星座で801ログ保管庫出張所

地球最後の…62

 小雨が降っていた。月の無い夜は暗黒に限りなく近い。しっかりと手すりを掴んでも足元がおぼつかなく、牡牛は片手の懐中電灯で段差をよくよく確認しなければならなかった。一段、一段と下がって、やっと地上にたどり着くと、今降りてきたばかりの階段の上部から、声が聞こえた。
「なにか用?」
 牡牛は懐中電灯を後ろに振り向けた。
 段差を流れ落ちる長い髪が、雨粒をはじいて、ガラスを撒いたように表面をきらめかせている。彼はただ腰かけていた。あわさった膝の下に伸びた足は細く、膝の上に乗せられた指も細く、胴も首も細く頼りない、まるで人形のような姿を牡牛は確認した。
 そして牡牛は懐中電灯を消した。さらに目まで閉じて牡牛は言った。
「このほうがわかりやすい。どうも見た目に惑わされる。俺の記憶の中のおまえの姿と、いま目の前に居るおまえの姿が違うと、違和感があるんだ」
 暗がりの中でラプンツェルは沈黙する。
 牡牛はかまわず喋り続けた。
「その体の、本来の持ち主はどうしたんだ?」
 こんどは沈黙にはならなかった。すぐに返事は来た。
「この現実体の意識は、一番最初の多面的意識。おまえの言うラプンツェルになった、最初の人間だ。すでに意識は完全に拡散してしまって、人格という形では存在しない。残った空っぽの現実体を利用させてもらってる」
「魂がなくなった体を借りてるんだな。じゃあ、おまえの体はどこに有るんだ」
「それを聞いてどうするの」
「会いに行こうと思って」
「……やめて」
「なんでだ? なんでおまえは自分を隠すんだ」
 ふたたびの沈黙の中、牡牛はひたすら返事を待った。
 やがて、ためらうような、恐れるような、かすれた声で彼は答えた。
「隠れるよりも消えたい。最初のラプンツェルみたいに、消えて無くなりたい」
「寂しいことを言うんだな。俺が嫌いか」
「嫌い。牡牛のことを考えると、苦しい」
「仲は良かったと思うんだが。俺たちは」
 牡牛は確信を持っていた。彼の正体が明らかになった以上、彼のほどこす全ての誤魔化しを見抜けると思っていた。うわべの言葉に惑わされてはならない。
「もう少し素直になった方がいい。蠍」
「やめて。やめてくれ」
「蠍。おまえは蠍だ。俺と仲の良かった蠍だ」
「ちがう。俺はもう……」
「俺たちとは違ってしまった、か? 関係ない。白くなろうが黒くなろうが、そんなことは知らん。おまえは蠍なんだから、おまえは蠍だ」
 ゆっくりと一歩を踏み出す。階段の段差につま先が当たった。そろそろと登ると、靴裏が柔らかいものを踏んだ。ラプンツェルの髪に違いなかった。身をかがめ、掴もうとすると、何か細いものが牡牛の手首に絡みついた。それもラプンツェルの髪に違いなかった。
「蠍。この髪を自由に操る力は、射手や牡羊には無いのか?」
 苦笑混じりに言うと、ラプンツェルまたは蠍は、困ったように答えた。
「あるけれども。彼らは自分を多面的意識として考えていない」
「あっても使えないのか。良かった。そうそう勝手に縛られたり吊られたりしたら、俺は自分が蜘蛛の巣の蝶かと疑わなきゃならなくなる」
「たいして変わらないかもしれない。おまえの立場は」
 牡牛は手首に絡みついた髪を、左手で掴んだ。引っ張って辿りながら階段をのぼり、ラプンツェルのもとにたどり着く。指を髪に這わせて根元をさぐる。そこにあった彼の頭に触れ、撫でる。冷たく固い感触だった。髪というよりも、ナイロンやポリエステルの糸を撫でているような。
 蠍の声は、低く、小さく、つぶやきに近かった。
「……俺は、最初から、こうなることを知っていたし、こうなることを望んでいた。世界が滅んでしまえばいいと思った。実際にそうなってみてわかった。おまえは俺を許さないだろう。だから……消えたい」
「まるで自分が世界を滅ぼしたみたいな言い方だ」
「そうじゃないけど、それに近い」
 牡牛は蠍の隣りに腰掛け、蠍の頭を抱き寄せた。その体が蠍のものではないことは分かっていたが、体を抱かれた感触を感じているのは、蠍自身に間違いないのだ。だから彼の肩と背中を撫で、牡牛の気持ちを伝えてやった。怒ってはいない、怖がる必要は無いと。
「乙女は自分の状態を、病気だって表現してた。でも病気ってことは、菌か、ウィルスかが、何かからうつってくる必要がある」
「……」
「乙女と蟹は噛まれて伝染したんだけど、魚はよくわからないんだ。うなじの噛み傷は天秤のものらしいし。だから空気で感染したんだろう。けど……」
「言わないでくれ」
「いや聞いてくれ。体育館の連中だ。あの卒業式の日に、校長先生や、ほかの気の毒な人を、酷いやり方で殺してた連中のことだ。あいつらも自然に感染したんだとしても、あいつらのそばに、病気を運んできたやつは居るはずだし」
「やめて」
「あのとき騒いでたやつの一人がそうなのか。それとも別に居たのか」
「もういい。それが俺。わかってるなら言わないで」
 牡牛はしかし、言葉を止めなかった。
「それが蠍なんだとしても、じゃあ蠍は何から菌をうつされたんだ。最初の一人は誰なんだ」
「……学校の連中に関しては、俺のせい。俺はあの日、誰かが狂いだすのを知っていた。でも誰にも教えなかった」
「どうせ言ったって信じてもらえなかったからか?」
「それもあるけど、それだけじゃない。言っただろう? 俺はそれを望んでいたんだ」
 牡牛は残念に思った。なぜ蠍は、牡牛がまだなにも言っていないうちから、牡牛の心を決め付けてしまうのだろうと思ったのだ。
「俺も言われても信じなかっただろうけど。でも俺にくらい話してくれれば良かった」
 蠍は冷たい声で否定した。
「言う意味が無いよ」
「ある。覚えてるだろう。言ってもどうにもならないことでも、言えば楽になることもあるって」
「……」
「俺も喋るのは苦手なんだ。だからあの時だって頑張ったんだぞ。思い出せ」
 言いながら牡牛自身も思い出していた。
 最初に蠍と話したときの出来事を。