そして今、牡牛は、海に向かっていた。
大量の荷物を降ろした車には、もとからの乗り手である獅子と双子のほかに、牡牛と牡羊のふたりを乗せていた。ただし牡羊は日光を避けるために、箱詰めにされていた。窮屈な状態ではあるが、動きを停止した牡羊は文句ひとつ言わずに、おとなしく箱に収まっていた。
牡牛は初めて、展望台のある街以外の場所を見た。誰も居ない都市は、幻想的な地獄絵の風情を持っていた。道路はひび割れ、陥没し、こわれた地下のパイプからガスが吹き出して、異様な匂いを漂わせている。本来、水を流し消す役割を持つ排水溝からは、逆に地下水が噴出している。水浸しの街の住人は、虫と両生類と、爬虫類と鳥類だった。牡牛は洒落たビルの窓ガラスが残らず叩き割られて、そこにハトが巣のマンションをこしらえているのを見た。巨大な蚊柱が霧の怪物のように街を闊歩し、それを狙った蛇が枯れた街路樹からぞろぞろと這い降りてゆくのを見た。風が吹くたびに宙を舞う、木の葉とビニール袋と大量の書類を見た。かつて人間だったものも、たまには見ることができた。車がどうしても高架下などを通らなければならないときは、スピードをあげ、そこの暗がりに立っている人型のものを、勢いよく刎ね飛ばさなければならなかったからだ。
牡牛は胸を悪くしたが、それはそういった風景を見たからではなく、単に車酔いを起こしたからだった。都市を抜けると同時に獅子が車を停め、牡牛は後部座席から脱出すると、地面に朝食を吐いた。
双子は牡牛の背中を撫でながら、面白そうに言った。
「おまえの三半規管が、車って乗り物を忘れてるんだろうな」
獅子はボンネットに地図を敷いて、位置を確認していた。
「ここからは窓を開けてもいい。開通直前だった有料道路があるから、それに乗る。危険は無い。……大丈夫か牡牛」
牡牛は持参した酔い止めを飲んだ。
「運転免許、持ってたのか」
「持ってるわけがねぇだろうが」
そして彼らは、綺麗に作られたあと、一度も使われたことの無かった道路に乗った。道は青空の下をただひたすら海へと続き、まもなく開けた窓から吹き込む風に潮の香りが混ざりはじめた。彼らは道をふさぐバリケードを、車を降りることなく退かし、埋立地の広い道路を港へと向かった。
まもなく、崩れたコンテナの山の向こうに、誰も居ない港と、大きな船が見えた。船の前にはテントが張られていた。獅子は急いでその近くまで車を走らせると、急停車させ、牡牛のひたいを背もたれにぶつけさせた。
車を降りた獅子は、テントに向かった。獅子は歩きながら滑らかな動きで銃を抜いていた。
双子のほうはテントには向かわず、車の後ろから、獅子の背中に向けてライフルを構えていた。そして声だけで、そばに居た牡牛に説明した。
「二通りの意味がある。俺は獅子が襲われたときに、援護して敵を撃つ。あと獅子が敵に噛まれたときに、とどめとして獅子を撃つ」
牡牛は借りた双眼鏡でテントの入り口を見ながら、尋ねた。
「水瓶はあのテントに居るのか」
「居ればいいがな」
「水瓶のほかには何人居るんだ」
「最後に受けた連絡では、水瓶一人のはずだ」
やがて牡牛の視界の中で、テントの入り口が開いた。
牡牛は最初、それが何なのか分からなかった。毛と、ぼろぼろの繊維のカタマリのようなものに包まれたそれは、入り口の布を掻き分けて、もっさりと出てくると同時に、その場に倒れ伏した。
双眼鏡に切り取られた視界の中で、獅子が慌てたように駆け寄っている。横で双子も言った。
「あーあ。やっぱああなってたか。行くぞ牡牛」
機敏に駆け出した双子の後を追って、牡牛も走った。
たどり着いてみると、獅子の足元に這っているものは、息も絶え絶えなかんじで声をあげた。
「重力が重い。太陽光線の粒子性が重い。自分が重い。……死ぬ」
どうもその声は、水瓶の声であるような気がした。
獅子は呆れ顔で手をのばし、それの襟首をネコのようにつまみあげた。
「とりあえず、こいつを洗って、髭を剃らせて、髪を切って、あと栄養補給か」
双子はテントの中をのぞいていた。
「なんだこりゃ。ゴミ屋敷かよ」
牡牛もテントの中を覗き込んだ。そして異様な感慨を受けた。
びっしりと四方に積み上げられた何かの機械、モニタ、器具、本や書類。そして床にはやはり、機械と、器具と、本や書類と、食料の容器が散らばっていた。片すみに机と椅子があり、そこからテント入り口までのゴミには、踏んでつぶされた跡があった。
獅子は、船を見上げていた。
「水瓶に必要なものを運び出しておけと言った筈だぞ。俺は」
双子が獅子を振り返り、首を横に振った。
「ゴミと仕事道具しかねえぞ」
「予想はしていたが。こいつには生活能力がまるで無いからな」
「船に上がろうぜ。水瓶の部屋以外は使えるだろ。こいつ料理とか出来ないから、台所は綺麗だと思うし、その様子じゃ風呂も使ってねえだろうし」
「それが良さそうだ」
そして獅子は荷物のように水瓶をかつぎあげた。
「ついて来い、牡牛」
返事も待たずにすたすたと歩き出す。牡牛は双子を振り返った。双子は一瞬、牡牛と視線をあわせたあと、さっと目を反らした。
「行けよ。俺は車の荷物を運んでおくから」
牡牛は双子の中の複雑な思いを察したが、黙って獅子のあとを追った。
獅子はタラップから船上に上がり、甲板上の建物に入った。そうして移動をしながら、牡牛に説明した。
「俺たちが使えるスペースは一部だけだ。特に船体部には入れない。だがそれで充分だ。……ああここだ」
獅子はひとつのドアを開き、中に入った。そこはどうやら浴場であるようだった。片側の壁に棚が並び、そこにカゴが載っている。奥には鏡が張ってある。備品の入った戸棚もあり、獅子はその前に水瓶を下ろすと、戸棚の扉を開いた。
「なんでもあるから使え。水瓶を洗ってくれ。俺は他の設備を見てくる」
そして獅子が去り、取り残された牡牛は戸棚の前に来ると、中のものを確認した。タオルと石鹸と剃刀を取り出し、それを持って浴室に向かう。引き戸を開くと、大浴場があった。大きな窓から降り注ぐ陽光を、空っぽの湯船のタイルが反射している。牡牛は洗い場に近寄り、蛇口をひねってみた。そばのフックに刺してあったシャワーヘッドから、水が流れ出した。まもなくそれは温度をともない、湯に変わった。
牡牛は感動した。
「風呂だ」
手のひらで湯を受け止める。シャワーの放水が皮膚を打つ、ぷつぷつとした手ごたえが懐かしい。