みなが驚きに息を呑む中、テーブルを拭いていた乙女だけが冷静だった。
「天秤め。油断したな」
射手はやはり動かず、頷きもせぬまま、静かな声を放ち続けた。
「捕らえられていた審判派が再蜂起。革命派リーダーはすでに死亡」
「天秤は無事なのか」
「駅建物周辺にあるホテルに逃げ込んでいるが、そこに火が放たれている。どの部屋に居るかは不明。これらは牡羊からの情報。牡羊にその情報を与えたのは天秤の仲間。重症を負っており説明終了と同時に死亡。牡羊は情報をうまく理解できていない。いま射手が牡羊の意識に交渉している」
蟹がほっとしたように息を吐いた。
「ああ、牡羊がいるから大丈夫だね。彼がきっと助けてくれる」
しかし、射手の肉体に宿った存在は、蟹の言葉を否定した。
「我々は光、炎、それらが放つ熱に対して極めてもろい。天秤を救出するためには危険を犯さねばならない。我々は天秤に対してそれをする必要性を持たない」
その冷たい声と言葉の内容に、山羊が即座に叫んだ。
「なにを言ってるんだ! 天秤を見捨てるのか!?」
しかし牡牛は、射手の中の何かが、それなりに正しいことを述べているのを理解していた。彼らにとっては天秤は赤の他人だし、今となっては身内である牡羊に危険を犯させる理由が無いのだ。本当は、射手の意識と交代でここに出てきて、状況を説明する義理も無い。
だから牡牛は、射手の顔をした何かにむかって、淡々と尋ねた。
「おまえらは強いんだと思っていたが、さすがに燃えている建物に飛び込むことは、牡羊の命にかかわるのか」
射手の顔をした別人は答えた。
「命という言葉の定義が曖昧だが、牡羊は現実体――肉体を大きく損傷させるだろう」
「射手はどう思ってる」
「牡羊を説得している。射手は過去五日間、必要性の無い探索を行っており、駅周辺の施設およびその内部の地理を把握している。射手は牡羊の現実体を有効に使用できると思っている」
「あんたが今、射手の中に来てるみたいに、射手も牡羊の中に行けるのか」
「牡羊という意識内の壁を突破できれば可能」
「なら、あんたも、その射手の説得に手を貸してやってくれないか」
それは初めて、視線を牡牛に向ける、という動きを見せた。
「我々はその必要性を持たない」
「そうでもないと思うんだ。牡羊は今、脳の中で引きこもりをやっているんだろう?」
「不正確。しかし理解する」
「俺が思うに、牡羊はあんたらの声を、うさんくさく思ってるんだ。あいつは昔っからそういう、理屈の難しいSFとか、不条理で筋が通らない怪談系の話が苦手だったから」
「理解する」
「あんたらが天秤を見捨てた、なんてことを牡羊が理解したら、あいつの引きこもりは酷くなるぞ。あんたらの声にはぜったいに答えないだろう。あんたらは合理的なんだろうが、信頼って感覚に対して鈍すぎる。人は普通、自分のためにリスクを負ってくれないやつを信用しないもんだ」
「理解した。我々は牡羊を行動させる価値を持った。しかし牡牛は牡羊を損傷させる価値を持つか。それは天秤と等価値か」
大怪我をさせるとわかっていながら、牡羊を行動させるべきなのか。天秤はそこまで大事なのか。
これには牡牛は、ただ淡々と答えた。
「牡羊は大事だ。天秤も大事だ。どちらかを見捨てることは有り得ないし、もし見捨てたりしたら、俺は牡羊に永遠に恨まれてしまう」
「不合理。しかし理解する。射手の侵入を補佐する」
そしてそれは目を閉じ、すぐに開いた。
「成功。射手および牡羊が移動を開始。ビル屋上からホテル方向へ落下。着地成功。ホテルの様子を確認するため街灯の上へ移動」
それからラプンツェルは、射手の意識を持った牡羊の動きを、箇条書きのように説明していった。
射手はホテル内をぶらついたことがあった。その記憶によると、客室のベッドは持ち去られていて、備品も奪われていて、ほとんどの部屋は荒れた空間でしかなかった。最上階にはゾンビもいた。そのあたりは部屋も綺麗でベッドもあたらしく、据え付けられた冷蔵庫の中には飲み物まで残っていた。つまりそのホテルは、奪える場所からはすべて奪われ、奪えない場所は放置された、人の来る必要の無い建物となっていた。しかし天秤がこの幽霊ホテルに逃げ込んだのなら、それが理由になるはずなのだ。人が居ないことが分かっている場所で、上階はむしろゾンビのせいで、人が入れない場所だからこそ、天秤はそこに逃げ込んだのだ。
射手は館内の地図を思い出しつつ、街灯のてっぺんから、ホテルの敷地内に飛び、そこにあるプールの中に落下した。今も降る雨がたまって、プールの水はあふれかえっていた。射手は頭まで水にもぐった。そうして体を濡らしたのだ。そしてプールサイドに上がると、植えられた木の上に飛び、そこからホテルの外壁に取り付き、屋上に移動した。――そんな行動が可能なくらい、牡羊のからだは動きやすく出来ていた。
街灯の上から観察すると、ホテルの一階の施設部分には、革命派の連中が居た。二階は火の海になっていた。三階は今まさに炎がたどり着いて燃え始めている。天秤がまだ捕まっていないということは、革命派の連中がたどり着けなかった場所に居るということだから、天秤は一階には居ない。おそらく二階の客室のいずれかに居て、部屋に火を放ったのだ。そのあとさらに上階に逃げたか、そのまま逃げずにその部屋に留まったのかはわからない。もし逃げていないのなら、二階にはもう助けに入ることは不可能だし、だいいち天秤は炎に巻かれてとっくに死んでいることになる。
牡羊のからだを持った射手は、屋上から三階部分に進入した。そこからは歩くたびに炎に近づく我慢レースの状態になった。射手は牡羊の声帯を使って、天秤の名前を呼びながら、部屋のひとつひとつを開き、中を確かめる。どの部屋にも人はおらず、ある部屋にはゾンビがいた。射手は窓を割って、ゾンビを外に放り投げ、下で群れ騒ぐ革命派の連中の、真っ只中にむけて逃がしてやった。
調べる部屋がどんどん火元に近づいていく。天秤はもういないのではないか。火に巻かれてしまったのではないか。そう思ったとき、声が聞こえた。射手の声に天秤が答えた。
射手は炎の中に飛び込んだ。変形したドアを体当たりで開き、燃えながら部屋の床を転がって、おなじく燃えている天秤のそばに辿りついた。天秤はベッドに寝ていたのだが、そのベッドが裾から燃え上がっていたのだ。射手は天秤を抱き上げると、ふたたびドアから炎の廊下に出た。さきほどゾンビの居た部屋に戻ると、そこの窓の破れ目から外に飛び出した。
着地の衝撃で足が壊れた。傷みが情報として彼らの中に拡散してゆく。それはこちらの、牡牛たちの目の前に存在する、射手の肉体の中の多面的意識にも反応を与えた。
黙り込んだラプンツェルを、牡牛は心配した。
「大丈夫か?」
ラプンツェルは、表情自体は変わらなかった。
「言語で伝えるのが間に合わない急速な故障情報の連続」
「すごく痛い、ってことか」
「牡羊の交代要請を射手が拒否」
「……」
「移動中。ホテルから幹線道路へ。牡羊の現実体および天秤は燃焼状態にあったが、移動速度と雨により消火。展望台に到着まで約10分」
山羊が展望室を飛び出していった。蟹は客用の布団を敷き始めた。乙女は医薬品を確認している。牡牛は食器を片付けつつ、湯を沸かしはじめた。まもなく蟹と忠実な二匹の犬が出て行った。それに続いて乙女も出て行って、牡牛は最後までその場に残った。彼は射手のからだに近寄り、その腕を引っ張った。
「もう解説はいい。行こう」
赤い瞳がちらりと動き、白い片腕が牡牛の腰を抱いて、展望室のドアに飛んだ。