天秤が来てからひと月ほどが経った。梅雨を抜けた世界は、ひたすらに暑かった。天秤は体の傷を回復させたものの、薬を減らし始めたせいで、精神と体力をすり減らしつつあった。まえのような能天気な様子を無くし、じっと黙り込むことが多くなった。
しかしそういった、精神と体力の疲労は、他の面々も同じだった。ただの人であるところの牡牛と山羊、人としての体力に限界が無いと思われた乙女や蟹、人を越えた体力を持っていた射手や牡羊、体力という感覚があるのかさえ不明だった魚までもが、ぐったりとして日々を過ごすようになっていた。
それで牡牛、山羊、天秤の、純人間の三人組は、川べりで昼寝をする習慣ができたのだった。竹でこしらえた骨組みに薄い布を張り、蚊帳のテントをこしらえて、朝の仕事を終えた後は、暑い昼間を涼しく眠って過ごした。
夜になると、展望台の囲いの内側で、バーベキューをした。罠で獲った鳥を焼くこともあれば、牡羊がどこかで仕留めてきたウサギやネズミを焼くこともあり、畑のトマトも焼いて食べた。そうして生のものに火を通して食べ、蟹や乙女が探してきた缶詰類などは備蓄した。
ふさぎ気味の天秤も、この時だけは少し楽しそうにした。車椅子に腰かけて、焚き火を眺めながら、天秤はぼんやりと言った。
「ずっと覚めなければいいのに」
牡牛はその意見に反対した。
「現実だこれは」
火を焚くたびに射手ははしゃいだ。この日は住宅街で見つけてきた花火を手にして、それを振り回していた。彼らには火は危険なものであるはずなのだが、彼はそれをまったく気にしていなかった。
そして魚は花火の光を恐れて逃げ出そうとしたが、牡羊にしっかりと捕まえられていた。牡羊はあいかわらず心の一部を縛られたままで、感覚や本能でしか動けない状態だったが、いま身の回りにいる者たちを守ろうという気持ちだけは、常に剥き出しだった。
蟹はそんな牡羊を見ながら、せつなそうにしていた。
「牡羊に謝らなきゃならない。彼は俺に出来ない決断をして、俺を助けてくれたのに。分かってるのに。どうしても彼を責めたくなってしまう」
そういう告白を聞くと、牡牛は困ってしまうのだった。
「俺も牡羊に嘘をついたんだけど。でも嘘だったんだって言っても、牡羊は信用してくれない気がする」
「それは。うーん。俺もそう思うな」
「どうしよう」
「きみの場合は、素直に甘えればいいんじゃないか。彼の気持ちに」
乙女は山羊と話すことが多くなっていた。山羊は天秤に元気が無くなっていることを、繰り返しによる習慣によって理解しており、だから天秤の次に説明をすることが上手な乙女を、情報源として選んだのだった。
ただ乙女は天秤と違って、手厳しかった。
「バランスの問題だ。それを知っておかなければ死ぬというようなことだけを、手帳に書いておけ。おまえの記述は細密すぎて無駄が多い」
「取りこぼした情報があると、不安になるんだ」
「取りこぼした情報が無くても、おまえは不安になるんだ。それはおまえの宿命だ。早く慣れろ」
「慣れるのかな」
「慣れる。俺が毎日、同じことを言い聞かせてやるから」
暑さが苦しいこと意外は、牡牛にとっては理想的な生活だった。手を伸ばせば、そこに誰かが居たからだ。牡牛は安定し、不安の無い日々を送っていた。ただ、突然だれかの感触をたしかめたいと思う癖だけは治らず、乙女を抱きしめては怒られ、蟹を抱きしめては笑われた。
そんなある日、いつものように仕事と昼寝とバーベキューを終え、牡牛は熱帯夜にうんざりしながら布団にもぐっていた。じっとしていても、しなくても、汗は滝のように濡れて寝床を濡らした。そしてそれは天秤と山羊も同じだった。彼らはこのころには、それぞれに一組づつの寝具を手に入れていたが、別々の布団に寝ようが、乾いた寝巻きを着ようが、それらの行為は彼らの睡眠をまったく手伝ってはくれなかった。
やがて暗闇の中、うんざりしたように天秤が言った。
「まだ努力しなきゃだめかな」
眠れもしないのに眠るのは苦しいのだ。牡牛は身を起こし、ランプに火を入れた。
左右の布団の枕の上で、山羊と天秤がほっとした顔をみせていた。
牡牛はすでにパジャマの上を脱ぎ捨てていたのだが、このときに下も脱いだ。そして枕もとの雑誌を取り上げ、それをうちわにして、体をばたばたとあおぎだした。
「どうせ眠れないのなら、外に出るか」
提案すると、山羊が反対した。
「寝る前に手帳を読んだら、夜はなるべく外に出るなって書いてあったぞ」
「けものを防ぐための堀と柵があるし、今日は乙女と射手が下で小屋を作ってるから、ちょっとくらいなら出ても大丈夫だ」
「けど、天秤を連れ出しても大丈夫なのか? 彼は大怪我から回復したばかりらしいが」
天秤は布団の下から、右足を引っ張り出していた。
「山羊。見て」
天秤の足先は、親指の部分以外は、大きなつるりとした瘤のようになっていた。見た目に無残なその足を、天秤はふだん隠していた。それは乙女のように、自分を恥じてというよりも、周りが気を使うことを避けているようだった。
その足を目前にさらされ、緊張した様子の山羊に、天秤は語りかけた。
「体にも傷がある。だけど命は助かった。みんなのおかげだし、いちばん最初は山羊のおかげだ」
「……昨日、俺が気絶したせいじゃ、ないんだよな……? ゾンビにやられたんじゃ」
「ちがうよ。きみは忘れてるけど、むしろきみはずっと僕を助けてくれたんだ。もう大丈夫だから、ぼくは」
牡牛は思った。もしも天秤が死んでいたら、山羊はそのことを忘れたあと、永遠に天秤を探し続けるのではないかと。いまだ彼が階段の上で、ゾンビの群れに襲われていると信じて。
そんな会話のあと、彼らは衣服を着替え、虫除けを体に振った。そして天秤のために車椅子を引っ張り出したところで、彼らは、異様な音を聞いた。
その音は遠く、小さく、乾いていた。そして連続していた。最初、牡牛は、射手がまた花火を鳴らしているのかと思った。しかしそれにしては音から感じられる距離も、速度もおかしいと気づき、急いで西側の窓に近寄ると、そこのカーテンを開いた。
月と暗黒の世界の彼方で、音とフラッシュが飛び交っていた。距離はそう遠く無い。そして場所もすぐにわかった。そこはかつて天秤と山羊が住み、牡羊と魚が捕らわれ、牡牛があやうく脱出してきた、駅の国の一帯だった。
展望室の扉が開き、外で仕事をしていた乙女と射手が飛び込んできた。彼らは牡牛の開いたカーテンのむこうを見て、そこに広がっている光景を確認すると、まず射手がふたたび外に飛び出した。乙女も手にしていた金槌を床に置くと、牡牛たちに言った。
「偵察してくる。おまえらは外に出るな。蟹と魚と牡羊が戻ってきたら、そいつらも外に出すな」
牡牛は乙女に尋ねた。
「銃声か?」
「俺は銃声を聞いたことが無いが、むかしテレビの紛争報道で見聞きしたのは、あんなかんじだったな」
「気をつけろ」
「ああ」
死神のような乙女の姿が、扉の向こうに消えた。