重症を負った天秤について、死ぬのではないか、という言葉を誰も口に出さなかったのは、彼らが言霊を恐れたせいではなかった。情が冷たいからでも無かった。楽天的だったからでもなかった。ただ考えても仕方の無いことを、考えない習慣ができているからにすぎなかった。そこに居る面々は皆、沢山の死を見てきたのだ。惨い死、悲しい死、残酷な死、多種多様な死の海を泳いで生きている彼らにとって、それを恐れて思い悩むことは、まったく意味の無いことだった。
ただ一人、山羊だけが例外だった。山羊は眠ったり、なにかに没頭したり、なんとなく物思いにふけったりした後は、必ずハッとして天秤の姿を探した。たとえ彼が天秤の看護の当番で、ただいま彼の面倒を見ている最中であっても、それは変わらなかった。山羊は看護に疲れてうたた寝をしたり、看護にひたすら没頭したり、看護の手を止めて物思いにふけったりしたあとは、慌てたように天秤の姿を見直していた。
理由は明らかだった。彼が正常な記憶を持っていたころの、最後の記憶に刻まれている者の姿が、天秤だったからだ。
天秤もそのことには気づいていて、それを面白がっていた。
「きみの中の、昨日までの僕は、とても幸せなやつだと思うよ」
天秤は、目を覚ましている時間が増えてくるにつれて、よく話すようになった。話をしているときの天秤は、落ち着いていて、とても気分が良さそうだった。肉体を虫に食わせながら、彼はそれを気にしている様子も無かった。
だがそれは、薬のせいなのだ。乙女が運んできた痛み止めは、かつては麻薬として指定されていたもので、その効き目の強力さが、天秤から完全に、ありとあらゆる苦痛を取り除いていた。
だからそんな、あまりにもフワフワとした天秤の様子は、山羊をおおいに戸惑わせていた。
「俺の覚えてるきのうの天秤って、ぜんぜん幸せそうな様子じゃない。ゾンビに追い掛け回されたあげく、階段から落ちていく俺を見ている天秤なわけだし」
「覚えてる。きみのおかげで僕は助かったんだ。ゾンビに服を引っ掴まれた僕を、きみが引き剥がしてくれて。でもあの後は本当に、どうしようかと思った」
「それを教えてくれ。それを。頼むから」
「長い階段を、すごい勢いで転がり落ちた君を追って、僕も階段を駆け下りたわけだ。でもきみはグッタリして動かなくて、頭からは血が出てるし、上からはゾンビが降りてくるし。もう駄目だと思ったそのとき、誰かがゾンビに火を投げて……」
そうして天秤は山羊の中の、失われた時間を埋めるのだが、それは半日ごとに上下がひっくり返る砂時計のように、山羊の中からまた失われてしまう。山羊はもちろん天秤の言葉を手帳に書いたのだが、それでも山羊はその説明を、天秤の口から話されることを望んだ。
そんな風に天秤のそばにつきたがる山羊を、交代の時間のたびに仕事に追い立てるのが、牡牛の日常になった。
あるとき、牡牛が天秤の看護をしていると、天秤が言った。
「そんなにみっちり付き合ってくれなくても大丈夫だよ。目を放してくれてかまわない。僕はもう、馬鹿なことなんて考えないから」
天秤の中に自殺願望があることを、皆が警戒しているのを、天秤自身も悟っていたのだ。
牡牛は削っていた竹を床に置いて、天秤に向き合った。
「今は薬のせいで幸せになってるから、そう思うだけだ。薬を減らしたら考えも変わる」
「僕はそんなに愚かじゃない」
「天秤は賢いし、愚かじゃないけど、頑張りすぎたんだろう」
閉塞された世界で、矛盾の解決を試み、失敗した天秤は、その優しさゆえに失敗したともいえるのだ。もし彼がもっと果敢な性格で、駅の国で革命を起こした際、敵対する勢力を徹底的に狩り、処刑し、駆逐していたら、彼は右半身の一部を炭化させずにすんだのかもしれない。しかし実際の彼は、なるべく多くを生き残らせようとした。処刑をせず、罰も与えず、拘束だけで済ませようとしたのだ。それによって、頭を叩かれて伏せていたものたちが、ふたたび顔をあげて仲間と結託し、天秤に対抗してくる時間を与えてしまった。
天秤はその失敗についてさえ、薬の幸福の中では、前向きな問題として捕らえられるようだった。
「血を流すのはもう、うんざりだったから。人が血を流すのを止めるのために、あの行動を起こしたのに、それでまた血を流すのは間違ってると思ったんだ。今でもそう思ってる。僕は正しかった」
「正しいけど失敗した、ってとこだろう」
「失敗なのかなあ。仲間はみんな死んでしまったけど、彼らは失敗したとは思ってないんじゃないかな」
「思ってないと思う。死んだら、思えない」
そんな会話をつらつらと重ねる中、山羊は急いで戻ってくるのだ。沢山あるはずの仕事を急いで、きっちりと終えて、余った時間を天秤との会話に充てるために。
そのときも山羊は、展望室に入ってきて、衣服を着替え、手足を消毒し、使った道具まで丁寧に拭くと、「思ったよりも早く済んだから」といつものセリフを口にしながら、牡牛の横に正座した。
牡牛は彼らがまた、いつもと同じような会話を開始するのを聞きながら、竹を削りだした。
そんな日々が半月ほど続いた。運の良いことに、天秤は回復していた。彼の体中の焼け崩れた傷は、今は綺麗な赤い穴になっていた。右足の小指、薬指、中指は自然に脱落し、人差し指はほとんど骨だけになってぶら下がっている状態だった。
そんな天秤の状態について、乙女が解説した。
「この指を切断して、足先全体に皮膚を移植する必要があるんだと思う。だがそんな技術は俺たちには無い。様子を見続けるしか無いな」
すると山羊が言った。
「切断は俺たちでも出来るだろう。切ろう」
多種多様な死の海を泳いで生きている彼らだったが、生きている身近な人間のからだを切り取ったことは無かった。山羊があきらかに正しいにも関わらず、皆がそれを躊躇する様子を見せた。
しかし山羊は淡々と動いた。道具箱からペンチを取り出してくると、蝶番の動きを確認し、消毒液につけて、布や包帯とともに山羊のそばに運んでいく。
それで蟹も、山羊の準備を手伝いはじめた。
「きみは勇気があるな」
そう蟹が言うと、山羊は、「勇気の問題じゃない」
と答えた。たしかにそうなのだろう。
乙女も天秤の足元についた。彼も覚悟を決めたらしい。
牡牛だけが、天秤から離れた場所に居た。
射手が牡牛に言った。
「ああいうの苦手?」
牡牛は恥じることもなく頭を縦に振った。
「痛そうだ」
「そうだな。痛いかもな」
そう言って射手は天秤の枕元に行き、そこにしゃがみこんで、天秤のひたいに手を触れていた。
天秤本人は、特に恐れる様子も見せず、友人たちの行為を見守っていた。むしろ彼は楽しそうだった。薬のおかげで、これから体の一部を失うということにさえ、彼は痛みを感じられないのだった。
やがて、バチン、という音が響き渡り、牡牛が首をすくめた。
ちょうどそのとき――暗室から牡羊が出てきたのだ。
からだを回復させた牡羊は、脇に魚をかかえたまま、天秤のもとへ直行していた。立ったまま彼を見下ろし、驚いて見上げてくる面々には目もくれず、じっと沈黙し続け、ふいに魚から手を離した。
牡牛はひやりとしたが、魚は部屋の中の明かりを嫌がり、部屋の隅に這って行った。
蟹があわてて魚を捕まえに行きつつ、牡羊に声をかけた。
「危ないよ! 魚はもう……」
牡羊はすっと身を返した。
その途端、射手が牡羊の背にかきついた。
「駄目だ牡羊! それは駄目だって!」
牡羊は赤い瞳を展望室のドアに向けたまま、なにも語らなかった。
また射手が大声をあげた。
「横着せずに喋れよ! みんなには、おまえの考えは聞こえねえんだから」
すると初めて牡羊が口を開いた。
「言う必要もねえだろう……許せるかよ」
それだけで、乙女はなにかを悟ったらしく、牡牛に言った。
「ドアをふさげ。牡羊を外に出すな」
牡牛はわけがわからなかったが、黙ってドアの前に立った。
そんな牡牛に、牡羊は言った。
「どけ、牡牛」
「なんでだ?」
「出て行くからだ。どかなきゃ、そこらへんの窓を叩き割って出るぞ」
「……なんで出て行くんだ?」
牡牛の声は自然と低くなったが、牡羊は恐れた様子など、まったく見せなかった。
「あのクソみてぇな国のやつら全員から、片足をもぎ取ってやるために出て行くんだ。そんなに時間はかからねえと思うが。だから早くどいてくれ」
それでやっと牡牛は、牡羊の魂がまだ、怒りの螺旋の中にあることを知った。