入学する前から、牡牛は忙しかった。入った塾が厳しいところで、春期講習のスケジュールが朝から晩までぎっちりと詰まっていた。牡牛はべつに勉強が嫌いなわけでも、苦手なわけでもなかったが、まだ学校も始まっていないのに、ここまでやる必要があるのかな、という思いはあった。
だからある夜、疲れきった牡牛は、コンビニで買ったパンを食いつつ、塾をやめたいということを、どうやって親に伝えようかと悩みながら歩いていた。本当は駅に自転車を停めてあったのだが、盗まれていた。おまけにコンビニを出て遠くまで歩いてから、狙ったように雨が降ってきた。買いに戻っている間に濡れてしまうだろうし、だいいち小遣いはパン代で使ってしまった。その日の牡牛はとことんついてなかった。
近道と雨避けのために、ふだんは通らない繁華街を歩いた。飲食店から出る油やほこりで汚れきったアーケードの下、左右はあやしいピンク色の店が立ち並ぶなかを、牡牛は黙々と歩いた。間違って声をかけられたりもしたが、相手は牡牛の顔を見てその年齢を読み取ると、大人になって来たら歓迎してやるからと、からかいの言葉とともに牡牛を解放した。牡牛は恥ずかしかった。早く帰りたいと思っていた。
しかしついてない牡牛はまた、ついてない出来事に出くわした。あやしいホテルを通り過ぎようとしたとき、そこの前に立っていた男と男が、痴話喧嘩を始めたのだ。牡牛は、世の中にはいろんな趣味の人間が居るものだと思いつつ、黙ってその横を通り過ぎようとした。
そのとき、唐突に腕を引かれた。
牡牛の手を握った少年が言った。
「こいつがそう。だからあきらめろ」
牡牛は意味が分からなかったが、少年の正面に立っていたサラリーマン風の男が、「おまえか!」
と言ったので、なんとなく頷いてしまった。
そして牡牛はリーマンの男から、意味不明なパンチを食らい、頬を押さえながらその傷みに耐えるはめになった。
男はひどい罵りの言葉を吐いて立ち去った。牡牛はその、投げかけられた言葉から、なんとなく今回の出来事の予想をつけた。
「俺はおまえの浮気相手じゃない」
そう文句を言うと、蠍は妙に必死な顔をして、牡牛の手に万札を握らせてきた。
「お詫び」
「いらない」
「じゃあ口止め料」
「もう会うこともないんだから、そんなの必要ない」
「だと良かったけど。合格発表のときに見た。おまえを」
「同じ学校か?」
「言いふらされると困る。だから受け取ってくれ」
牡牛は溜息をつき、首を横に振った。
「おまえが体を張って稼いだ金なら、俺が横取りしちゃ悪い」
「……俺と寝る?」
「そういうの好きじゃない。いい加減にしてくれ」
思わず大声を出してしまった。蠍はびくりと身をすくませ、うつむいた。
「ごめん」
つぶやくように言って、牡牛に背を向けようとする。
牡牛はおもわず言った。
「うちに泊まるか?」
蠍は驚いたように牡牛を見上げた。
牡牛は痛む頬を押さえながら言った。
「うちは遠いんだ。これから駅に行って、電車に乗って降りて、また歩かなきゃならない」
「そう」
「もう濡れたくないからタクシーに乗りたい。その金貸してくれ。うちに来てくれるんなら、家で返す」
「あげるよ」
「それは駄目だ。一緒に来てくれないんなら、濡れて帰る」
「……」
「早く決めてくれ。電車が出てしまう」
牡牛を見上げる蠍の目に、呆れの色が混じった。
そののち、牡牛は家で、蠍から身の上話を聞いたのだった。蠍の家庭には問題があること。特に父親の飲酒癖がひどく、母親はそれを嫌がって家に帰ってこないこと。だから蠍はなんとか学校に入れたものの、身の回りのものを買う金が無く、だから強引な手段でもってそれを集めていること。
そのときの牡牛の感想は、『世の中にはいろんな家庭があるものだ』といったもので、だからどうしてやろうとも思わなかったし、どうすることも出来なかった。
そしてあのときの蠍の様子が、いまの目の前の蠍の様子に、非常に似ているように思えたのだ。
「喋りづらいことだっただろうけど、喋って楽になった、ってのはあるだろう」
やっと暗がりに慣れた目が、蠍の仮の体の輪郭を牡牛に伝えた。それは震えていた。蠍は笑っているのだった。
「正直、馬鹿だと思った。牡牛のこと。あのとき」
「そうか」
「でも、嬉しかった」
「なら良かった」
「あの時からずっと、牡牛が好きだ」
「じゃあ、あのときと同じことを言う。うちに来い」
「……」
「狭いけどな。人数が増えすぎた。だから小屋を建ててるんだ」
「無理だよ。俺はみんなに嫉妬してしまうから」
蠍は牡牛を欲しがっている。そう言ったのは誰だったか。
蠍の精神を持つそれは、狂おしげに、しかし静かに、おのれの思いを吐いた。
「牡牛が欲しい。ずっと欲しかった。こんな世界の中で、おまえを守りながら生きていければと思った。おまえだけでいい。他はいらない。けど無理だ。俺は自分の体さえ自由にならない。心はおまえを醜く求めるせいで、消えてしまうことさえ出来ない。幽霊みたい。死にたい。消えたい」
蠍の中に、他人を拒否する癖があることを、牡牛はとっくに知っていた。それゆえに蠍はよく誤解されたのだ。無情な男、暗くて、冷たそうな男だと。
しかし牡牛は理解もしていた。蠍は要するに寂しがりで、臆病なのだ。なかなか他人に心を許せないし、許した人間には果てしなく甘えてしまう。そして自分でもそのことが分かっているからこそ、蠍は他人を避けるのだ。
「おまえの体は今どこにあるんだ」
「言わない」
「射手に聞く」
「言わせない」
「ぜったいに聞き出す。あいつも隠し事が多くていけない。昔はあんな、秘密主義じゃなかったと思うんだが」
「逆。射手はなにも隠さない。口が軽すぎて困る。だから聞かないで」
「聞く」
「駄目だ」
「なんで隠すんだ。俺は、おまえ自身に戻ったおまえと、話がしたいんだ」
すると、腕になにかが絡んできた。腹にも、首にも。牡牛は縛られている自分を自覚した。しかし強情に言った。
「蠍が言わないんなら、射手に聞くしかないだろ」
「聞かせない」
「止めても無駄だ」
「……このままおまえを絞め殺してしまえば、おまえは永遠に、俺だけのものになるんだろうか」
なぜ蠍がそこまで嫌がるのか、牡牛にはさっぱりわからなかった。だからそうして脅されても、牡牛にはまったく響かなかった。
「ならない。おまえは永遠に俺を失うだけだ」
「すくなくとも、おまえが誰かのものになるのは防げるな」
ぎりっと体が締まる。牡牛は肺の息を吐き出し、関節の痛みに眉をしかめた。しかし意志を曲げようとはしなかった。
「俺は蠍を探すぞ。探して見つけて連れ帰る。嫌だって言っても聞かない。逆らっても許さない。蠍を俺のものにする」
「……」
「おれは蠍を見つける。見つけたものは俺のものだ」
「……強欲」
「ああ。みんな俺のことを好き勝手に言うが、本音を言えばそういうことだ。だからなんだ。何が悪い。俺はそうやって生きてきたんだし、そうしなけりゃ生きて来れなかった。今さら死ねと言われても困る」
ふいに拘束が解けた。すぐそばにあった気配が消えた。あわてて手を伸ばしたが、指先は何にも触れず、暗闇を掴んだだけだった。
ただ、声が響いた。
「ラプンツェル――多面的意識がどういうものかを、射手に聞いておいて」
牡牛は辺りをさぐった。手を伸ばし、空を撫でた。
「どこに行った」
「牡牛は選ばなければならなくなる。それでも俺が欲しいなら、欲しいと言ってくれるなら」
「蠍っ!」
「俺を探して」
その言葉を最後に、どれだけ呼んでも、どれだけ探しても、蠍は答えず、牡牛の手は暗い世界をかき混ぜ続けた。