牡牛は展望室に帰るなり、射手に近寄り、その胸倉を掴みあげた。
「ぜんぶ話せ。知っていることを、洗いざらい」
射手は、慌てていた。
「天秤が、天秤が」
「蠍はどこに居るんだ? 蠍の体だ。おまえは知ってるんだろう」
「ちょっと待って、手が天秤から離れ。ああ」
眠っていた天秤の表情が苦しげに歪んだ。射手は牡牛の手を振り払うと、即座に天秤の枕元にかがみ、手を彼の額に乗せなおしていた。
「興奮するなよもう。ちゃんと話すから。蠍との会話なら聞いてたし」
「本当に、プライバシーも何も無いな」
「よく言うぜ。俺が盗み聞きしたくなるようなシチュエーションを、わざわざこしらえたのはそっちだろ。あいつに絞め殺されるところだったくせに」
「蠍はそんなことはしない」
「するさ。俺には蠍の心がわかる。あいつは本気だった」
「……」
「まあ説得できて良かったな。蟹と乙女が帰ってきたら話すよ」
それきり射手は沈黙した。非常にムッとした表情をしつつ。
山羊が、そろそろと声をあげた。
「あの。喧嘩が終わったのなら教えて欲しいんだが。説明してくれなきゃ、俺にはわけがわからないんだが」
「なんだ」
「蠍には会えなかったのか? どこに居るのか聞くってことは」
牡牛は説明しようとしかけて、やめた。ややこしかったからだ。
それから彼らは沈黙を続けた。山羊が気を使って二人に話しかけたのだが、射手は適当な返事しかせず、牡牛も適当な返事しかしなかった。
やがて両手いっぱいに荷物をかかえて、蟹が帰ってきた。彼は即座に部屋中に漂う微妙な空気を読み取り、山羊を連れて隅に行くと、こそこそと事情を聞いていた。
まもなく乙女も帰ってきた。彼もすぐに部屋中に漂う微妙な空気を読み取ったが、ストレートに言った。
「喧嘩でもしたのか」
射手も牡牛も同時に「してない」と言い、蟹は「したみたいだね」と言い、山羊は「したみたいだけど、意味が分からない」と言った。
乙女は特になにも言わず、犬を蟹に返すと、荷物の中から錠剤を取り出し、射手に寄っていった。
「薬を見つけたんだが、経口薬なんだ。いちど起こしてくれ」
射手は頷き、手元に目を向けた。
「天秤、天秤。聞こえるか」
射手の穏やかな声に、天秤は反応した。牡牛の見ている前で、天秤はゆっくりとまぶたを開き、射手を見上げて、言った。
「眠いよ」
「薬を飲んでくれ。ずっと触っておいてやりたいけど、俺は朝には動けなくなるし、おまえの痛みが伝わって辛いんだ。だから今からは、薬で耐えてくれ。大丈夫。乙女がいい薬を持ってきてくれたから」
その説明の間に、乙女は山羊を呼んでいた。手にした薬を渡す。
「効き目はすぐに現れるが、持続時間が少ない。まめに飲ませなきゃならない」
「あとで手帳に書いておく」
「牡牛も覚えておいてくれ。昼間はおまえか山羊が、薬の世話をするんだぞ」
牡牛は黙って頷いた。
蟹が水を持っていき、山羊が薬と水を天秤に飲ませた。射手はそれでも天秤のひたいを触り続けていたが、やがて奇妙な表情をした。
「ん。利いてきた」
と言って、手を離す。
天秤は不思議そうな目で射手を見ていた。
「僕の感覚がわかるの?」
「うん。触ってる間はな」
「感覚だけ?」
「ぜんぶわかる。おまえの頭の中にあることは」
「そう」
牡牛は天秤の言葉を思い出していた。最初に目覚めたとき彼は、『どうして放っておいてくれなかったんだ』と言ったのだ。
射手は手をひらひらと振りながら、牡牛に顔を向けた。
「じゃ、みんな揃ったから、説明するぞ」
牡牛はああと言ったが、乙女は首をかしげていた。
「何をだ?」
「あっ乙女がいた。乙女ならわかるだろ。俺のことを説明してくれ」
「……察するに、多面的意識とは何かを解説しろ、ということか」
「そうそう。我ながらややこしくてさー」
乙女は頷き、定位置に座ると、皆を見回した。
「たしかに、ややこしい存在ではあるな。説明も難しい。皆はどう思っていた? この白い射手は何者だと思う」
その問いに、蟹が答えた。
「社会的な生き物であることは間違い無いと思ってたんだ。狼の群れみたいに、リーダーがいて、それに従う仲間がいるかんじ。リーダーがあの冷たいラプンツェルで、射手はそれに従う者なんだと思ってた。牡羊は群れからはぐれた一匹狼なのかなと。あるいは蜂か蟻みたいに、女王がいて、他がそれを守るかんじ」
乙女は頷き、牡牛に目を向けた。
牡牛は、自分の記憶を辿った。
「暗いところに突然あらわれる白いやつってイメージだったからな。触ると冷たいし。幽霊とか亡霊みたいな感想を持ってた。実際、乗り移ったりするだろ。違うのか?」
乙女はまた頷き、山羊に目を向けた。
山羊は、困っていた。
「断片的な情報ばかりだから、たった今推測した考えなんだが……。えーと、インターネットだ。射手はウィルスに感染して、プログラムを書き換えられた。そしてそのウイルスを撒いたやつに、情報を送ってる、みたいなかんじかな。あとウィルスを作ったやつが、射手というPCにアクセスしてきて、勝手に操作をすることも可能。そんな印象を持った」
射手は、怒り出した。
「みんな俺のことをなんだと思ってるんだ。狼はまだいい。格好いい。蜂もちょっと格好いいかな。蟻ってのはなんだよ。俺は大喜びで菓子クズを運んでたら、小学生に足の裏で踏まれるのか。だいたい俺みたいに生き生きとしてる幽霊がいてたまるか。そしてウィルスってのはなんだ。俺にはノートン先生さえ備わっていないのか。いくら俺が白いからって、白い目で見やがって」
乙女が面白そうに射手を見た。
「俺の理解がいちばん酷かったんだぞ。俺は最初、白くなる病気の者だけが集まる宗教団体を想像していた。おまえは信者になったのかと」
「ははあ、オカルトね。それはそれで面白いな」
「なにが面白いもんか。現実はオカルトより非現実的だった。――そうだな。みんなここに、バケツがあると想像してくれ。中には水が入っていて、それ以外は何も無い。無色透明。それだけでは、そこには何の色も存在しない。
人間と言う名の絵の具があるとしよう。俺は俺色、射手は射手色、蟹にも牡牛にも山羊にも、それぞれの色がある。バケツの中に射手色を投入したら、水は当然、射手色に染まるな。そこでバケツの中身と、射手の色が一致する。次に牡羊色を投入してみよう。バケツの中身は例えば、射手が赤で牡羊が青なら、紫色になるな。この紫の水が多面的意識だ。俺たちがラプンツェルと呼んでいるものの正体で、だからこの紫色は射手であると同時に、射手そのものではない。牡羊であると同時に、牡羊そのものではない。
白くなった人間が、この世に何人居るのかはわからない。だがそいつらは意識を集合させて、一個の多面的意識という人格をこしらえた。ただ射手の場合は、絵の具をチューブに残してあって、それだけで射手は射手色のものとして存在し続けることができるんだ。それが今ここに居る射手だ。人格的には、もとの射手とかわらない。だがおそらくは、自分というチューブの中身を、完全に搾り出してしまったやつも居るだろう。そいつはもう、もとの人格としては存在できないんじゃないか。
……わかるかな。噛み砕いて説明したつもりだが」