星座で801ログ保管庫出張所

超能力SS 6

 クラブ辞めて暇になった俺は、能力の特訓をするようになった。
 なぜかというと、「敵」についての詳しい話を聞いたからだ。
 教えてくれたのは魚だった。俺の催促に降参したみたいに、魚は弱りきった様子で話してくれた。
「みな、あまり「敵」のことは語りたがらないと思うよ。辛いから。敵といってもその中には、かつての味方もいたのだし」
 俺らみたいな能力者の集団があるらしい。
 能力者のまとめ役は川田ってぇやつで、そいつ自体は能力者でもなんでもない、普通の男なんだそうだ。
 しかし回りにいる人間が厄介で、なんつーか、独特の思想を持っているらしい。魚曰く、
「自分たちを、進化した存在だと考えてる」
「偉そうな連中なんだな」
「そう言えるのかもしれない。だけど僕には、あのグループは在り難かった。あそこに居れば少なくとも、寂しいとは思わずにすんだから」
 しかしあるとき、魚のもとに、客が訪れた。
 客の正体は、未来から来た水瓶だった。水瓶は魚にこう言った。「未来の恋人を死なせたくないなら、現在から行動しろ」と。
 魚は行動した。現在の水瓶に連絡を取り、未来の水瓶からのメッセージを伝えた。
 水瓶は驚いていたが、その伝言からなにかを悟ったらしく、グループの内情をさぐりはじめた。
 魚はそこで、多くの悲しい事実を知った。
「ひどいものだったよ。僕は、僕らのような能力者を差別する人間がいるのは知っていたけど、その人間を狩っていってるメンバーがいたのは知らなかった。まだ目覚めていない能力者を、グループに勧誘しているメンバーが居るのは知っていたが、勧誘の結果、自分たちに従わない能力者が狩られていたことは知らなかった。愚かにも僕はなにも知らなかったんだ」
「なんでそんなことするんだよ」
「宗教的な感覚なのだと思う。だけど僕には賛成できない感覚だったから、僕はグループを抜けた。水瓶といっしょに」
 そうして最初に家族になったのが、魚と水瓶。ただしこの段階では、二人は互いを家族ではなく、大切な友人だと考えていた。
 次に家族になったのが射手と獅子。二人ともグループに属していない一匹狼の能力者だったが、グループに追われて困っていたのを、魚が助けて仲間になった。四人になって彼らは、互いをチームの一員だと考えるようになった。
 それから蠍と蟹。二人とも、能力を隠してひっそりと生きていたのを、みなで見つけ出して仲間に誘った。家族という考え方が出てきたのはこのころだ。
 天秤と双子は、二人とも川田のグループのメンバーだったが、水瓶の説得によって引き抜くことができた。このころには、彼らは完全に家族になっていた。
 乙女と山羊は、まだ能力に目覚めていない段階だったが、グループより先に見つけ出して、仲間にすることができた。この二人は家族という考え方になかなか馴染めずにいたが、今は慣れているという。
 俺はいくつかの疑問を持った。
「能力者をどうやって見つけ出すんだ?」
「射手と獅子は、能力者のあいだでは有名な人物だったから。蠍と蟹は、未来の水瓶からの伝言で見つけ出した。天秤と双子はもともと知り合いだった。乙女と山羊は、家族の能力を総動員して探し出したよ」
 そして今は俺も、彼らの家族だ。
 だから俺は家族を守るために、強くならなきゃならない。
 獅子や射手と最初に出会った河原が、俺の特訓場所だった。大岩を落としたり、小石を飛ばしたりして、俺は自分を鍛えた。
 まえに乙女の言っていた通り、俺には冷静な判断力が足りないんだと思う。なにを選び、どう動かすかを、素早く判断できるようにならなきゃならない。
 その日も河原に行った。空は曇ってて雨が降りそうだったが、そのほうが良かった。
 人が居ないからだ。あそこは晴れた日の昼や、休日とかは、バーベキューの人とかが居ることがある。
 しかし、今日は天気も崩れがちで、もう夕方で、休日でもないのに、人が居た。
 よく見るとそれなカジキさんだった。野球部の先輩だ。バットを持って素振りしてた。
 俺が声をかけると、先輩は手を止めて、さわやかに笑った。
「よー牡羊。どうした、こんなところで」
「先輩こそどうしたんすか。今日はクラブは?」
「部員のほとんどが腹痛で倒れてな。休みになった」
 大丈夫かよ! 試合はあさってだぞ!?
 俺がそのことを尋ねると、先輩は暗い顔になった。
「まあ負けるだろうなあ。向こうの野球部、強ぇしなあ」
「弱気っすね」
「おまえ助っ人で試合出ねぇ? おまえが居りゃ勝てると思うんだが」
「あー……、無理っす」
「なんで」
 俺は嘘ってやつが苦手だし嫌いだ。けど今は嘘をつかなきゃならない。
「よ、用事があって」
「そもそもおまえ、なんでクラブ辞めたんだよ。期待してたのに」
 つらい。俺だって辞めたくなかったんだ。けどそれは言えない。
「なんか俺、病気らしくって。野球やめなきゃ死ぬらしいんで」
「どんな病気だそりゃ。どう見たって元気じゃねえかおまえ」
「いやもう駄目です。毎日ボロボロです。あちこち怪我してるし」
 それは本当のことなんだが、先輩は変な顔をした。
「俺は戻るべきだと思うけどな」
 ああ辛ぇ。俺は黙って頭をぶんぶん横に振った。必死だった。
 先輩はバットをかつぐと、あご先で例の大岩を指した。
「ところで話は変わるけど、あの岩、あんなところにあったっけ?」
 違います。俺が動かしたんです。
「なんかサイズも変わってるよな。縮んでる」
 特訓してるうちに欠けちまったんです。
「橋も燃えちまったし、なんか変だよな、ここ」
 そりゃ獅子って名前の馬鹿が燃やしたんです。
 駄目だ心臓に悪い。今日はもう帰るべきか。どのみちこの人が居たんじゃ特訓できない。
 俺が帰宅することをつげると、先輩は俺を止めた。
「帰る前にちょっと手伝ってくれ。ボールを捜してるんだ。さっきフォームの練習してて落とした」
 話が完全にそれたことが有り難くて、俺は気軽に了解した。
 河原を歩き回った。ボールはすぐに見つかった。川の中の、流れのよどんだところに引っかかってる。
 俺は靴と靴下を脱いで、ズボンのすそをまくりあげて、川の中に入り、ボールに近づいていった。
 つめてー。なんか足元ぬるぬるするし。あと一歩で手が届くと思った。そのときだった。
 なにかが俺の足を引っ張り、コケた。
 あわてて足元を見たけれど、なにもなかった。
 最初、俺は、ドジをやったんだと思っていた。川底の石に足をすべらせたか、つまづいたかしたんだろうと。
 しかし違った。俺の足首に感触がある。俺は足首を掴まれている。見えない何かに。
 俺は先輩を振り返った。
 先輩は、両手でなにかを掴むポーズを取っていた。その姿のままこう言った。
「戻って来いよ牡羊。試合に使えばいいじゃねえか、力を」
 水が冷たい。そのせいか、体の血がすっと冷えた。
 この人、能力者なのか?
「……無理だ。できねぇ。わかるだろ先輩」
「わかんねーなあ。せっかくの力をなんで使わないんだ」
「ズルはいやだ」
「ズルじゃねーだろ。個性の発揮だろ。しかも自分の力を病気扱いかよ。どうかしてるぞおまえ」
 どうかしてるのは、あんただ。
 俺に必要なのは判断力。即座に俺は念じた。先輩の体を持ち上げた。
 先輩は浮きながら、笑っていた。
「すげーなおまえ、話には聞いていたけど、やっぱすげえ!」
 俺のほうは、戸惑っていた。これからどうすれば良いのかと。
 先輩を地に叩きつけるのは簡単だ。大怪我をさせるのも簡単だ。殺すのも簡単だ。……それが、俺にはできない。
 だいいち、考え方の違いはあるみたいだけど、ハッキリと悪意をぶつけられたわけでもない。
 俺は祈るような気持ちになった。敵であってくれるなと。
「足から手ぇ離してくれ先輩。怖いんだ」
 俺の祈りは届かなかった。
 俺は、引きずられた。俺のからだは川底に擦れつつ移動した。足首を掴んでいた手の感触は、そのまま俺を、川の深みに引きずりこんだ。
 水の中で俺は、手を動かした。しかし俺が水をかいて浮こうとする力よりも、先輩の引っ張る力のほうが強いらしく、俺の足は川底に固定されてしまった。
 足元を見る。能力を使って脱出できるか? しかし俺を引っ張る力は目に見えないもので、能力をぶつけることができない。
 パニックの感覚が来る。少し水を飲んだ。
 俺には判断できない。どうすればいい。このままコンクリ漬けの拷問死体みたいになっちまうのか。どうやって脱出すればいい。
 苦しい。酸素不足が俺から冷静さを奪う。逃げたい、逃げたいという思いだけが俺を支配する。
 その思いと苦しみのすべてを、自分の足元に向けた。
 俺は急速に浮上した。俺は川底の石を広く持ち上げ、それに乗る自分ごと上方へ移動させたのだ。
 水面に岩を並べ、その上に立ったまま、俺は水を吐いて咳き込んだ。
 辺りを見回す。先輩の姿は見えない。足首の拘束も消えている。
 飛び石を並べて移動する。河原にたどりついて、俺はひざを折った。
 疲労が来てる。制限のぶんと、水中での窒息のぶんと。
 動けるうちに逃げたほうがいいと思い、立ち上がったところで、後頭部に衝撃が来た。
 倒れながら身をひねり、振り返って、うしろを見た。
 俺を殴ったのはバット。ただのバット。握っている人間が居ないバットだった。
 俺はそのバットに念を込め、粉々に砕いてやった。
 あたま痛ぇ。濡れた髪をかきあげるついでに、後頭部を押さえた。
 先輩。いや、カジキ。カジキはどこだ!?
 ゆるさねえ。もう躊躇しねえ。地面に叩きつけてやる。大怪我しようが知ったことか。どこかに隠れて俺を見ているはずだ。どこだ。
 足に激痛が走った。見ると、太ももに釘が刺さっていた。
 抜いて投げ捨てた。その腕に、ぐさりと釘が刺さった。
 蜂にまとわりつかれるみたいに、俺は次々に釘に刺された。
 きりがねえ。俺は視線をめぐらせる。目についた障害物を次々と除けていく。燃え残りの橋の残骸を吹き飛ばし、河原の流木をへし折り、あの大岩まで持ち上げて、カジキをさがした。
 そうこうするうちに、息が苦しくなった。
 俺は両手でのどをかばった。しかし意味が無かった。目に見えない力は俺の手ごと、喉に圧迫をくわえている。
 とことん窒息目当てらしい。卑怯なやつだ。どこだ。どこに隠れた?
 河原のあらゆるものを除け終え、俺はやっと悟った。
 今出てきた水の中、か。
 のろのろと頭をまわす。カジキが川から上がってくるところだった。
 喉の拘束がゆるんだ。俺は息を吸い、吐いて、そのまま倒れた。
 制限による疲労だけじゃないせいで、意識はまだハッキリとしている。
 カジキが上から俺の顔をのぞきこんでいる。むかつく笑顔をさらす。
「牡羊。すげえな。やっぱすげえわ。サイコキネシスっていうのか?」
 そして両手を開いて、俺に見せつける。
「俺のはテレキネシスだ。なんでも掴めるんだよ。だけどおまえの力のほうが断然すげえわな。パワーが違う」
 制限は無いんだろうか。
 俺の思いを読んだらしく、カジキはうなずいた。
「おまえみたく、動けなくなるほど疲労したりはしねえよ。だがしばらくは、両手の感覚がにぶくなる。ものに触った感触とかが、よくわからなくなるんだ」
 その程度か。うらやましい。俺はぜんぜん動けねえ。
 息をするだけの存在になった俺に、カジキは満足そうだった。
「なあ牡羊。クラブに戻る気ねえの?」
 しつこいぞ。
「いやか。じゃあクラブじゃなくて、別のところに行かないか。川田んところ」
 やっぱそっちか。
 疲労のきわみにあった俺は、最後の力を振り絞って、片手を持ち上げた。でもって中指を立てた。
 これですべての体力はゼロだ。ちくしょう。短かったな俺の人生。
 カジキが空中で拳を振る。見えない力が俺を殴る。口の中が切れた。
 殴打ののち、その見えない拳でもって、シャツの襟元をつかまれた。
 また首絞められるのかと思ったが、違った。俺のシャツは首元から腹まで裂かれていた。
 カジキを見る。妙な目をしている。冷たいのに熱っぽいような、おもてに表せない感情を押さえ込んでいるような。
 カジキの手が、ゆるっと宙を撫でた。
 俺の胸から腹、股間までに、撫でられる感覚が走った。
 俺は驚愕する。なに考えてんだこいつ。
「て……め……」
「牡羊。ズルがきらいなおまえには、わかんないだろ」
 カジキの手が宙を揉み、俺のからだも揉まれる。
 気色の悪さに身もだえする俺に、カジキは言う。
「わかんないだろ。ズルい人間の気持ちなんて」
 俺は、気絶しておくべきだった。眠っておくべきだった。
 なんの抵抗もできない俺の体をカジキはもてあそぶ。適当に服を裂いて、適当に肌をいじって。
 ここに別の誰かがいたら、俺は何も無いのに勝手に身悶えてるアホに見えることだろう。
 だけど俺には、体中を這い回る手の感触が感じられるんだ。気持ち悪い。吐きそうだ。
 むき出しになった俺の下半身をいじりながらカジキは笑う。わざわざ俺を座らせて、足を大きく広げて、そこが俺にも見えるようにして、俺の屈辱感をあおる。
 そして奥歯をかみ締めていた俺は、はじめて声をあげた。
「あ、あっ……!」
 入ってくる。
 尻に、なんか入ってくる。こじ開いて、もぐりこんでくる。
 カジキが笑う。指を曲げ伸ばししながら笑う。
「もう手の感触がねえわ。でも見えるよ。穴が開いてる。丸見えだ」
 涙が出た。悔しかった。腹の中で指の感触がくねる。鳥肌がたつ。
 恥も外聞もなくわめいた。やめてくれと哀願した。死んだほうがマシだと思った。
 弱りきった俺の態度はしかし、カジキの気持ちを煽ってしまったようで、苦痛が強まっただけだった。
 けどこの苦痛のおかげで、そろそろ意識を手放せそうだ。
 そのとき、俺は、声を聞いた。
「牡羊!」
 いやな感触がすっと抜ける。俺は声の主を判断し、あせる。
 必死で叫んだ。
「来るな魚、逃げろ!」
 また俺を呼ぶ声。カジキの背後の遠くの方から、魚が走ってくる。手に傘を二本持ってる。俺を迎えに着たのか。
 魚に戦う力は無い。俺は焦ってまた逃げろと叫ぶ。しかし魚は足を止めない。
 カジキが手のひらをむこうに向けた。
 魚の肩に太い釘が刺さり、やっと魚は足を止めた。
 息を荒く吐きながら、魚は自分の肩を見た。それから呆然と俺を見た。それからカジキを見て、悲しい目をした。
「きみはなぜ、こんなことをするんだ。いったいなぜ」
 カジキは、肩をすくめた。
「不公平だからさ。こいつは俺よりずっと強い力を持っているのに、俺の大事なもんを平気で捨てちまうから」
「同じクラブの子? 牡羊はクラブを平気で辞めたわけではないよ」
「本人はそのつもりだろうね。お気楽なやつだ。最初っから期待されてて、なにをやっても活躍できて、みんなに慕われてて、そういう自分の立場がわかっていたなら、辞めるなんて絶対に出来るはずがねえだろ」
「……」
「力が何だよ。おなじく力を持っててクラブ続けてる俺はなんなんだよ。俺が卑怯者だとでも言いてえのか? 何様のつもりだよこいつ」
「きみ、牡羊のことが好きだったの?」
 俺は先輩のことが嫌いじゃなかった。熱心で、面倒見の良い、いい先輩だった。
 熱心さがしつこさに変わり、面倒見の良さが意地の悪さに変わったのは、能力のせいか。
 力に溺れるってのは、そういうことなのか。
 魚が溜息をついて言う。
「愛情を屈折させる必要なんて無いんだ。きみの行動は間違っている。いますぐ牡羊を返してくれないか。でないと」
 カジキは無言で手を振る。魚の肩の釘が、さらに深く刺さる。
 魚はただ、悲しそうな顔をした。
 俺は自分の状態をさぐった。俺の力は残ってるか? 少しでいい。ほんの少しでいいから、魚を助けるための力を。
 魚は歩き出す。俺に手をさしのべて。その手のひらに釘が刺さる。
 俺は意識を集中する。しかし駄目だった。力が発動する感覚がわいてこない。
 魚はカジキを通り過ぎ、俺のそばにたどりついた。身をかがめ、俺を抱いてくる。
「大丈夫だよ。もう大丈夫だから」
 優しい声に安堵しそうになるのを、俺は必死でこらえた。言わなきゃならないことがある。
「使うな。力を」
 子供に戻っちまったら逃げられなくなる。
 魚は微笑んだ。
「うん。だから、少し待っててね。すぐに倒してくる」
 言いながら魚は肩の釘を抜いた。
 抜けたあとの釘の先に、血は一滴もついておらず、魚の肩には傷ひとつ無かった。
 そして魚は立ち上がりながらくるりと振り返り、持っていた釘を、すぐ背後に居た、カジキの胸に押し込んだのだった。
 なにか能力をふるおうとしていたらしいカジキは、驚いている。
 カジキが手をにぎりしめる。魚の顔に引っかき傷が走る。しかしその傷はすぐに消えて、魚はもとどおりの綺麗な顔になった。
 魚は自分の手のひらをあげて、カジキに見せつけた。
 魚の手のひらに刺さっていた釘が、自然に押し出されて、落ちた。そのあとの魚の手のひらには、やはり傷ひとつ無い。
 カジキの目に恐怖の色が浮かぶ。いまこいつは悟ったのだ。こいつがどんな攻撃をしても、魚には効かないのだと。
 俺は考えていた。乙女の言っていた通り、俺には冷静な判断力が足りなかった。なにを選び、どう動かすかを、素早く判断できるようにならなきゃならなかった。
 だから俺は、さっき魚が抱いてくれたときに復活した体力のうち、ほんの少しを、ただ一箇所の一点に向けて、放ったのだった。
 カジキの胸に刺さっていた釘は、俺の念に従ってさらに突き刺さり、深く深く突き刺さり、カジキの心臓を貫いて背中に抜けた。
 魚は攻撃のために傘を拾いあげていたのだが、俺のやった行為に気づくと、驚いて俺を振り返った。
 俺は、ほっとしていた。この優しい男に、残酷なことをさせずにすんだことを。
 魚は倒れたカジキを見て、それから俺を見ると、ぼろっと涙をこぼした。
「なんでこんなことになってしまうのかな。ぼくもあなたも、こんなことは望んでいないはずです。なのに」
 口調が変わってるってことは、すこし年齢が下がってるのか。
 魚は俺を抱きしめて泣いた。泣きながら子供に戻っていった。同じ言葉をくり返しながら。
「大丈夫ですか。痛くないですか? ……痛くないの? ……いたくないの? ねえ、いたくないの? ……おひつじ、いたいの、とんでった。……いたた、ないない……」
 ついには魚の言葉は意味不明の声の固まりになった。そうすると複雑な感情の流れも消えちまうらしく、魚はぼんやりした表情で俺の指を吸っていた。
 俺は魚を抱きしめてあやしながら、魚のかわりに泣いた。

 ※※※

 魚を背負って家に連れて帰った。大人のからだは重くて、赤ちゃんの心はむずかしくて、たいへんだった。
 途中で大雨が降った。魚は怖がって泣いた。このときもたいへんだった。大人の体でむずがられると、迫力が違った。
 俺は大声で歌を唄う。流行の歌も童謡も唄いつくす。魚に能力を使って体重を軽くして、優しくゆすぶる。
 そうして家に着くと、玄関で倒れこんだ。
 皆が俺に群がる。俺は眠りたかったんだけど、魚のかわりにすべてを話さなきゃならなかった。
 俺は襲われた。俺は危機に陥った。俺は魚に救われた。俺は殺した。
 さすがに犯されかけたことは省略したけど、まあ大切なことはすべて話したと思う。
 あとは周りにまかせて、俺はおもいきり気絶した。
 眠って、眠って、目覚めたら二日経ってて、俺は盛大な空腹をかかえていた。
 台所に駆け下りた。
「蟹! メシ!」
 台所に居た蟹はぽかんとしていたが、あわてて俺に駆け寄ってくると、俺の両肩を掴んだ。
「大丈夫なのか牡羊! もうダメージは残ってない?」
「大丈夫じゃねえよ最悪だよ腹が減って死ぬ! 蟹メシくれ!」
 蟹が腕まくりして冷蔵庫に向かうのを見てから、俺は箸をつかんでロビーに行き、テーブルについた。
 テーブルには蠍も居て、コーヒーを飲んでいた。俺を見もせずに言った。
「カラ元気だな」
 ぐさっと来た。
 俺はテーブルに体を投げ出し、頬をクロスにくっつけて、白い布地に箸でうずまき線を描いた。
「なにも考えたくねえ……」
「無理だろう」
「魚、どうしてる」
「10代まで戻った。いま水瓶と遊びに行ってる」
「河原は」
「死体が消えた。たぶん敵の仲間が処理した」
「俺、先輩を殺しちまった」
「苦しいなら記憶を消してやるが?」
 俺は断った。それは、しちゃいけないことだと思うんだ。なんとなく。
 蟹が色々運んできた。おにぎりと、焼き鮭と、味噌汁と、漬物だった。
 行儀悪くむさぼる俺を蟹は怒らなかった。俺の正面に腰かけ、俺の食事をじっと見守っている。
 やがて食い終えた俺に、蟹は言った。
「あのね牡羊。きみはなにも悪くないよ」
 俺は蟹を見た。
 蟹は、きっぱりと言い切った。
「きみは悪くない。僕にはわかっている。きみは短気で乱暴なところもあるけど、根は優しいし真面目だし、正義感にあふれている。そんなきみが命を奪うほどのことをした。たぶん説明してくれた以上に、ひどい目にあったんだろう。可哀想に」
 蟹にはかなわない。俺は涙目になった。
「ああするしかなかったんだ」
「わかっているさ。きみはなにも悪くない。僕はきみの味方だ」
 本気で泣きそうになったので、あわててお茶を飲んだ。両手をあわせてごちそうさまを言う。
「ちょっと出かけてくる」
「えっ。どこへ行くの?」
「特訓」
 俺はやっぱり強くならなきゃならねー。あんな目にあわずに済むように。魚を泣かせずに済むように。
 蟹が俺を止めた。
「無茶だよ! もう少し休まなきゃ。魚の力は肉体を癒すけれど、精神には作用しないんだから」
「大丈夫だって。おれ馬鹿だし。心も馬鹿だからもう治ってるよ」
 本当は、体を動かして忘れたいと思ったのだ。いろんな思いを。
 だから蟹の手を振り切って、強引に外に走り出ようとした。
 蠍が言った。
「止まれ」
 俺は止まらなきゃならない。何があっても止まらなきゃならない。止まるぞ!
 くっそー、分かってるのに歩けない。
 蠍が俺の前に立つ。なぜか溜息をついている。
「ふつう催眠というのは、もっと複雑な言葉が必要なんだ。相手の心に添わせるような」
「そうなのか?」
「ああ。こんな単純なやつは初めてだ。ただのひとことだぞ」
「へえ。それって凄いのかよ」
「誉めてはいない」
 馬鹿にされてるらしい。
 そのあと俺は「来い」のひとことで、蠍といっしょに蠍の部屋に行った。
「喋れ」のひとことで、カジキにヤられかけたことを含めて、洗いざらい喋らされた。
 すると蠍は俺の記憶を呼び戻した。蠍となんかした記憶。鼻血が出そうなほどやらしいセックス。
 赤くなる俺に蠍は「この記憶にくらべれば、たいしたことはないだろう?」なんて酷い慰めの言葉を言いつつ、俺に、ちょっと言葉で言い表すのが難しいようなことをさせて、俺の回復したばかりの体力を削った。ひでえ。
 そのあとは蠍のベッドで、ぐっすり眠った。