夕方、天秤が呻き始めた。表情をゆがめ、身悶えし、苦しそうに天秤は言った。
「……水」
牡牛は急いで水をコップに注ぎ、ストローを刺すと、天秤の顔をかたむけ、ストローの先を咥えさせてやった。
天秤はあっという間に水を飲み干した。しかしそれでも苦しみは止まらぬようで、彼は激しく体をねじった。
「痛い。……ぁあ、痛いっ……」
「動いちゃ駄目だ」
天秤の体の傷からは、体液が激しくあふれていて、それがラップの隙間から漏れていた。こまめに拭いても間に合わないので、下にタオルを敷いていたのだが、それを跳ね除ける勢いで天秤は動いた。
「痛いんだ。痛い。痛いよ」
「いま痛み止めを持ってくる。我慢してくれ」
「なんで、僕は。なんで牡牛が」
「牡羊と射手がおまえを助けたんだ。そのあと展望台まで運んでくれた。おまえは火傷をしてる。ひどい火傷だ」
「どうして。どうして放っておいてくれなかったんだ」
牡牛は今の言葉を聞かなかったことにして、痛み止めの錠剤を天秤の口に押し込み、また水を飲ませた。
天秤はひどく乾いているらしく、何度も水を求め、また傷みの訴えをやめなかった。ただ動くなと再三注意されて、それには素直に従っていた。しかし苦痛に顔をゆがめて唸る天秤の姿は、非常に痛々しかった。牡牛は心配した。
まもなく、蟹が急いだように起きてきて、牡牛に言った。
「代わるよ牡牛」
「それよりもメシを作ってくれないか。今日は肉が沢山獲れた」
「半分は塩漬けにしよう。野菜はある?」
「ある」
「天秤、苦しそうだね」
「病院で使うような痛み止めがいるんだろうけど、薬の名前とか量とか、わかるかな」
「誰かは知ってると思う。ごはん作るね」
天秤の苦しみの声に起こされて、山羊も布団から抜け出てきた。乙女も起きてきて、牡牛からの質問を受け、本を開きながらいくつかの薬品名を答えた。
「今晩、探してくるが。それまでは天秤に我慢してもらうしかない」
やがて食事が出来上がるころ、射手が起きてきた。彼はいつものように目の前の食事に飛びつかず、苦しむ天秤のそばに近寄り、その額に手を置いた。
途端に、天秤は静かになった。
射手が皆を振り返った。その表情はわずかに、曇っていた。
「天秤の頭の中の、傷みの情報を誤魔化してるんだ。俺が起きている間は、天秤に触っておいてやるよ」
牡牛は感心した。
「便利だな」
「だけど読み取るこっちは、えんえんと傷みの情報が流れ込んでくるんで、すごく気持ちが悪い」
「おまえも痛いのか?」
「情報として痛い。まあ我慢する。天秤のためだ」
射手の手の下から、天秤が声をあげた。
「ごめん、射手」
射手は無理矢理のような笑顔をこしらえた。
「気にするな」
「少しだけ覚えてる。最後くらいベッドの上で寝たいなって思ったんだ。寝てる間にすべてが終わればいいって。だけど牡羊の声が聞こえて……」
「牡羊も怪我してるから寝てるよ。けどおまえを心配してる」
「彼、魚には会えたの?」
「ああ」
「そう。良かった」
その言葉を最後に、天秤は眠り始めた。
蟹が出来上がった料理を持って、射手のそばに寄って行った。箸でつまみあげて、射手に食べさせている。
牡牛はコップを取り出し、包丁を握った。
「みんなにも教えておく。魚のメシだ」
そして左腕を、包丁で切った。
流れる血がコップにしたたるのを、皆が驚きの目で見つめていた。
牡牛はやがて、ある程度の血をコップに溜めると、それを手に取り、乙女に差し出した。
「暗室でメシを食うんだったら、魚と一緒に食べてくれ」
乙女は複雑そうな様子を見せたものの、特になにも言わず、コップを受け取り、黙って暗室に入って行った。
そうして皆で食事を終えたあと、いつものように相談をして、夜の部の仕事を決めた。乙女は病院に行くことになり、蟹は普段のように罠を見回り、そのあと薬局に行って、必要な物資と食料品を集めてくることになった。
蟹は犬の一匹をリードにつなぎ、その持ち手を乙女に差し出した。
「この子を連れて行ってくれ。獣に襲われにくくなる」
乙女は蟹に礼を言い、リードを持った。
「俺も急ぐが、おまえも早めに帰ってやってくれ」
「分かってる」
二人が出て行ったあと、山羊が牡牛に言った。
「教えてくれ。なにがどうなってるのか。なんで天秤は怪我をしてるんだ」
時間のあいた今なら、説明をしてやることは出来た。しかし牡牛は、なにをどこまで説明したものかと迷った。山羊の関わった出来事は、ナイーブな問題をはらんだ物が多いからだ。
そして気づいた。何を話しても、山羊は忘れてしまうのだ。だから何かを間違えても、言うべきでないことを言っても、山羊はやり直しをさせてくれる。
牡牛はむしろ、消化不良な食べ物を吐き出すように、みずから積極的に語り出した。
「世界中の人間がゾンビになったあと、おまえは天秤と一緒に駅で暮らしていた。そこにはある程度、まとまった数の人間が生き残っていた。ストレスの多い環境で、おまえに与えられた役割は、人と喋って、相談に乗って、悩みを聞いて、解消してやることだった。かなり酷いこともされていたようだ。それがおまえの過去だ」
山羊は感情を揺らしたりせず、冷静な様子をしていた。
「俺のこの障害を、利用されていたんだな」
「ああ。その記憶は、おまえの頭は忘れているが、おまえの体にはまだ残ってる。手帳にへんなことが書いてあるのはそのためだ。いちど体の興奮に心がついていかず、おまえはパニックを起こしてる」
「……覚えてない。が、済まなかった」
「謝るようなことじゃない。ただ手帳の最後のページは、破いておいてくれると嬉しい。あれはおまえが、なんというか、どうしようもなくなったときに、俺が手を出す理由をこじつけるために書いたんだ」
山羊は手帳を取り出すと、例のページを開き、そこを破り取った。ランプにかざして燃やすと、灰をあつめてゴミバケツに捨てる。
「これでいいか? なら説明を続けてくれ」
牡牛は頷いた。