星座で801ログ保管庫出張所

地球最後の…67

 かの国のあやまちを体ぜんぶで体験している牡牛には、牡羊の気持ちが痛いほどわかった。だから彼の言うとおり、あの国に住むすべての人間を、あの国に住んでいた天秤と同じ姿に変えてやるというのは、考えてみれば、まったくフェアな復讐法だとも思えた。
 ただ牡牛は、牡羊ほどには、復讐心への執着が無かった。この展望台に天秤を招くことができた時点で、それはもう、どうでも良いものに変わっていた。だから牡牛は牡羊の心を理解しつつも、その感情にまかせた執着を、あちらではなく、こちらに向けられないかと考えたのだった。
 それは難しいことだった。ひたひたにコップを満たしたニトログリセリンを、望みの容器に移し変えるようとするような、そんな行為に思えた。
「牡羊は……、牡羊は、また、逆のことをするんだな」
 頭の中では必死に考えつつも、朴訥な喋り方しかできなかった。もっと悲嘆にくれるべきだとは分かっていたが、そういった技巧的なことは不得手だった。
 実際、牡羊は、冷ややかだった瞳に、苛立ちの色までにじませ始めた。
「おまえも、おまえの言おうとしてる言葉も、邪魔なだけだ。どいてくれ」
「そうか。邪魔なのか」
「牡牛。これで最後だ。どけ」
「牡羊は、俺が邪魔だから、俺の手を離したんだ。体育館で」
 思った以上に言葉が響いた。
 牡羊は、がく然としていた。唐突に夢から覚めたように、とつぜん足元から大地を失ったように、顔いっぱいで驚きと、恐れのようなものを表現していた。
 牡牛はすかさず言いつのった。
「大変だったんだ。おまえが奥に走っていって、残された俺は、逃げ出すしかなかった。あの体育館から。それからずっと一人だった。おまえが俺を見捨てたからだ。すごく寂しかった」
 そんなことは毛ほども思っていなかったのだが、そういうことを言わなければ、牡羊には届かないような気がしたのだ。
 そして牡牛の思ったとおり、牡羊の中で、復讐という一点に絞られていた心が、いっきに解放された。牡牛に向かって。
「違う! 俺はただ、みんなを助けたいと思っただけなんだ!」
 そうだろうなと牡牛は納得しかけ、それではいけないのだと思い出して、また芝居を再開しようとした。しかしうまくいかなかった。それ以上、心にも無い言葉が浮かんでこないのだ。
 そしてそんな牡牛のかわりに、牡牛以上の説得力を持って、牡羊を惑わせにかかった人物がいた。蟹だった。
「復讐が希望なら、まずそれを行使する権利があるのは、俺だよね、牡羊」
 恐ろしいことに蟹は嘘をついていない。牡牛はそれを知っていた。蟹は演技をする必要さえ無い。
 牡羊は完全に、ドアを突破しようとしていたことを忘れていた。体ごと蟹をふり向いたのだ。勢いの強すぎるその動きは、牡羊の背後の射手を振り飛ばすほどだった。
 牡羊は、必死な様子になった。
「あのことは、仕方が無かった。そうしなけりゃ蟹、おまえが死んでたんだぞ!」
「どうせ噛まれるんだったら、母さんに噛まれても良かった。モンスターになって生き延びるよりも、そのほうがずっと幸せだった」
 いくらか本気なのは知っている。だがどこまでが本音なのだろうと牡牛は思った。
 そして牡牛の視線の先では、射手がゆっくりと動いていた。音をたてずに、静かに。
 蟹にもその動きは見えているはずだったが、彼はそれをいっさい、放つ言葉に表さなかった。
「きみのせいだ。きみが俺の運命を変えてしまった。復讐ならまず俺にさせるべきだ。それが筋だろう牡羊? きみが俺の大切なものを壊したように、俺がきみを壊すんだ。それで平等だ。俺はちゃんときみを許す……」
 すっと射手が立ち上がり、牡羊の背後から手を伸ばした。顔の上部、ひたいの辺りに触れる。
 牡羊は吃驚したように手を振り払い、それから、不思議そうに首をかしげた。
「……、い……」
 射手、と言葉を放ちかけ、言い切れずに黙り込み、困惑する牡羊の姿は、牡牛があの国で、彼と再会したときに見た、心をどこかに封じた姿と同じだった。
 射手は、だるそうに手を振っていた。
「爆弾かよおまえは。もうしばらく引きこもっとけ」
 それで射手がなにかの技をほどこし、牡羊を封じたことが明らかになった。
 牡羊は落ち着かない様子できょろきょろと辺りを見回しはじめた。そしてふいにジャンプし、今まで彼を責めていた蟹の目の前に着地したのだ。
 さすがに蟹も驚いたようだったが、牡羊はまったく気にした様子も無く、素早く蟹の背後にまわった。そしてそこで壁際にうずくまっていた魚を発見すると、満足したように微笑み、その隣にあぐらをかいていた。
 乙女が尋ねた。
「どういうことだ?」
 射手は肩をすくめた。
「おまえ流に言えば、絵の具のチューブにフタをしたのさ」
 蟹は途端に雰囲気をやわらげた。
「ああ、あの国で見たときの、可愛い牡羊になったんだね」
 乙女はふたたび「どういうことなんだ」と尋ねてきた。
 牡牛は考えながら答えた。
「俺流にいえば、牡羊はすこし頭が悪くなったんで、復讐のことまで気が回らなくなったんだと思う」
「……どいつもこいつもおかしな連中ばかりだな。そして恨みがましい。復讐だの、助けてくれなかっただの、運命を変えられただの、なんだのと……」
「俺は本気じゃなかった。あれは嘘だ。でも蟹は本気みたいだから怖い」
 すると蟹は、焦りだした。
「いや、本気というか、本気と本音じゃ違うんだ。しかもあれは建前なんだ。牡牛にはちゃんと説明したじゃないか」
「牡羊を苛めて甘えてるのか」
「う、うん。そうなるのかも」
「蟹の甘え方は怖い」
 蟹は悲しそうに顔を伏せると、犬の頭を撫で始めた。
 そのとき、何かが一段落ついたと判断したらしく、山羊が遠慮がちに声をあげた。
「言い争いが済んだんなら、俺としては、張本人の意見を聞いてみたらどうだって思うんだけど」
 そして皆はやっと気づいて、天秤を見た。
 天秤は、楽しい音楽でも聞いていたような顔をしていた。
「みんな色々あったみたいだね」
 本当にそのとおりだった。そして、それそのものを言い当てたような天秤の言葉は、皆をなんとなく気恥ずかしい気分にさせた。
 天秤は、くすくすと笑った。
「おかしいな。僕はつい最近まで、僕の運命はもう決まりきったものだと思ってたんだ。折れかけた木の枝にぶら下がっているような気分で、そこでバランスを取るのに必死だった。まさかこんな風に、昔みたいに、みんなの口喧嘩を見学できる日が来るなんて、本当に不思議な気分だ」
 牡牛には天秤の気持ちもよく分かった。なぜなら自分も最近、似たようなことを考えていたからだ。ほんの少し前まで必死で誤魔化していた孤独への恐怖を、最近は考える必要さえ無い。それは本当に不思議なことだった。
 しかし蟹は、天秤の考えを否定した。
「薬に浮かされているんだ。元の状態に戻れば、きみは失った仲間への思いに悩まされると思う」
 冷静な意見だったが、天秤はそれを肯定しなかった。
「僕が薬に浮かされて、のんきなことを言っているのだとしても、いま少なくとも僕は、嘘をついてはいないよ。芝居もしていない。複雑な思いに悩まされているわけでもない。ただ今の僕の本音はこれだ。この右足と引きかえに、あの国を脱出できた。ぜったいに無理だと思っていた願いが、あっさりと叶えられてしまった。だから、そう悪い取引じゃなかった。あの国にいた僕の仲間は、命まで差し出さなきゃならなかったんだから。僕は運が良かったよ」
「だからそれは、薬が……」
「ちがう。きっとちがう。僕はきっと永遠に復讐なんて考えられない。今ここにいる幸せを捨てるようなリスクを犯すなんて、愚かなことだと思うからね」
 蟹は、感心したような、救われたような顔をしていた。
 牡牛は、そのセリフは牡羊に聞かせてやれと思っていた。
 山羊は、ハッとしたように天秤の姿を確認していた。それから目を泳がせ、皆を振り返った。
「あの……、こういう状態になるに至った経緯は、だいたい分かってるつもりだけど。だけど……、話が終わったのなら、天秤に理由を聞いていいか。自分の耳で確認しておきたいから」
 すると天秤は山羊に発生したマンネリズムを咎めることも無く、いつもの説明を始めた。
 牡牛はなんとなく天秤の足元に目を向け、そこに切断された指を発見した。しかし怖いとも、痛いとも思わなかった。そんな自分に、軽い驚きを感じた。