家が山奥にあるせいで、登校がものすごくめんどくせえ。
帰るのも遅くなる。クラブがあるからだ。
だけど頑張らないと、もうすぐ試合なんだと説明すると、射手は表情をくもらせた。
この人の、こんな表情は珍しいから、不思議に思って尋ねた。
「腹でも痛ぇの?」
「いや。胸が痛い」
「ええっ! 麻痺か!?」
たいへんだ。射手は、そういう危険があるから、気をつけなきゃならないんだ。
しかし射手は首を横に振ると、ふつうの顔でこう言った。
「なんでクラブ辞めないんだ?」
遅くなるのを心配されてるのかと思った。
しかしそういうことじゃなかった。射手は俺にこう聞いてきた。
「野球、遊びでやってるならいいけど、牡羊は本気でやってるんだろ?」
「ああ。2年になったらレギュラーになりたい」
「ぜったいになれるよ。だから辞めたほうがいいだろ。おまえの性格じゃ」
この家の連中と出会ってから、ショックを受けることには慣れたと思ってた。
だけどこれはある意味、いちばんショックな出来事だったかもしれない。
俺は、馬鹿だけど、運動には自信があって、だから今の高校も推薦で入れたんだ。
投げるのも打つのも得意だった。速い球を、思ったところに投げて、思ったところに打って、思ったところで捕球できた。
けど、そのための努力もした。毎日走って、素振りして、壁にボール投げて。
その努力の結果だと思っていた俺のプレーは、実は、俺の自覚してない能力の結果だったんだろうか。
そしてこれからは……俺は卑怯なプレーなんて絶対にする気は無いけど、ついうっかり出しちまった能力の結果で勝っちまったりするんだろうか。
そういうことを悩みながら、クラブやっていかなきゃならねーんだろうか。
あー、射手が正しい。たぶんこんなこと、この家の連中は全員、気づいてたんだろうな。
俺が自分で悟るのを待ってたんだ。
だけど俺は馬鹿だから、言われなきゃぜったいにわかんなかったと思う。
試合でずるいことしちまってから、がく然とするパターンだったと思うんだ。
だから、射手を怒鳴りつけて部屋に駆け戻った俺は、たぶん最悪に失礼なやつだ。最低だ。
だけど俺の中で、悲しいのとか悔しいのとか、いろんな感情がごたまぜになってて、どうしようもなかった。
ずっと布団にもぐってた。ドアには鍵をかけてた。途中で蟹とか魚とかが、部屋のドアをノックしてきたけど、無視した。
それで、夜中になって、さすがに腹が減って、そろそろ下に降りようかなあと思いだしたところで、気配がわいた。
射手が部屋の真ん中に立ってた。
俺を見ると、ぱっと笑顔を作って、手を差し出してきた。
「遊びに行こう」
ハイとかイイエとか、そんな言葉を思いつく暇もなかった。
射手の手が俺の腕に触れ、それと同時に俺は、知らない場所に居た。
視界いっぱいに広がる海と、ものすごい星空。耳には波音。鼻には潮の香り。
誰も居ない海辺は、ただそこに在った。砂浜に俺と射手というアクセントをつけて。
射手を見ると、両手をあげて伸びをしていた。それから自慢げにこう言った。
「すごいだろ。誰も居ない」
驚きの感覚が過ぎると、バツの悪さが戻ってきた。
射手になんて言ったら良いのかわからなくて、どうでも良いことを言った。
「靴、はいてねー」
「取ってくる。ついでに何か持って来るわ。五分待っててくれ」
また、おうとも何とも言う前に、射手は消えちまった。
忙しい男だなあ。
しばらく、海を眺めた。広くて遠い、なにも無い世界に居ると、俺の気持ちも解放されてきた。
俺がなにを悩んだとことで、世界は広いんだよな。
射手が帰ってきた。いっぱい荷物を持ってた。片手には袋入りの飲み物。片手には獅子をつれている。
それはいいんだが、獅子は全裸だった。髪も体も濡れていて石鹸の泡まみれだった。
獅子のポーズは、少し屈みこんで、差し上げた手でシャワーを掴んで、頭を流そうとしつつ、背後の射手を振り返った、みたいな感じだった。どうやら風呂に入ってたところを拉致られたらしい。
獅子はぐるっと振り返って俺を見ると、当たりを見回してから、射手に文句を言った。
「人の返事を聞いてから行動しろおまえは」
「急いでたんだ。あっ麻痺が来た」
射手の左手から袋が落ちて、缶やら何やらが散らばった。
俺はそれらを拾い集めながら尋ねた。
「俺の靴は?」
「忘れてた」
それが目的で戻ってたんじゃねーのかよ!
獅子がびしっと俺を指さした。
「貴様、この俺の、この姿を見たあとだというのに、まだ靴ごときにこだわるのか」
それもそうか。
俺は納得した。けど獅子は、あたりまえだが不満そうだった。
「戻せ射手」
「なんで」
「体を流したいからだ! 海に飛び込めとでもいうのか!? そのあと服を着たいからだ!」
「もー獅子はわがままだなぁ」
言いながら射手は、自分の服を脱ぎ始めた。
俺が思うに、獅子はワガママは言ってない。けど射手の中では、獅子はここに居るべきだっていう結論が出てて、だからその状態にとって当然の行動を取ってる、ってことなんだろう。
結論からものを考えるやつなんだな、と思いながら、俺も脱いだ。
みんなで全裸で海に飛び込み、全裸で泳いで、平等に濡れた。
そのあと俺が能力で流木をあつめて小山を作った。そこに獅子が炎を投げ込んで焚き火にした。
射手と獅子はビール飲んで、お子様な俺はジュースを飲んで、なんかどうでもいい会話をだらだらやった。
顔半分に火の光を踊らせて、あと半分を影にして、射手が言う。
「だからさ。獅子がドMになっちまえば最強なんだよ」
痛くても気持ちいいから制限が解除される、というのが理由らしい。
ふざけた論に対して、獅子はまっとうなことを言った。
「ふざけるな」
「俺は真剣だ」
「真剣ならなおさらふざけるな。俺はどう考えたってMじゃない。Sだ」
そっちが問題なのかよ。
射手は真剣な顔で足元を見つめた。
「いいアイデアだと思ったけれど、根本的に無理があったか」
「おまえこそMになれば良いんじゃないか? 動けなくなっても落ち込まずに済む」
「それじゃ俺の問題は解決しねぇ。俺さ、手や足が動かないのも嫌だけど、いちばん嫌なのはチンコだと思うんだ」
「……」
「好きな子のところに飛んで行って、いざ本番って時にチンコが役に立たなかったら、俺のプライドはズタズタだ」
「たしかに、それは恐怖だな」
「だろ? だから俺はふだんから自分に言い聞かせてる。夜這いだけは歩いて行くようにしようって」
馬鹿だ。こいつら、馬鹿だ。
大笑いしながら俺は、今まで悩んでたこととか、苦しかったこととかを忘れていた。
誰だって、何かが出来なくなったり、とつぜん駄目になったりすることはある。
大切なのはそのあと、何かが出来ない自分とどう付き合っていくか、そして今の自分に出来ることは何かを、考えることなんだろう。
やがて射手が「酔った。あつい」とつぶやいて姿を消した。
同時に海のほうで、水しぶきがあがる音を聞いた。海上に飛んで落下して、体を冷やすことにしたらしい。
すると獅子がちらりと俺を見て、そばの袋に手を突っ込んだ。ビール缶を取り出し、それを俺に放ってよこす。
「射手は口が軽い。俺はそうでもない」
……実は興味があったんだ。ちょっとくらい、いいよな。
そっとビールのフタをあけて、飲んだ。苦かった。あんまり美味くはないような。
獅子が俺の表情を見て笑う。そしてタバコを取り出し、一本を咥えて、指先から火をつける。
しばらく二人で、まったりと沈黙した。心地よい時間だった。
俺は獅子に聞いた。
「射手、俺を慰めようとしてくれてんだよな?」
やり方は無茶苦茶だが、そういうことなんじゃないかと思った。
獅子は考え、首を横に振った。
「違うだろう。あいつは単におまえに興味があって、一緒に遊びたかったんだ」
「そっか。でもまあいいや。スッキリした」
言いながら笑ってみせると、獅子は複雑そうな顔をした。そういう顔をすると、なんか怒ってるみたいに見えた。
でも、そうじゃないんだってことを俺はもう知ってる。獅子はそっぽを向いて、そっけない口調で語りだした。
「射手に、悪気は無い。おまえを傷つけたのも、わざとじゃない」
「わかってるよ」
「わかってはいないだろう。……いつだったか。双子だったと思うが、あいつが言っていた。射手は欠落していると」
それはわからない。どういう意味だ?
俺にはわからなかったが、獅子にはわかっているらしく、獅子は苛立ったようにタバコの火を消して、また別の一本を咥えていた。
「昔、強敵と戦ったことがあった。俺は当然勝ったんだが、まずいことになった。敵を倒すために、そのとき居た建物全体に火を回らせたため、脱出できずに閉じ込められてしまった」
「あんたは火をあやつれるんだから、逃げ道くらい作れるだろ」
「制限が過剰に出て、痛みで集中できず、能力を使えなくなったんだ。しかし俺は自分の危機だとは考えていなかった。なぜだかわかるか?」
「わかんね」
「なにもかもが燃えて、火と煙のうずが周囲に立ち込め、壁や柱が燃え落ちる中を、やっぱり射手は飛び込んできたからだ。そうなることは分かっていた。やつは俺を探してあちこちを飛び回り、あげくの果てに五体のほとんどを麻痺させていた。それも俺は予想していた。やつは俺を連れて安全な場所に飛んだ。そして飛び終えると同時に心臓を止めた」
射手は欠落していると誰かが言ったらしい。
欠落の意味はわからない。けどなんとなく、ぼんやりとした意味が、感じられるような気がした。
「止まった心臓は魚が動かしたの?」
「いや、俺が痛みを気力でねじ伏せて、人口呼吸と心臓マッサージで動かした」
「よく復活したなあ。あぶねぇ」
「ああ危ない。あのとき思ったんだ。射手の欠落というやつを埋められる人間が必要だと」
「どういうやつ?」
「わからん。だか俺でないことは確かだ。だから、おまえかもしれない」
俺?
それは……違うんじゃないか?
「俺どっちかというと、あんたがピンチだったら、射手と似たような行動取ると思うぞ」
死んでも助けなきゃならねぇヤツだったら、死んだって助けるだろ普通。
獅子は、眉をしかめた。
「大きな世話だ。あのときは特別だ。おまえに助けられる俺じゃない」
「うるせー。ぜったい助けるぞ。助けられたくなかったら、助けられたくなくなってみろ」
ビールひとくちで酔ったらしく、自分でも、なに言ってんだか分からなくなってきてたんだが、獅子はなぜか、照れたみたいに焦りつつ「黙れ」と言った。
俺はさらに何か言いかけ、別のことを思い出した。
「射手、いつまで泳いでるんだ」
はっと獅子が顔をあげる。
瞬時に俺も悟る。海に飛んだ射手。まさか心臓が。
立ち上がった俺たちの背後、海と反対側にある木立の方で、がさがさと音がした。
振り返ると、木立の茂みに射手が立ってた。片手を麻痺でぶらぶらさせて、片手にコンビニの袋を持って。
「アイス買ってきた。食うだろ?」
「全裸で行ってきたのか!?」
「大丈夫。ちゃんと金は払った」
俺は思う。俺はたしかに馬鹿だ。間違いなく馬鹿だ。
だけど射手ほどじゃねー。さすがの俺も裸でコンビニには行けねぇ。そんな行動は取れねー。
三人でアイス食って帰った。無茶な夜遊びは楽しかった。
けど家では乙女が待ち受けてて、俺ら滅茶苦茶に怒られた。