虫の声が変化していることに、牡牛は気づいた。激しく、強くなっている。それは季節の移り変わりを示していた。湿った空気に牡牛は思った。もうすぐ梅雨が来るのかと。
展望台の下には焚き火が焚かれ、そのそばに乙女と、リードにつながれた魚が立っていた。魚はあいかわらず焚き火から逃げようとしていて、その魚を一匹の犬が見張っていた。そしてもう一匹の犬は、客を警戒していた。
客は、真っ白な髪と肌と、赤い瞳を持つ、射手だった。
牡牛は嬉しくなり、急いで焚き火に駆け寄った。
乙女と射手の会話が聞こえた。温かみのまったく無い声で、乙女は言った。
「ミイラ取りがミイラになったというわけか?」
射手は、乙女に負けないほど、冷たい声で答えた。
「乙女の表現は、正確さを大きく欠いている」
「そうとしか思えんからそう言った。俺はラプンツェルを知らんが、今のお前は、牡牛が言っていたラプンツェルそのものに思える」
牡牛は、不安を感じた。
射手は牡牛を見ても、まったく表情を変えなかった。ただいまと言うことも、待たせたなと詫びることも、彼らしい冗談を言うこともなかった。そのかわりにこう言った。
「今この場に射手は存在しない。存在するのは我々。多面的意識の一面」
染まったと、牡牛は思った。射手はなにかに染まってしまった。
「俺が待っていたやつは、永遠に帰ってこないのか?」
そう言っても、射手はやはり無表情なまま、淡々と言葉を綴った。
「射手の情報は拡散力が非常に高く、我々の中を非常な高速度で駆け巡っている。補足は難しい。しかし我々は射手を加えて、形を変えた。ひとつの意志を決定したので、それを牡牛に伝えに来た」
そこで初めて射手は動いた。なんの予備動作も無いままに、ふっと体を舞わせ、次の瞬間、射手は魚の隣りに着地していた。
牡牛と乙女がはっと目を向けるよりも早く、射手は手をあげた。魚のひたいを掴む。
「何をする!」と乙女が叫ぶ。「魚を離せ」
射手は、やはり淡々と言った。
「人間の脳内情報は、記憶という形を取るとは限らない。魚の脳内情報はほぼ失われているが、元の形で残っているものもある。それを実行する」
牡牛には射手の言っていることが、ゆっくりとしか理解できなかった。
逆に乙女にはなぜか、素早く理解できているようだった。
「可能なのか、そんなことが」
「可能だが、良い結果を招くとは限らない。しかし牡牛には必要なことだと我々は判断した」
「多面的意識、といったか……」
「魚を含む不全体は、まだ置換されていない情報体を吸収するという算譜を、繰り返し実行することしかできない」
「感染した者が人を食らうのにも理由があるということか。俺もいずれそうなるのか?」
「このまま変化がなければ」
乙女は考え込むように沈黙した。
牡牛は逆に、考えながら言った。
「山羊を守ることはできなかったのか? あいつはとんでもない目にあっていたようだが」
射手は魚から手を下ろし、すっと牡牛を見た。
「牡牛の情報解析には齟齬が発生している」
「つまり……、誤解していると?」
「我々はそれを修正するべきと判断した。牡牛に仕事を依頼する」
牡牛は、苛立った。
「いい加減にしろ射手! いったいおまえは何を演じているんだ。それはおまえを見つけ出す前に、あいつが俺に言ったセリフだ。なんでおまえがそれを言うんだ!」
「射手は存在しない」
「おまえは射手だ。射手以外の何だと言うんだ!?」
すると、射手が揺れた。
ぐらりと体を揺らし、足を踏みかえて上体を支え、うつむき……、低く笑い出す。
「参ったな」と射手は言った。「呼ばれちまった」
誰にでも明らかなほどに、言葉の調子が変わっている。まるで人形使いの人形が、とつぜん使い手と入れ替わったかのように。
そして牡牛は、そのことに安堵していた。
「やはり射手じゃないか」
射手は、頷いた。
「俺だけど、ちょっと今は忙しいんだ。まだ戻って来れない」
「今までの喋りは何だったんだ」
「いやだから、メッセージだよ。牡牛にやって欲しいことがあるんだ。忙しい俺のかわりに、あいつらに伝言を頼んだんだけど。まあ呼ばれちまったものは仕方が無い」
今までの射手にはなにかが憑依していたのだ。そしてそれが今消えたのだ。牡牛はそれを理解した。
乙女がふいに声をあげた。
「射手。その、意識情報とでもいうものは、散らばったあとでも、自由に集合できるものなのか?」
射手は、んーと唸りながら腕を組み、返答の内容を考えていた。
「人によるな。俺は、自分以外の何かの中に埋もれちまうなんざ嫌だからさ。自由にさせてもらってる」
「目的はなんだ」
「俺らの? それとも俺の?」
「どちらもだ」
「あいつらはもう、話し出したらきりがないくらい、たくさんの目的を持ってるよ。そのうち俺と一致してるのはひとつだ。牡牛を守ってやりたいって」
「……なるほど」
「牡牛。おまえ駅に行けよ」
牡牛は、眉をしかめた。
「なんだ突然」
「この公園の西に駅があるだろ。そこに行け。おまえはこの世界のことを色々と知る必要があるんだ。まずは駅だ」
「唐突すぎて意味が分からん」
「分かんなくてもいいから行けって。危険だけど、俺らも出来る限りサポートしてやるから」
「それが、仕事というやつか?」
「うん。駅には牡羊がいるんだ。助けてやってほしい」
牡牛は、今とつぜん明らかになった友人の行方に、あまりにも驚きすぎて、咄嗟に反応を返せなかった。
乙女のほうは、すぐに驚くことが出来たようだった。
「牡羊だと? 牡羊は無事だったのか」
「無事じゃないな。すごくやばい。ありとあらゆる意味でやばい」
「抽象的にものを言うな。具体的に言え」
「あまり言いたくねえ。だから牡牛に判断して欲しいってのもあってさ。情報ゼロの状態で行って欲しかった。できれば牡羊のことも言いたくなかったんだが」
「牡羊がなんだというんだ。牡牛は、おまえらにとって何なんだ」
「俺にとっては大事な友達。それで充分だろ」
最後の言葉を明るく言って、射手はまた飛んだ。そして今度は、二人からずっと離れた場所に着地していた。
「じゃあそういうわけで、俺はまたあちこち飛び回る。山羊と蟹によろしく」
牡牛は当然、止めた。
「射手。待て。行くな!」
「帰ってくるって心配するな。牡羊を頼むわ。じゃあな!」
そして射手は、今度は、完全に姿を消した。
残された二人は同時に顔を見合わせ、同時に溜息をついた。
まず、乙女が言った。
「忙しい男だ。聞きたいことが沢山あったのに」
そして牡牛が言った。
「また行ってしまった。あのへんに罠をこしらえておけば良かった。捕まえられたのに」
乙女は呆れかえったように牡牛を見た。
「あいつの言ったことを聞いていなかったのか? そういうことをしても無駄なんだ」
「色々言っていたが、要するに、あいつはまたしばらくは、俺のところに来る気は無いってことだろ」
乙女は天を仰ぎ、前を見て、何か言いかけ、また天を仰いだ。
精一杯の『呆れ』の動作を、牡牛は冷たく見守った。誰が何を言って牡牛を責めようが、牡牛は自分が間違っているなどと思う気は無かった。
微妙な沈黙が場を満たす中、ふいに犬が吠えた。
犬は、魚に吠えていた。魚はかがみ込んで地に手をついていた。
先ほどの射手の動きを思い出し、牡牛は思わず魚に駆け寄ろうとした。いったい何をされたのかと案じたのだ。
だが乙女に制止された。
「近寄るな!」
「ああ、しかし」
「待て。俺が見る。……魚」
乙女がリードを引いても魚は立ちあがあらず、ひたすらに地をかき混ぜている。
そこで乙女のほうが寄って行った。魚の手元を覗き込む。
「魚、なんだこの絵は。ハートのマーク、か?」