星座で801ログ保管庫出張所

地球最後の…57

 太陽を焦がれる日々が続いた。大雨が続いたせいで、牡牛と山羊は展望台に閉じ込められていた。
 展望室はふたつの空間に仕切られていて、ひとつは暗室になっており、そこで乙女と蟹が寝ている。だから牡牛と山羊は、静かに過ごさなければならなかった。牡牛はゴロ寝も好きだったが、山羊は何もしないことが苦手なようで、埃ひとつ無い展望室内を、隅から隅まで拭き掃除したあと、錆ひとつ無い刃物を研石にかけていた。
 ただ山羊の落ち着かなさの原因は、純粋に外出できないことだけではなかったのだ。暗室の方から響いてくる魚の吠え声が、山羊を怯えさせていたのだ。牡牛は多少は慣れていたが、山羊はそもそも慣れるということが難しい状態だった。
 山羊はシャツの胸元を引っ張り、えりを手で仰いで、風を送り込みはじめた。
「蒸し暑いな」
 四方をガラス窓に囲まれた展望室は、日が照れば温室になるし、日をふせげば蒸し風呂になる。通気用の小窓を開いたところで、入り込むのは生ぬるい空気ばかりで、室内はとても暑かった。だから牡牛は下着一枚でだらしなく過ごしていたのだが、山羊は牡牛の前では衣服を脱ごうとしないのである。
 そろそろ手帳の最後のページを破こうと牡牛は思った。最近の山羊は安定しているから、もう必要ない。
 山羊は額の汗をぬぐうと、ふたたび手を動かし始めた。鉄が石を削る音だけが響く空間で、牡牛はなにも考えずに天井を眺めていた。
 平和だな、と思った。なにをする必要もなく、なにを慌てる必要も無い。そんな時間が有り得るのだと思うと、不思議な気分になった。かつてはちょうど今の山羊のように、常に何かに怯えてびくびくしながら、何かをしなければ、なんとかしなければと考え続ける日々だった。そうしなければ生きていけなかった。
 ふいに研ぎの音が止んだ。
「牡牛。バンソウコウあるか」
 見ると山羊は、左手の人差し指を立てていた。指先からは赤いしずくが一筋、たらりと流れて落ちていた。
 山羊は、きまりが悪そうだった。
「魚の声に驚いて、切ってしまった」
 牡牛は立ち上がると、煮沸済みの水をコップに入れ、それを山羊に差し出した。
「指を洗え」
 そう言ったのち、ふいに気づいて、山羊の手を押さえた。
「な、なんだ? ……痛っ」
 コップの中の、さらに水中のふちに、山羊の指を押し付けた。水面は少し濁りはしたが、それでもなかなか赤くならない。牡牛は包丁を取り上げると、自分の左の小指を切った。無造作にコップに小指を漬け、かきまぜる。
 そうして水の濁りを濃くしたのち、山羊に懐中電灯を手渡し、自分はホウキと血入りのコップを持って、暗室に向かった。山羊が懐中電灯で照らすと、中では蟹が布団に横たわっていて、その蟹に抱かれて乙女が眠っていて、射手は壁にもたれて座ったまま停止していた。魚の檻は蟹の枕元にあった。魚は光に照らされると嫌がって顔をかばったが、それでも檻の奥に逃げようとはしなかった。
 牡牛は床に血入りのコップを置くと、ホウキで注意深く突いた。魚の檻の前に持っていく。
 魚は反応した。格子から指を出し、コップを掴もうとしている。
 そこで牡牛はコップを持ち上げ、上から垂らしてやった。
 魚は顎を上向け、したたる血水を口で受け止めていた。舌を突き出し、唇を舐めまわし、こぼれた水を指ですくって口に含んでいる。
 それで牡牛は、人間の肉以外の魚の食事を、やっと見つけ出せたことを知った。
 暗室から出ると、山羊が青ざめていた。
「吸血鬼じゃないか。まるで吸血鬼だ」
 牡牛は首をかしげた。
「ゾンビと吸血鬼ってどう違うんだ?」
「それはつまり、ええと、……なんだろう」
「若くて綺麗な女の子の首に噛みつくのが吸血鬼だと思ってた」
「それはまあ、そういうイメージだな」
「若いけど綺麗でもない男の血を飲むんだったら、吸血鬼じゃないんじゃないか」
 すると山羊は牡牛を、うらめしそうに上目で見あげた。
「牡牛。俺は昨日までゾンビに追い掛け回されていたんだぞ」
「本当は違うけど」
「友だちがそのゾンビになってて、ずっと隣りで吠えてて、人間の生き血まで飲んでるのに、おまえはどうしてそう冷静なんだ」
「もう吠えてない」
 と言って、牡牛は親指で暗室を指した。
 暗室は静かだった。



 夕方、蟹は日暮れ前に起き出してきて、夕食の準備を手伝った。最近の食事は、傷みやすいものや、傷みかけたものが中心になっていた。肉を獲っても干せないし、また保存してある食料にもよくカビが生えるようになっていたからだ。その日のメニューはヨモギと肉を煮込んだものだった。
 乙女はいつも、日が暮れるまでは起きてこなかった。また起きてきても食事をしないことも多く、食べるときは少量で、暗室に引きこもって食べる。今日も乙女は貧血を起こしたようにふらふらと起きてくると、自分の食器にほんの少しの料理をそそぎ、また暗室に戻っていった。
 牡牛は心配した。
「いくらなんでも食わなさすぎるんじゃないか」
 蟹が犬に食事を配りながら、牡牛の声に返答をよこした。
「本当に量は要らないんだと思う。それよりもみんなと一緒に食べて欲しいな。一人じゃ寂しいだろうに」
「やっぱり顔の包帯を取ったところを、見られたくないんだと思う」
「そんなの気にしなくていいのにね」
 まったくだと牡牛は思い、そこで山羊に気づいて、いや山羊は気にするだろうなと思いなおした。山羊はいまだに乙女を怖がっている節がある。半ゾンビの存在に、体が習慣として慣れていないようなのだ。
 そうして皆が食事を終え、片づけに入るころ、射手が暗室から飛び出してきた。このあといつもならば射手は目の前の皿に飛びつき、犬よりも汚く食事を掻きこんでから、外に飛び出していくのだ。
 しかしその日の射手は違っていた。暗室から飛び出してくるまでは同じだったが、蟹の差し出した皿に見向きもせず、「大変だ!」と叫ぶなり沈黙した。
 食器を積み重ねていた山羊が、驚いてスプーンを落とした。
「い、射手が白い!?」
 しかし射手は返事もせずに、ゆっくりと顔をうつむけ、同じ速度で顔をあげると、冷たい声で言った。
「革命は失敗した。天秤は処刑される」