてぃっく?」
「そう思わない? 二人ともすごく愛し合ってるんだ。最後が悲恋になってしまったのが悲しいよ。でも天使の出てくるシーンは美しかったなあ」
その美しい天使は、あんたのことだと思うんだが。
「魚ってさ、蠍、好き?」
「好きだよ。なんで?」
「蠍を家族に誘ったのって、魚なんだよな?」
魚は困ったように眉を寄せて、指先をこめかみに当てた。
「それがねえ、よく覚えて無いんだよ。蠍を誘ったときの僕は、例のあれで子供になってたんだ」
「そうだろうなあ」
「うん。なんか、こんなことを言ったらしいよ。はやく病気を治さないと、って」
相性の良すぎる二人は、互いの病を、永遠に感染し合わせながら生きていこうとしたんだろう。
魚の放ったシンプルな言葉が、その関係を崩しちまったんだ。
俺は魚に言った。
「魚ってわりと凄いよな」
「えっ、いきなりどうしたの」
「どうもしねえ。言葉どおりの意味だ」
「わかんないけど、嬉しいなあ。でも僕から見たら、本当に凄いのは牡羊だよ」
俺は、きょとんとした。
魚は、わかってるのか、わかってないのか、わからない笑顔を見せていた。
「僕は最初っから、牡羊は凄いと思っていたよ。きっと、きみが来てくれたおかげで、蠍もずいぶん救われてる」
ナニ的な意味で……ってことじゃないよな? だってアレに関しちゃ、俺はてんで子供で、蠍のスキルになんて対抗できねえ。
俺は魚を見つつ、なんか納得できたような、できないような気持ちを感じつつ、あとは色んな本の話をした。