星座で801ログ保管庫出張所

地球最後の…44

 蟹がひたすら物資を運び、それを残りの面々が使用、利用、加工する日々が続いた。彼らが小屋作りのためにまず行ったのは、読書だった。蟹が書店で家作りについての本をたくさん手に入れて来たので、それをひたすら読みこなしたのだ。誰にも建築の知識などなかったから、その必要があったのは事実だが、それ以上に、そういう計画を練ることが楽しいのもあった。まるで秘密基地を設計する子どものように、彼らは準備を楽しんだ。
 牡牛は、山羊には警戒されるようになったものの、乙女とも蟹とも、二匹の犬ともうまくやっていた。そんな中でゆいいつ、うまくいかないと思えたものが、魚とのつきあいだった。魚はたしかに牡牛に興味を持ってくれてはいたが、それは牡牛を食べたいからで、牡牛と交流をしたいわけではないのだ。
 最近おもに魚の面倒を見ているのは乙女だったが、その乙女が説明する魚の生活は、次のようなものだった。
「おとなしい。特に俺の手を煩わせるようなことは無い。散歩に連れ出しても、背を押せば歩き、手綱を引けば立ち止まる。どこかに行きたいとか、なにかを見たいとか、そういった意識がいっさい感じられない。ただ光にだけは敏感だ。絶対に近づこうとしない。散歩から戻ってきて、松明の光を見かけたら、反対方向に歩き出す。あと牡牛か山羊の気配を感じたときは、そちらに移動しようとする。意志を見せるのはそのときくらいか」
 牡牛はじっと魚を見つめた。魚はリードの長さいっぱいまで部屋の奥にいるのに、なおいっそうランプの光から遠ざかろうとしていた。牡牛の視線に対する興味など、まったく無いようだった。
 山羊は牡牛と離れた場所から、同じように魚を見つつ、信じられないというふうに首をひねっていた。
「普通に見える。本当にゾンビなのか、魚は」
 実はこれと同じことを、山羊は毎日のように言っているのだが、山羊はそれを忘れている。乙女も特に否定をせず、毎日のように根気よく説明をしてやっていた。
「体を洗ってやっていたときに気づいたんだが、魚の首の後ろの、髪の生え際のあたりに、噛み傷があるんだ。感染者にやられたんだと思う。そこから直接、脳をやられて、あの状態になったんじゃないか。だから顔や体が綺麗なんだ」
 山羊は痛ましそうな顔をした。それも毎日のことだたった。
 そんな魚を乙女がつれ、犬を蟹が連れて出て行ったあと、牡牛と山羊は、ランプの明かりで本を読んだ。わずかな光量では読み進めることが難しかったが、牡牛も山羊も、その蛍雪を楽しんでいた。
 やがて牡牛はあくびをした。
「山羊、そろそろ寝よう。手帳を読んでおけ」
 まめに手帳を読むようにすれば、山羊はこの世界についての最低限の知識を、持続して覚えておける。牡牛はそれに気づいてからは、なるべく頻繁に、手帳のチェックを勧めていたのだ。
 山羊は素早く手帳を読むと、ぱちんと音を立てて閉じ、牡牛を手招いた。
「布団を敷いたら、ちょっと話がある。そこに座ってくれ」
 牡牛はその先に何が起こるかを知っていたが、黙って言う通りにした。
 山羊は正座して、きっと牡牛を見た。
「おまえがそんなやつだとは思わなかった。情けないぞ」
 情けないのは俺だと牡牛は思ったが、殊勝に頷いた。
「ごめん」
「そりゃあ俺だって男だから、苛々がつのって気が腐ることはあるさ。ていうかあった。卒業式の前の晩だって、ちょっと理由があって、すごく荒れてたんだ」
 好きな子のことでも考えていたのだろうなと牡牛は思ったが、それは言わずに、別のことを言った。
「卒業式って、もうずっと前だぞ」
「俺にとっては昨日だ! そんな俺でも、やって良いことと悪いことの区別くらいはついていた。誰でも良いから目くら滅法ってのは、人としてどうなんだ。情けないし、はしたないし、だいいち相手に失礼じゃないか!」
 牡牛はうんうんと首を縦に振った。
「じゃあ、今日は我慢する」
「えっ……」
「なにもしないで寝る。布団ももうひとつ敷く」
 そろそろこの芝居を終わりに出来るか、試してみたいのは勿論のことだったが、それ以上の理由もあった。牡牛の方も本気で身が持たなくなってきたのだ。毎晩のように山羊に奉仕しつつ、自らは耐えるばかりの生活に。このままでは本当に苛々がつのってしまうし、本当に気が腐ってしまうし、本気で山羊を襲う変態になってしまいそうな気がした。
 だからランプを消し、布団に潜り込み、寝るという作業を淡々とこなすつもりでいた。
 山羊のほうは、何度も寝返りをうちつつ、寝苦しさと戦っているようだった。やがて布団を跳ね除ける音がした。そして山羊は牡牛の布団に、ごそごそと入り込んできた。
 やはり無理だったかと牡牛は思い、布団の中を端に寄って、山羊のためのスペースを空けた。
「どうした、山羊。眠れないのか」
 なにげない調子で言う。しかし山羊は、牡牛の予想外のことを言った。
「白い男を知っているか。真っ白な。顔も髪も、手も足も真っ白で、瞳だけが赤い」
 知っているどころの騒ぎではない。牡牛は眉をひそめた。
「誰のことだ」
「わからない。さっきからずっと、その男の姿が頭に浮かんでる。俺になにか言ってるんだ。でも何を言ってるんだか……。おまえ、知らないのか?」
「知らん」
「そうか。……誰なんだろう。なんで俺は、懐かしい気分になってるんだろう」
「……」
 さっさと忘れろと言いたかった。しかしそれを言って、山羊がその記憶に注目するのも避けたかった。おそらくそれは、山羊の中に習慣として刻まれたラプンツェルの記憶なのだ。毎晩のように見ていた映像を、山羊は今また、繰り返して見ているのだ。おそらくはそれとともに、その相手と行った行為の映像も。
 牡牛の心も知らず、山羊はしみじみと言った。
「牡牛、ごめん、さっきのこと。おまえを責めても仕方が無かった。おまえのその症状で、いちばん苦しんでるのはお前なのに」
「いや、いい」
「だから、その……。さ、触るだけでよいかな。それならなんとか」
「……!」
 しまったと、牡牛は思った。
 山羊はこの数日で、精神バランスをくずすことも無くなり、自己卑下もしなくなった。ラプンツェルの呪いが消えつつあるのは間違いなかったが、そのかわりに、毎日繰り返している別のことを、習慣として記憶してしまっている。
 牡牛は慌てた。
「いい。俺ももう限界なんだ。手を出さないでくれ」
「……違和感をまるで感じない。覚えてないけど覚えてるんだろうな俺は」
「いいって、こら山羊! ……うわっ!」」
 唐突に股間を掴まれて牡牛は焦り、彼の手をもぎ離さんと、その手首をつかんだ。しかしそうして彼の手首を引っ張ることは、彼の掴んでいるみずからの股間にダメージを与えるのだった。牡牛と山羊はしばらく格闘した。信念を持って行動する山羊は、強敵だった。
 だがそのとき、展望台の扉が開く音がした。
 牡牛と山羊は同時に、それぞれ布団の反対方向に飛びのいた。
 扉の向こうから射す月明かりの下に、蟹が立っていた。いまの状況を見て、なんとなく察するところは有ったに違いないのだが、蟹はそれを指摘する代わりに、自分の用件を告げた。
「牡牛、お客さんだよ。降りてきて」
 その声の冷たさに、牡牛は驚いた。