このとき車の中に獅子はいなかった。獅子はとっくに展望台で朝食を食べるようになっていた。牡牛の予想では、獅子は双子のためにそうしているのだ。おそらく心の方では、双子よりも獅子の方が、ゾンビとの共同生活を行う牡牛のやり方に納得していない。しかし双子には精神的な安定が必要で、だから自分が展望台に行くことによって、双子をそこに誘い込もうと考えたのだろう。今の双子に必要だと思われる、友人たちとの会話を与えようとしているのだ。
やがて双子がいつものように、皿の上のものを大半残して、もう要らないということを告げてきた。
それで牡牛は決意し、皿の上にラップをかけなおすと、それを展望台に持ち帰った。そして展望室内に居た獅子に尋ねた。
「今晩、双子をここに連れてきてもいいか?」
獅子は牡牛を見上げつつ、手にしていた箸を置いた。
「かまわんが、どうやって連れて来る気だ?」
「強引に」
「ああ。じゃあ手伝ってやろう」
「頼む」
そうして密約を交わした牡牛は、その日の仕事をつつがなく終え、日が暮れると同時に車に向かった。
寝ていた双子は飛び起きて、自分の武器をさぐったが、それはすでに獅子が取り上げていた。牡牛はロープを持参していて、それで双子を括ってしまおうと思っていたのだが、面白がって出てきた射手と牡羊が、双子の上半身と下半身をそれぞれ抱えて、展望台に連れて行ってしまった。
双子は当然のことながら、皆を罵った。
「なにこれサイテー。レイプなら女狙えよ。たとえ体を好きにされても、俺の心は俺のものなんだからね!」
そのセリフに、射手が爆笑していた。
「いやよいやよも好きのうちってな! 覚悟決めろよ双子」
「いやよいやよは、いやだからいやなのよ。やめてよ。舌噛むわよ」
牡羊が「うるせえなあ」と言った。
「口もふさぐぞ」
牡牛がそれを制した。
「口をふさいだら、喋れないだろ。俺は双子の話が聞きたいんだ」
双子はしかし話をするかわりに、獅子を罵った。
「裏切り者」
その言葉に、獅子はおもいきり眉をひそめた。
「いま何て言った」
「裏切り者って言ったんだよ」
「俺がおまえを裏切ると思うか?」
「いまそうしてるだろ。裏切り者!」
勃発しかけた喧嘩を制したのは、天秤だった。
「久しぶりの言い争いは見ていて面白いけど、僕を面白がらせたって仕方がないじゃないか。双子はここに居るのが嫌なんだったら、さっさと話すべきことを話してしまったほうが、より早く解放されるんだと思うよ」
牡牛は、それはどうかなと思ったが、双子は天秤の話に乗っていた。
「あーもう、何が聞きたいんだって? 俺らの苦労話か。そういう辛気くさいのはパスだ。そうだな、俺が親父のPCから情報を読んで、とんでもないことが起こってるって知った、そのときの気持ちを説明しようか。こんなホラ話、誰が信用するんだって思ったよ。本当に、馬鹿馬鹿しいSFだった。
環境問題を解決するために、プラスチックやゴムなんかの分子の炭素を分解する微生物をこしらえたら、それが軍事にも応用できるって意見が出て、そんな危険なシロモノは封印してしまおうって意見が出て、しかし脳みそヘブンな環境保護団体のやつらがそれを持ち出してしまって、バラ撒いてしまった。そんな話が面白いか? しかもバラ撒いたやつに俺のクラスメイトが居て、だから高い確率で俺のクラスの連中はすでに感染してるだなんて、信じられるか? 俺は信じられなかった。信じたくなかった。信じなかったのに不安だった。
でもあの日、あの体育館で、ああいうことが起こったとき、『ああ今日だったんだ』って思った。そのショックの深さったら無かった。自分の心に殺されるかと思った。だから俺は真っ先に逃げさせてもらったよ。おまえらは全員、頭と体を、体の中のバイキンにバラバラに分解されて、気が狂って死ぬんだと思ってたから。
だからコンピュータ室に行ったのは、頭が真っ白になった俺の、あがき、みたいなもんだった。待ち合わせてた獅子が来るとは思ってなかったんだ。獅子は死んだと思ってた。でも来た。狂ってない獅子が来たんだ。どれだけ嬉しかったか。だから俺は獅子と逃げた」
すかさず、牡牛が口を挟んだ。
「もうひとり居るはずだ。おまえが待ち合わせてた人間が。俺は学校で黒板の文字を読んだんだ」
「親父の文書は国防上の機密だった。だから俺はそっちのことについての詳しいことが知りたくて、獅子に声をかけた。あと俺は、親父の文書に書いてあった、化学式とか、記号とかの意味がわからなかった。俺がそれを知りたいと思ったときに、声をかけたのは誰だと思う?」
「水瓶か」
「あたり。でもあいつは、コンピュータ室には来なかった」
「射手と逃げていたからな」
「らしいな。獅子と基地に行ったときに会えたよ。こうして俺はやっと、自分と一緒に絶望してもらえる、絶望友達を手に入れたわけだ」
双子は笑っていた。しかしそれは明らかに、心からの笑顔と言うよりも、心を悩ませる何かを誤魔化すための、空虚な笑顔だった。
だから牡牛は、そのままのことを尋ねた。
「それで、おまえはなにを悩んでるんだ」
双子は肩をすくめた。
「そりゃ悩むよ。乙女や蟹や魚が、そういう姿になることを、俺は知ってて黙ってたわけだからな。そしてその結果どうなったかを、今この目で見てるわけだしな。ごめんなみんな。俺のことどうする? けどみんな能天気だから、俺を八つ裂きになんて出来ないだろ。有り難い話だ。さあ話は終わった。おれ帰ってもいいか?」
蟹が叫ぶように言った。
「どうしてそんな言い方をするんだ! 君はとても苦しんでるのに」
双子はしかし、蟹を見ようともしなった。
「俺のこれは、たかだが、心の痛みってやつにすぎない。おまえみたいな、体の痛みってわけじゃない」
「双子!」
「怒鳴られたら怖いって。なあもういいだろ。俺帰るぜ」
乙女が双子を止めた。
「心の痛みをくだらない態度で誤魔化すのは結構だが、説明は正確にしてくれ。微生物をバラ撒いたクラスメイトというのは誰なんだ」
「それを聞いてどうすんの。探し出して血祭りにでもあげるか?」
牡牛はそれを知っていた。乙女がそれを知りたがる気持ちもわかった。しかし牡牛は、目で乙女を制した。それ以上聞くなと。
通じたらしく、乙女は言った。
「血祭りなんてことはしないが、必要なだけ怒鳴りつけてやりたい気はするな」
「ここに居るやつかもしれないぜ? だから、それは聞かないほうがいい。おまえらはこの馬鹿馬鹿しい、寝ぼけきった、平和な毎日を、壊したくないだろ」
そのとき山羊は、皆の顔を順番に見ていた。そして悩ましげに吐息をついた。
「みんな変わってしまって、わけがわからない」
双子は、馬鹿にしたような目を山羊に投げた。
「世界が変わっちまったのに、そこに住んでる人間が、変わらないわけがないだろ」
「それはそうだけど、俺は……」
「いつまでも昔にすがり付いてんじゃねえよ。って、俺がこれ言っちゃ駄目か。まあおまえは無事なんだからいいだろ。悩んでないで幸せに生きろって」
牡牛は獅子に目を向けた。そして彼の苦りきった表情を見て、双子の状態がもうずっと、こんなかんじであることを察した。
だから提案した。
「俺と双子の、二人で話をしてもいいか。ちょっと聞きたいことがあるんだ」
即座に、双子が答えた。
「断る。俺にはもう、話したいことなんか無い」
「おまえに無くても、俺にはあるんだ」
すると獅子が牡牛の足元に、鍵を投げてきた。車の鍵だった。
牡牛がそれを拾い上げると、双子は獅子に向かって怒鳴った。
「なんでだよ!」
「俺もおまえに甘えられるのに飽きたんだ。俺はおまえの保護者じゃない」
双子は一瞬、ひどく傷ついた顔をした。しかしすぐに、皮肉げな表情に戻った。
「育児放棄じゃ、保護者の資格はねえわな」
牡牛はドアの前に立ち、そこを開くと、双子を振り返った。
双子は無言で牡牛の前を通過し、外に出て行った。