卒業式が終わったあと、牡牛はクラスの仲間と、カラオケに行った。あまりよく知らない歌を2曲ほど歌い、そのあとは黙々と食べて過ごした。やがてお開きになり、牡牛は二次会を断った。
「家が遠いんだ。帰らないと終電を逃す」
そう言うと、射手が言った。
「うちに泊まれよ。うちは防音の部屋があるから、騒いだって平気だぜ」
牡牛は困って蠍を見た。実は牡牛は、蠍を家に連れ帰る計画を立てていたのだ。というのも蠍の家庭は、非情に環境が悪く、牡牛は以前からそのことを心配していた。相談にも乗り、悩みも聞いてきたのだが、こうして卒業を迎えた以上、もう蠍を助けてやることはできない。だから最後に、蠍を本当の意味で、本格的に助け出してやれないかと考えたのだ。
「どうする?」
尋ねると蠍は、微笑んだ。
「牡牛にまかせる」
「行くか。最後だしな。一日くらい遅れてもかまわないだろう」
「何が遅れるの?」
「なんでもない」
それで彼らはファーストフード店に行き、安い値段の品物を買って、分け合って食べた。果ての無いお喋りに興じながら、彼らは心の底で、この瞬間が永遠に続くことを望んでいた。しかしまもなく女子のひとりが、遅くなったのでもう帰ることを告げてきた。それをきっかけに解散になった。射手は家に携帯をかけ、車を呼んだ。牡牛と蠍は、運転手つきの高級な車に、おののきながら乗り込み、夜の街を移動した。
途中で、射手が言った。
「悪いもんじゃないだろ?」
牡牛は「何が?」と尋ねた。
射手は窓の外に目を向け、通過する街灯を見ていた。
「これだって嘘じゃないんだ。おまえの頭の中では真実だ。有り得たはずの、おまえの人生」
牡牛はうろたえて、反対側に座っている蠍を見た。
蠍は視線を足元に向けて、静かに言った。
「今度は破天荒な人生を選んでもいい。遊びに夢中になったり、ギャンブルにはまったり、犯罪に手を染めてもいい。そうして太く短く生きて、死んでしまってもいい。でもそれで後悔したなら、また別の生き方をすればいい。どんな人生を選んでもいいんだ」
射手は笑った。
「なあ、次は俺を選んでみろよ。面白いぜ」
蠍はまた「それでもいい」と言った。
「射手を選んでもいい。別の女でも、男でもいい。ただ何回かのうちに、一度くらい、俺を選んでくれたら嬉しい。でもそんなことしなくてもいい。すべて牡牛の自由だ。俺はただ、おまえと、おまえの世界のすべてを愛するだけだ。おまえが俺を鬱陶しいと思うんだったら、俺の居ない人生を選んでくれたってかまわないんだ。俺はおまえの選択を守る」
牡牛は座席の背に体重を預け、片手でひたいを押さえた。
「夢か。これが」
射手がそれを否定した。
「夢と現実に差は無いんだよ。おまえがどれを選ぶかってだけの話だ」
牡牛は記憶をさぐり、見てきた夢の隅々までを思い出そうとした。そうしながら言った。
「幸せだった」
蠍は牡牛の肩に手を置いた。
「いつまでも続く、終わらない幸福。それを選ぶこともできる」
牡牛は安堵に満たされた。なんて安全な世界だと思った。不幸でさえも幸福の一部としてカウントされる。かつて自分はそういう世界に住んでいたのだ。
「こういう現実も有り得たんだな」
射手は頷いた。
「ここだって地球だし日本だし、一個の世界ではある。けど、すごく熱量の低い、小さな世界だ」
蠍がそれを補足した。
「でもそれは現実に生きてても変わらない。人は頭の中味以上のなにかを得ることはできない」
自分が生まれたときに世界は始まり、自分が死んだときに世界は死ぬ。
牡牛は、彼の手に入れた、多くの仲間たちのことを思い出していた。この世界にも彼らは居る。牡牛は望むままに彼らを手に入れることが出来る。気に食わないなら排除することさえ出来る。選択の権利は牡牛にある。
自分は誰が欲しいのだろう。そう考えて、牡牛は気づいた。
「あいつらだって死にたくないのは同じだろう。俺だけが生き残るってのはどうなんだ。俺だけを眠らせて、みんなはきっちり生ききるのか。ずるいだろうそれは。俺もちゃんと生きたい」
射手は蠍に目を向けた。
「だってよ。起こしてやれ」
蠍は首を横に振った。
「いやだ。それでは牡牛は死んでしまう。生命としての死がどれだけの苦痛を伴うのか。牡牛はそれを考えようとしていない」
「死と生はセットなんだよ。牡牛にはそれが分かってるんだ。起こしてやれよ」
「牡牛。よく考えて。もっと見て、聞いて。それから……」
蠍は牡牛の頬を両手ではさみ、じっと顔を覗き込んできた。
牡牛ははっとした。蠍の瞳が、赤かったからだ。
赤い瞳の蠍が言う。
「判断して」
そしてその瞬間、牡牛は牡羊になった。
彼は彼を閉じ込めた扉を両手で叩きながら叫んでいた。
「魚を返せ! 返せ! 返せえええええっ!」
固い扉を叩きすぎて、手はすり剥けて血を流している。しかし傷みなど問題ではなかった。処刑される魚を牡羊はひたすら案じていた。その恐怖と混乱はすさまじく、また彼の中には憎しみさえも発生していた。もしこのまま魚を失ってしまえば、彼は自分を永遠に許せなくなるような気がしていた。つまり今現在から彼は、今後の自分を許さぬことをほぼ決定していた。
そしてその瞬間、牡牛は双子になった。
モニタに並ぶ文字列は、双子になにも答えをくれない。それでも双子は探し続けた。どこかで、だれかが、まともで冷静な思考を持った誰かが、双子を助けてくれると信じて。しかしネットは無限ではなかった。電力のストップごとに絶えて消えていく、有限で頼りない世界でしかなかった。やがて双子は探すことを諦めた。諦めて絶望した。そして誰かを求める心の全てを、そのまま今いちばん近くに居る友人に向けた。受け入れられないと分かっていながら。
そしてその瞬間、牡牛は蟹になった。
彼は路地に屈みこみ、手で犬の口を押さえ、必死で隠れていた。探索者は向こうの道で、犬の足跡を調べている。手には大きな槍を持っている。見つかれば殺されてしまう。しかし蟹の努力もむなしく、一匹の犬が、蟹を心配して鼻を鳴らしてしまった。音を聞きつけて、足音がこちらに向かってくる。蟹は覚悟を決めなければならなかった。ポケットからナイフを取り出し、彼は言った。
「みんな。手伝って」
口から手を離された犬が、応じるように激しく吠えた。
そしてその瞬間、牡牛は獅子になった。
目の前で友人が、噛まれて肉をえぐられた肩から、激しく血を噴出させていた。そこを押さえながら彼は言った。
「殺してくれ。早く殺してくれ。頼む」
その言葉の語尾は、音楽機器で速度を落としたかように間延びしていた。友人は瞳をぐるりと裏返し、白目を剥いて、舌を吐き出し、牙をのぞかせた。
その瞬間、獅子は引き金を引いた。直前まで友人だったその男の頭は、落下させた果実のようにはぜ割れた。そうして獅子はまた友人をひとり失った。
そしてその瞬間、牡牛は乙女になった。
鏡の中の自分の姿を乙女は激しく嫌悪していた。病院で、手に入れた包帯を身に巻きながら、そんなことが必要なのだろうかと考えたりもした。このまま自分は日の光の中に飛び出し、陽光でわが身を焼き尽くしてしまった方が良いのではないかと思ったのだ。
しかしそのとき、ある母親から預かった赤ん坊が、足元にすがりついてきた。彼は乙女に甘えてミルクを欲しがっていた。乙女はその子を抱き上げ、不思議な感慨を感じながら、その小さな瞳をしげしげと見つめた。
「おまえは俺を怖がらないんだな」
そしてその瞬間、牡牛は天秤になった。
仲間うちで神聖だとされている仕事を彼は手伝っていた。最初は人間だったものが、仲間の手馴れた技でもって、ただの肉に変わっていく様子を彼は見ていた。逆さまに吊られ、両足をV字に開かれ、股間から首までを断ち割られた死体は、腹から内臓をこぼれさせて下のタライにぶちまけた。濃厚な血の匂いに、昔は吐いたこともあったが、今の彼は空っぽの胃袋が鳴る音を聞いていた。理性は彼に、そんな自分を否定せよと言うが、本能は彼に生きろと告げる。なんとしても生きろと。このままケモノと化していく醜い自分を想像し、天秤は久しぶりに嘔吐感を感じた。
そしてその瞬間、牡牛は蠍になった。
彼は目を閉じすべての感覚を殺し、暴力に耐えようとしていた。そしてそれはもはや容易だった。与えられる苦痛も屈辱も自分のものではない、どこか遠くで響く雷鳴のようなものだと考え、肉体と心を切り離す。そして想像の世界に精神を飛ばす。寂しさを紛らわせるために。彼を抱く暗闇は別の誰か。愛しい誰か。そう思うと蠍の中にいっきに感情が湧いてきて、それは体を熱くして声をほとばしらせ、彼を汚すけだものに満足と嫌悪を与える。
そしてその瞬間、牡牛は射手になった。
目を閉じれば暗闇、目を開いても暗闇。暗闇と暗闇の区別がつかなかった。意味の無いまぶた。そんなものは要らないので、指でむしってしまおうかと考えた。しかし試しにまつ毛を引き抜いてみると非常に痛かったので、射手は涙を流して後悔し、自分の目論見の馬鹿らしさがおかしくなり、大声で笑った。笑い声は次第に大きくなり、止まらず、射手は自分がなんで笑っているのかを忘れてしまったが、惰性で爆笑を続けた。腹をかかえて転がりまわり、呼吸困難を起こしつつも笑いを止めなかった。
暗闇と無音の世界で、射手は狂いかけていた。
そしてその瞬間、牡牛は山羊になった。
世界が逆転する。落下しながら山羊は、手を友人に向かって伸ばしていた。その手を取ってほしいという意味ではなかった。彼はいまだ危険な場所に立っている、友人のことを心配していたのだ。そこに居てはいけないと言いたかった。すぐ背後に化け物がいるじゃないか。しかも山羊の視界の中で、友人の表情は青ざめ、目は驚愕に見開かれ、口は叫びの形に固定されている。
「山羊っ!」
彼は大丈夫だろうか。そう思った瞬間、後頭部に強い衝撃を感じた。
そしてその瞬間、彼は水瓶になった。
人として成すべきことは、人を残すこと。彼は自分を無情だとも非情だとも思っていなかったが、なぜか彼の与えられた役割は常に、無情で非情な選択を求められた。水瓶は常に選択した。大切な友人を危険な場所に向かわせ、別の友人が感染すると解剖し、また実験を繰り返して原型も留めぬ姿に変化させた。
水瓶は後悔をしていなかった。だがあるとき窓から外を見て、満天の星空を見たときに、心の底から思ったのだ。疲れたと。
そしてその瞬間、彼は魚になった。
魚は祈っていた。常に魚を守り、常に魚を助け、常に魚のためにいつも傷だらけになっていた友人のために。魚はその友人の足手まといであることをいつも悔やんでいたので、今やっと彼の助けになれたことがとても嬉しかった。どうか彼がいつまでも幸福で健やかでありますように。その願いが叶えられるのなら、自分なんてものは死んでしまって一向に構わないのだ。
魚に後悔は無い。しかし怖い。怖くてたまらない。なんでこんなことになってしまったのだろう。
果てしなく続く苦痛の螺旋の中で、牡牛は蠍の声を聞いた。
「俺にも彼らにも、選ぶ権利なんか無かった。選べるものなら選びたかったと、みんな思っている。だけどもう無理。みんな死ぬ。だから牡牛は彼らの希望。彼らはみな、牡牛は生き残るべきだと思っている。おまえはそれが分かっているのか」
分かってはいなかったな、と牡牛は思った。
そう思うと同時に、牡牛は目覚めた。
「どういう耳だよおまえの耳は。なんでこの騒がしい中で眠れるんだ」
そう言う射手の声がいちばんうるさかった。牡牛は身を起こし、辺りを見回した。
なんの飾りも無い、無機質なコンクリートの部屋に牡牛は居た。周りにはクラスメイトたちの姿がある。彼らは浮かれ騒いでいた。携帯からの音楽にあわせて歌を歌っている者も居れば、お喋りに興じている者も居た。
卒業式が終わったあと、クラスメイトと遊びまわった牡牛は、三次会として射手の家に遊びに来たのだ。射手は防音のきく地下室に彼らを案内した。牡牛はそこで、飲み食いしているうちに、眠くなってしまったのだ。
牡牛は、目をこすった。
「眠い。へんな夢を見た」
「どんな夢だ?」
「みんな夢だって夢だ」
「それはたしかに変な夢だな」
「……眠い」
「こっち来い。上に客間あるから、そこで寝ろよ。ほら蠍も」
牡牛はふらふらと立ち上がり、蠍の方を見た。
蠍は壁に背をつけて、そこにもたれて寝ていたのだが、射手に体を揺すられて、呻き声をあげて目を覚ました。とろんとした瞳に牡牛を映し出すと、寝ぼけた声で、おはよう、などと言う。
牡牛は首をかしげた。
「まだ、おはようには早いだろう。早く俺を起こしてくれ」
蠍は驚いたように目を見開き、そのまま、悲しそうな顔をした。
「なんで」
「色々ごちゃごちゃ考えたけど、結局は……。この世界を知れて幸せだった。みんなに有り得たはずの、違った未来が見れて嬉しかった。でもここには、自分の欲しい人間は存在しないんだ。俺が欲しいのは、あっちのあいつらなんだ。こっちのこいつらじゃないんだ。分かるかな。こいつらじゃ駄目だ。こいつらは俺のものじゃない。俺は、俺が苦労して探して、見つけ出した、あいつらのところに帰りたい」
射手が、吹き出していた。
「あっさりと人をモノ扱い出来る、おまえの潔さが素晴らしいよ」
「うん。でも本音だ」
「おまえ起きたら死ぬよ? たぶん悲惨な死に方するよ。後悔しても、もうリセットは利かない。いいんだな?」
「いい」
蠍は静かに涙を流していた。彼は牡牛が感じていない絶望を、かわりに感じているかのようだった。
「すべての人間が死に絶えて。おまえだけが生き残って。凶暴化した友だちや環境の汚染が、おまえの心と体を蝕んで。ひとりきりで、苦しんで、悲しんで、孤独に、寂しく死んでいくことを、おまえは本当に望んでいるのか」
牡牛は溜息をつき、言った。
「いやだけど仕方が無い」
そして牡牛は蠍の前に立ち、かがみ込んで手を伸ばし、蠍の頬に触れた。夢だとは思えない暖かな肌と、涙の冷たい感触を、牡牛は指先で感じ取った。
指をこすりあわせ、その手を握り締めた。
「まあ約束どおり、目が覚めたら、蠍は俺のものだ」
蠍は驚いていた。無防備な表情は妙にあどけなく、子どものようだった。可愛らしいな、と思った途端。牡牛はこの世界における、最後の目覚めを経験した。