冷たい水の中で牡牛は目覚め、自分を囲む四方のガラスにゆっくりと目を向けて、なんで自分は水の中なのに息が出来ているのだろうと考えた。手を伸ばして前面のガラスに触れ、押してみると、そこは水槽のフタであったらしく、すっと遠ざかって跳ね上がった。牡牛は身を起こした。体から軽い肌触りの液体がするすると流れ落ちてゆく。途端に牡牛は肺に違和感を感じ、激しくむせた。むせるついでに吐こうにも、肺の中が液体に満たされているので、空気の圧力でそれを押し出すことが出来ない。牡牛は苦しみ、胸を押さえるようにして体をかがめ、それで偶然にも、体を斜めにすることによって、肺の中の水を流し出せることを発見した。鼻と口から水を出し、かわりに入ってきた空気でおもいきりえづき、牡牛はまたしばらく咳と涙にまみれて苦しんだ。
そしてようやく落ち着いた牡牛は、自分が、奇妙な部屋に居ることに気づいた。棺桶のようなサイズの水槽がいっぱいあるのだ。牡牛の座っている水槽と並んで、延々と続いて置いてある水槽の中には、やはり生き物が入っているようだった。
牡牛は水槽を抜け出て、寒さに震えながら歩き出した。
水槽の中身は様々だった。植物、動物、爬虫類、魚類、虫、等等。あるものはまだ液体の中に浮いていて、またあるものはすでに凍っていた。どうやらここは牡牛が最後に居た船の奥深くで、これらはノアに選ばれた箱舟の住人であるらしかった。
牡牛は出口を探した。天井の低い、やたらと広い部屋は、壁まで辿りついてもそこにドアは無く、牡牛は壁伝いにひたすら移動をしなければならなかった。しかしまもなくして、並んだ水槽の間にある通路を、なにかが高速度で移動してくるのが見えた。牡牛は彼を待った。
それは牡羊だった。彼は素晴らしいジャンプで数個の水槽を飛び越えると、牡牛の前に着地し、同時に言った。
「なんで起きてきたんだ! 馬鹿野郎!」
牡牛は反射的に両手で頭をかばった。
「殴るんならそっと殴ってくれ。おまえに殴られると痛いんだ。けど謝らない。俺は間違ってない」
牡羊は激情を宿した目で牡牛を睨んでいたのだが、しかし牡牛の言葉を聞いた瞬間、握り締めたこぶしを開き、肩を落とし、うなだれてしまった。意気消沈した様子のまま、彼は言った。
「俺はおまえを助けたかったのに」
牡牛は頭から手を下ろすと、冷静に答えた。
「魚はもう戻らない。天秤の足も治らない。俺は凍らないし眠らない。だけどそれはみんな牡羊のせいじゃないし、牡羊が気にすることじゃない」
「……」
「そんなことより服をくれ。寒い」
牡羊はすっと目を閉じて、なにかをどこかに伝えると、天井を見上げた。すると天井の一部がスライドして開いた。丸い穴からすとんと降りてきたのは、髪の長いラプンツェルだった。彼は手に牡牛の服を持っていた。
牡牛は受け取りながら尋ねた。
「おまえ、中味は誰だ?」
「俺」
「蠍か」
「俺の体は、上」
「どうやって登るんだ?」
「牡羊が運ぶ」
牡羊を見てみると、彼は拗ねたように唇を尖らせていた。
「こっち来いよ」
恐る恐る牡牛が近寄ると、羊は牡牛の胴を片手でぐっと抱き、同時に飛んだ。
天井の穴から上に上がり、着地すると、そこは薄暗い世界だった。牡羊は即座に牡牛を手放し、牡牛はよろけて地に片ひざをついた。
この空間はそれほど広くはないようで、ゆいいつの光源からの光が、パイプやチューブの走る壁を照らし出している。光源は、やはり水槽だった。そのサイズはずいぶん小さく、また小さいことの意味も明らかだった。牡牛は声をあげた。
「そういうことか」
蠍が水槽の前に立った。
「これが俺のからだ。この世に残された俺自身」
かつて射手は言っていた。蠍の体は箱の中に閉じ込められていると。だから牡牛は蠍を見ることも、声を聞くことも出来ないのだと。肌と肌を触れ合わせることもできないただの箱。それではその箱は人間か? 水槽の中に浮かぶ脳を見つめながら、蠍が淡々と言った。
「俺は消えてしまいたかった。水瓶は人を残したかった。だから協力しあった。多面的意識の中には、白化した様々な人間たちの情報が蓄積されている。また多面的意識は、人間の脳内の情報を、様々なかたちで利用することが出来る。だから水瓶は多面的意識を、バイオコンピュータとしてそっくり使うことにした。俺の肉体のほとんどは取り除かれ、それは研究材料になった。そしてこの脳は、俺の持っていた内臓の一個にすぎず、俺にとっての価値は、爪の一個や髪の切れ端ぐらいのものにすぎない。
今、この脳は、牡牛の体験した夢を紡いでいる。この脳は、この箱舟に生き残ったものたちに対して夢を与え、夢の世界に一個の生命圏を完成させ、また人間に対しては文明を与えている。この脳につながれて、世界と人類は生き延びる。
もし牡牛が、こんなものでも俺だと言い、俺を欲しいと言うのなら。おまえは自分の手で、ひとつの世界、ひとつの文明、ひとつの生命圏を滅ぼすということになる。それでもこれが必要か? かつて俺の心を納めていた器が」
牡牛は緊張を解くために、息をゆっくりと吐いた。そして腕組みし、目を閉じた。
自分を消してしまいたかった蠍は、それを物理的に成し遂げようとしたのだ。体を切り取って捨て、脳をただの道具に変えて、人間の世界のために提供した。それはつまり自殺だ。だから蠍の精神が、あたかもさ迷う幽霊のように存在し続けることは、蠍にとっての自殺未遂なのだ。
牡牛はしばらく考え、やがて目を開き、牡羊に尋ねた。
「牡羊はどう思う?」
牡羊は上目遣いに、蠍の前の水槽を睨んでいた。
「気に入らねえ。けど、なんでなのか、うまく言えねえ」
「俺はまさか、友だちを連れて帰りたいってだけの俺の思いが、世界を滅ぼすことに繋がるなんて思わなかったんだよな」
「そりゃあ、そうだろうよ」
「どうしよう」
「なにが、どうしよう、だよ。おまえが寝てりゃ万事解決だったんだ。蠍はおまえのために頑張ったのに。おまえが起きちまったら意味ねーじゃねえか」
「嫌なものは嫌だ」
「大馬鹿野郎」
「で、俺はこうも思う。 俺の友だちの犠牲を前提にしないと成り立たない世界なんて、クソ食らえだ。牡羊はそう思わないのか?」
すると牡羊は、吃驚したように目を丸くした。
それから、からっと笑った。
「ああ! そういうことを俺も思ったんだ」
すべては脳の見せる夢なのだとしても。夢には必ず終わりがあるものだ。終われない、終わらせられない夢をつむぐ脳の存在に、牡牛はグロテスクなものを感じた。理屈ではない、生理的な嫌悪感だった。永遠に栄養を補給されながら、ゴールの無いマラソンを続けさせられる陸上選手は、果たして幸福だといえるだろうか。
「最初からおかしい計画だと思う。いろんな人間の不幸と引きかえにしないと、手に入れることができない幸福なんて、なんというか、魂と引きかえに願いを叶える悪魔っぽいかんじがする」
「おまえ、うまいこと言うな。俺も賛成だ」
「良かった。あの水槽、持ち運べるのかな」
「くっついてるところを分解してやるよ。なんかそういうことができるんだ俺」
蠍が牡羊に顔を向けた。
「少し待って。下の安置室にあるすべてのケースに冷凍を命じるから。彼らはもう夢を見られなくなるけれども、眠りながら生きることは出来る」
「どのくらい待てばいいんだ?」
「もう少し。……もういい」
即座に牡羊が水槽に近寄り、その側面に手を置いた。いましめのように水槽に接続されていたコード類が、牡羊の手の動きに従って外れて垂れ下がり、最後に固定していた台座が砂と化して崩れ落ちた。
牡牛も水槽の前に立つと、シャツを脱いだ。そして、かつて蠍の心の器だった内臓器官を収めた水槽を、シャツでくるんだ。それで蠍が捨てようとした知の箱は、夢と世界を紡ぐことが出来なくなったのだが、牡牛はそのことについては、未練や後悔をまったく持っていなかった。むしろ別のことを気にしていた。
「牡羊は体を刺されたあと、体の穴がすぐに元に戻ってただろう。あと火で溶けたあとは、時間をかけて戻ってた。これも元に戻ったりしないのか」
そう言うと、牡羊は首をひねった。
「どうだろ。俺もそこまで切り刻まれた経験は無ぇからな」
「わからないのか」
「べつにいいじゃねえか。今の蠍の体だって、なんかナヨナヨしてるけど綺麗だぞ。ものすごく整形したと思えばいいんだ」
「うん……」
「あーもう諦めの悪いやつだな。水槽の中身はちょっと変わった金魚だと思っておけよ。蠍は金魚になったんだ」
「いやだそんなの」
牡羊はさらに何か言い募ろうとして、ふいに蠍を振り返り、言った。
「おまえ、嬉しいんだったら笑えよ。笑わないから誤解されるんだ、おまえは」
蠍は返事をせず、顔をうつむけた。照れているのだろうと牡牛は思った。
そして彼らはそののち、移動を開始した。上階へ、さらに上階へとあがり、たどり着いたのは船の甲板上だった。空は満天の星空で、潮風は心地よく、牡牛はとても解放的な気分になった。そしてまさしく、牡牛は解放されたのだった。
船のタラップを降りると、夜の闇の中でも、水瓶が引きこもっていたテントはすぐに見つかった。そこは強いライトで照らし出されていたからだ。おそらくゾンビ避けのためだろう。牡牛が白い二人をともなって中に入ると、テントの中は、ゴミが片付けられていた。あらわになった空間で、獅子、双子、水瓶の三人は、どうやら荷造りをしていたらしく、散らばった箱のひとつの上に屈んで、なにかを相談していた。そして牡牛に気づいて、こちらを振り返った。
ひと目ですべてを察したらしい水瓶が、言った。
「これで、パーか。僕が頑張ったこと、すべてが」
言うなり水瓶はへたりこんでしまった。
双子は頭を抱えてきた。
「嘘だろおい。嘘だろ!? 俺が負けるなんて」
獅子は腰に両手を当てて、得意げに双子を見ていた。
「甘いな。確率も損得も関係ない。牡牛ならこうするだろう、ってえ事を読んだ俺の勝ちだ」
どうやら賭けでもしていたらしい。牡牛は少し、むっとした。
「みんな酷いじゃないか。俺を無理に眠らせて、眠らせ続けようとするなんて」
双子が人差し指を牡牛につきつけた。
「アホかこの馬鹿! テメーのせいで人類は絶滅だ! 神様のくれたチャンスを無駄にしやがって。ついでに俺に黒星をつけやがって。信じられねえ」
牡牛は嫌な気分になって眉をひそめた。
「そんなケチくさい神様はいらない」
「まさに神をも恐れぬ大胆な発言だな。ああ、ああ、格好いいこった」
「いい加減にしないと怒るぞ。ていうかもう怒ってるんだ。あんなの蠍が可哀想じゃないか」
蠍はうろたえつつ、牡牛の腕にそっと触れてきた。
「ちがう。いいんだ。もうやめて」
「やめない。水瓶は他の方法を考えなきゃ駄目だ。冬まで必死に考えろ」
水瓶は死にそうな目で牡牛を見上げてきた。
「もう無理だ。ストレスが重い。ストレスに潰される」
「ちゃんとメシを食って、ちゃんと寝て、そこそこ運動しながら頑張ったら、人間そうそう潰れたりしない。今からそうしろ。今からメシを食って、もう遅いから水瓶は寝る。俺は寝すぎて眠れないから、荷造りを手伝う。明日はみんなで展望台に帰ろう」
呆れる者も居れば、苛立つ者も居て、楽しそうな者も居た。そのすべてを牡牛は、愛しいと思った。どんな心を持とうとも、彼らの体はただひとつで、それらを手にしている限り、牡牛に不安は無かった。
牡羊がこっそりと獅子に尋ねていた。
「なにを賭けてたんだ?」
「内緒だ」
「なんでだよ」
「来年の春になったら教えてやる」
そのあとみんなで役割を相談し、獅子は牡羊をともなって船に上がっていった。まだ必要な荷物があるので取りに行くのだという。双子は救難食料を取り出し、床に並べながら、ぶつぶつと文句を言っていた。だが彼は口から出る不平とは逆に、不思議と晴れやかな表情をしていた。水瓶はぐったりと床に伏せて動かなくなった。なにかを手伝わせても役に立ちそうに無いので、皆が彼を愛情を込めて放っておいた。
牡牛は蠍と一緒に、まだまとまっていない荷をくくり始めた。
手を動かしながら蠍が言った。
「ありがとう」
牡牛は溜息をついた。
「ありがとうってことはない。俺は俺の思うようにしただけだ」
「俺を見つけてくれてありがとう。嬉しかった」
「ああ、うん。それは俺も嬉しい」
「でも、あの世界でおまえと一緒に居られなくて、残念だ」
牡牛はすこし、蠍を叱ろうと思った。
「蠍は欲が無さすぎると思う」
蠍は意外そうな顔をした。
しかし牡牛にとっては、その思いは、意外でも何でもなかった。
「蠍は欲が無さすぎるんだ。俺が欲しいんなら、俺の持ってるもの全てを欲しがったらいいのに。俺ならそうする」
止めてしまった手元にじっと視線をそそぎながら、蠍は言った。
「おまえの欲張りには、誰もかなわないと思う」
「そうだろうな」
言いながら牡牛は、まとめた荷をぐっと縛った。
エピローグ
果てしない雪原を歩く、一人の子どもが居た。
なにも無い真っ白な世界に、足跡だけを点々と残しながら、子どもはひたすらに歩いていた。なぜかというと、立ち止まると凍えてしまうからだ。子どもの歩みに意味は無く、行く先に当てもなかった。つまり確定された凍死の運命を引き伸ばすためだけに、子どもは歩いているのだ。
子どもはもともと、北の山の温泉街に住んでいた。子どもがもっと小さなころ、そこはそれなりに賑わっていて、楽しい街だった。しかしあるとき、街におそろしい病気が発生した。生きたままお化けに変わってしまう病気だった。たくさんの大人と子どもが死んだが、街は規模のわりに、旅行者など沢山の人間が居たので、生き残った者の数も多かった。
だが次の次の冬、生き残った彼らのうち、沢山の者がお化けになった。無事な者は協力し合い、頑張ってお化けを退治した。それで街にはつかの間の平和が訪れた。
それから春が来て、なぜかすぐに冬が来た。そして冬が終わらなくなった。幸いにも温泉街に湧き出る熱い湯のおかげで、彼らは寒さからは身を守ることが出来た。しかし余裕は無くなった。彼らは今までのように、お化けに噛まれても無事で居る者に、たとえほんのわずかではあっても、食料を提供することができなくなってしまったのだ。
子どもは手を噛まれていた。だから追放された。リュックサックいっぱいにお菓子を詰めてもらって、子どもは雪の世界に旅立った。彼は、自分が死ぬことは理解していたが、狭い温泉街を離れて、冒険の旅に出られることは嬉しかった。
しかしそんな楽しさも、いまは苦しみに変わっている。子どもは疲れていて、休みたくて仕方が無かった。しかし休めば旅が終わってしまうので、頑張って歩いていたのだ。だがそれも限界だった。子どもは倒れた。汗をかいた体はあっという間に冷えて、冷えた空気と大地の雪が、子どもを氷漬けに変えようとした。
寒くて、苦しくて、寂しいと思ったとき、子どもは声を聞いた。
「頑張って。大丈夫。きみは助かる」
気がつけば子どもは、知らない大人の背中に背負われていた。その大人はしっかりとした足取りで歩みつつ、子どもに絶え間なく声をかけていた。
「名前は? どこから来たの。なんであんなところに居たの」
子どもがそれを説明すると、大人はくっついた背中の筋肉が縮まって固くなるほどの、大きな深い溜息をついた。
「やっぱりなあ。そういう話はよく聞くんだ。僕の村には、きみのほかにも、そういう人が避難してきているんだよ。生き残るためには仕方が無いおこないなんだろうけど、残酷だよなあ。いやだなあ」
子どもはその親切な大人のことが、心配になった。自分もいつ、お化けになってしまうか分からない。それが原因で追放されたのだ。こうして彼の背中におぶさっているのは危険だ。自分はとつぜんお化けになって、彼を傷つけてしまうかもしれない。
だから子どもは、自分を置いていって欲しいといった。
その申し出を、大人はあっさりと断った。そして子どもを元気づけるためか、歌うように楽しげに語り続けた。
「大丈夫。きみはきっと助かる。方法は色々あるんだ。血清、擬体化、情報生命体化、DNA補完、自己組織のクローン。ええと要するに、お薬や手術で、お化けになる病気を追い出しちゃおう。ただ……、実は僕、いま道に迷ってるんだ。狩りの練習で、ウサギを追いかけててさ。ちょっと深追いしすぎたみたいだ。でも僕の仲間は凄いんだよ。僕がどんな場所に居ても、必ず見つけ出してくれる。でもまあ今日は、テントで過ごそう。狭いけど、くっついて寝ると暖かいし。ああそうそう、僕は漫画を描くのがうまいんだ。退屈だったら、きみに描いてあげる。僕は子どもの読者が欲しかったんだ。きみに会えて嬉しいよ」
子どもは驚いた。そして嬉しくなった。子どもの行った冒険は、規模は小さくて時間は短くて、果てにあるのは絶望だけだったが、その絶望の変わりに彼は手に入れたのだ。宝物を。
終