牡牛は急いで脱衣所に戻ると、衣服を脱ぎ捨てた。水瓶からも、衣服のような、ボロのような、よくわからないものを脱がせると、腹にバスタオルを乗せ、抱き上げて浴室に運んだ。タイルにバスタオルを敷き、上に水瓶を寝かせると、シャワーで湯を浴びせ始めた。
水瓶はどこから手をつけたら良いかが分からないくらい汚れていた。皮膚にこびりついた塗料のようなものは、タオルでこすっても落ちず、爪で引き剥がさなければならなかった。そうして明らかになった水瓶のからだは、非常に痩せていて、あばらが浮いていた。
まもなく、やはり死にそうな声で水瓶が言った。
「気持ちいいな。黙っていても必要な作業が成されていく状態というのは」
洗ってもらえて楽ちんだと言いたいらしい。牡牛は呆れた。
「いったいどのくらい風呂に入ってなかったんだ」
「覚えてない。時間が勿体無くて、そういうのは省いていたから」
「最初、水瓶だとわからなかった。毛の生えた何かだと思った」
「僕は水瓶だ。そういえば挨拶がまだだった。ひさしぶり」
「うん。……横を向いてくれ」
「元気だったのは知ってるよ。僕も頭は元気だった」
「俺のこと、蠍に聞いていたのか?」
「まあね。最近聞いた」
白い者どうしのテレパシーでもって伝えられたのだろう。この船には間違いなく蠍の本体があるのだ。
「蠍は違う体で俺に会いに来てた。こっちの蠍の体は元気なのか」
「いや。蠍は船の奥に居て、そこには僕は入れない。彼が船に乗ってからは、僕は直接には会っていないんだ。ただメッセージをよく届けてくれるんで、それを読んでた」
「反対を向け。蠍の体は閉じ込められてるって聞いた」
「閉じ込められた、のではなく、閉じこもることに彼自身が同意したんだよ」
「会いたい」
「まずは獅子と双子の報告を聞いてからだな」
「わかった。ちょっと黙ってくれ」
牡牛は水瓶の頭のそばに屈みこみ、彼の顔に石鹸を塗って、髭を剃り始めた。毛質自体は細くたよりなく、彼はそう毛深い感じでも無かったのだが、ただ伸ばしっぱなしで放置された月日が、それを取り去ることを困難にしていた。牡牛は肌を傷つけぬように、丁寧にゆっくりと剃刀を動かした。そして石鹸と毛と顔の汚れを、湯でしぼったタオルで拭き取っていった。
水瓶は心地良さそうに瞼を閉じていた。やがて牡牛が、綺麗な顔になったと言うと、ぼんやりと目をひらいて牡牛を見上げた。
「あまりの心地よさに眠ってしまいそうだ」
「風呂を出てから寝てくれ。……体を起こすぞ」
「眠っている時間が勿体無いんだよ。やらなければならないことが沢山あるんだ」
牡牛は水瓶の上体を起こし、背中を洗いはじめた。
「やらなければならないことって?」
「人をどうやって生き残させるか、あらゆる方法を考えてる」
「仮想現実と冷凍睡眠だろ」
「それはもう完成してるけど、仮想現実は情報としての人間を生きさせるだけだし、冷凍睡眠は完全な健康体でないと使っても意味が無いからね。他の方法も探ってる。冬までに、ひとつでも多くの方法を完成させる」
「頭を濡らすぞ」
牡牛は水瓶をうつむかせ、後頭部からシャワーをふりかけた。
髪の汚れもひどく、また頑固だったので、石鹸を直接になすりつけ、容赦なく指でこすった。長い髪はもつれ絡まっていて、牡牛の指に抵抗してぶちぶちと千切れた。水瓶が文句を言った。
「痛いよ」
「俺はバイキンには感染しないって本当か」
「バイキンではないな。菌でもウィルスでもない。正確にはナノマシンだよ。まあ似たようなものだけど、人工的に作られたものだ」
「みんな死んでしまうのか。俺だけを残して」
「死をどう定義するかにもよる。人間の情報をコピーしつくしたら、ナノマシン――僕らはオルフェウスと呼んでたんだけど、オルフェウスは滅びた人体から逃げ出して、ふたたび空中をさ迷う。この世界にはすでに、沢山の情報体が浮遊しているんだ」
「難しいな」
「まあ、すごく感覚的に答えるなら、やっぱりみんな死ぬね」
「俺みたいな体質のやつは、俺しか存在しないのか」
「割合としては1億人に一人。単純に考えれば六十人くらいは居たはずだけど、きみ以外の特異体質が発見されたという報告は受けていない。もう異型化したものに殺されてしまったか、別の理由で死んだか、それはわからないけど」
「見つかっていなくても、どこかで隠れて、生き伸びてるのかもしれないぞ」
「それでは意味が無い」
「湯をかける」
牡牛は水瓶の髪を洗い流した。手で頭髪を絞り、背中に流して、タオルで縛ってやる。それから仕上げに、体ぜんたいを丁寧に流しはじめた。
「なんで意味が無いんだ」
「次の冬で、ほとんどの技術者が死んでしまうと思われるからだ。制御不能になった化学工場、原発、ガスタンク、それらに類する物が、世界中で爆発する。そうすると地球にはごく小規模の、核の冬が来る。予測される期間は半年から三年。いま生き残っている生物のほとんどは、死滅するだろう」
「……どうしようもないのか」
「色んな計画を立ててたんだけどね。各国が見つけ出した特異体質を、船に乗せて、赤道上の無人島に集める計画もあった。あのへんなら冬の力も弱くて、比較的穏やかな気候を保てるから。しかし牡牛以外は、誰も見つかってないからなあ。きみ、たった一人での無人島暮らしは嫌だろう。だからすでに完成している、冷凍睡眠と仮想現実が良いと思うよ」
「いやだ」
「そうか。残念だ」
牡牛は自分の体を洗い始めた。傷だらけの体を石鹸の泡で包み、暖かな湯をたっぷりと使って流した。うっとりするような心地よさだった。
「水瓶は獅子のことが好きなのか?」
「僕は彼を尊敬している。彼が僕をそう思ってくれてるかは分からないが」
「水瓶が獅子と寝てるところを双子が見て、ずっと拗ねてたらしい」
「なぜ拗ねるんだ。僕は双子のことも尊敬している」
「……尊敬って、愛してるって意味か?」
「聞いたところによると、きみも尊敬する人間を一箇所に集めて生活していたのだろう。彼らを愛してるんじゃないのか?」
「そうだけど、ちょっと違う」
「僕も展望台に行っていいかな」
「もちろんだ」
牡牛は幸せな気分を味わいつつ、体を洗い終えた。
脱衣所にハサミを取りに行ったところで、双子と獅子が入ってきた。彼らは牡牛の体を見ると、感心した顔をした。
「すっげー傷だな」
双子に言われて、牡牛は鏡を振り返った。
「どれだろう。肩のは虎だし、腕のも虎だ。腹とか背中は、電気の拷問で火傷した跡だ」
獅子はなぜか牡牛の真横に立つと、無造作に衣服を脱いだ。鏡を向いて、自分の体を指さす。
「この刺し傷は、北の集団にやられた。こっちもだ。これは弾を抜いたあとだ。撃ったやつは警官の銃を奪っていた」
牡牛は素直に「すごい」と言い、双子を振り返った。
双子は慌てたように、両手をあげて左右に振った。
「無い無い。俺は無い。俺は後衛だからあんまり怪我しないから」
獅子がそれを否定した。
「背中に凄いのがあるはずだ。日本刀で斬りかかられた」
牡牛は嫌がる双子を容赦なくつかまえ、シャツを引き剥がして背中をさらした。双子の背中には、斜めに走る柳のような形の傷跡があった。牡牛が凄いと言うと、双子は恥ずかしそうな様子を見せた。
「格好悪いって。背中だろ。なんか逃げようとしたみたいじゃないか」
「ゾンビの傷は無いのか」
「有ったら死んでるって」
そのあとハサミを持って浴場に戻ると、バスタオルに横たわった水瓶が、シャワーからの湯を体に浴びせながら、すうすうと寝ていた。牡牛は二人と相談し、水瓶の髪の痛んだところをざくざくと切っていった。