朝、ぐっすり眠っていた牡牛を起こしたのは、蟹だった。
部屋にはすでに明かりが灯されていた。起き上がって目をこすり、隣りを見ると、山羊が乙女に起こされていた。
山羊は牡牛を見るなり、さっと顔を赤くした。牡牛は知らぬ顔で布団をたたみ、コーヒーを作ろうとすると、それはすでに出来ていた。コップの数が足りないせいで、ひとつは空き缶だった。そしてコーヒーのそばには、焼いた芋と、炒めたバッタが置いてあった。
蟹は「勝手に作ったけど良いよね。ぜんぶ食べるんだよ」と言って牡牛を悲しませた。しかし焼き芋とコーヒーは美味かった。蟹は犬と魚にも食事を持って行ったが、魚は檻の奥に縮こまったまま、食事に目も向けなかった。乙女は食欲が無いと言ったが、それが本当かどうかは牡牛には判断できない。山羊は素直に、『これは食べ物なのだろうか』という顔をしつつ、文句も言わずに食べていた。
朝食のあいだに蟹は説明した。
「今晩起きたら、俺は小屋をつくる材料を集めに行く。乙女は堀を作るって。牡牛と山羊は昼間どうするの?」
牡牛は掃除をして、畑の世話をする、いつものスケジュールを蟹に伝えた。
「午後は住宅街に行って、生活に要るものとか、缶詰とかを盗んでた。けどそれは蟹にまかせる。今は寝るときに着るものが欲しい」
「わかった。他には」
牡牛は山羊に目を向けた。
「山羊はなにか、取ってきて欲しいものがあるか」
山羊はさっと視線を反らした。
「その……、思いつかない。ちょっと考える」
牡牛の視界の端で、乙女が山羊の様子を観察してるのがよくわかった。牡牛は溜息をつきたくなった。
「乙女は、昼の間にして欲しいことってあるか」
乙女は、首を横に振った。
「無いが、無茶をしないでくれ」
その『無茶』には昨夜の出来事も含まれているのだろうかと牡牛は思った。
そのとき、山羊が声をあげた。
「この世界に発電機ってあるか?」
牡牛は山羊に目を向けた。
「発電機?」
「キャンプ用品がある店。ホームセンターとかかな。あとガソリン。これは車から抜けるけど、容器が要る。抜く場合は灯油ポンプか、ホースも要る。あと工具類を揃えないと、小屋とかは建てられないと思う」
昔、牡牛は、大きな建物や施設に行くことを避けていた。そういった、もともと人が多い場所は危険だったからだ。だが今なら行ける。必要なものを集められる。
そうして話し合いを終えると、皆で部屋を掃除した。そのあと蟹と乙女は、部屋のすみに布団を敷き、睡眠に入った。
牡牛はスコップとバケツを手に取ると、山羊を外にさそった。
外は、朝日が昇ったばかりで、爽やかな風が吹いていた。牡牛は階段を降りると、いったん道具を地面に置き、うんと伸びをした。
その牡牛を、山羊はじっと見上げていた。そしてふいに顔を寄せてくる。
牡牛は頬にキスをされた。牡牛は驚いたが、山羊はさっと身を離して、畑のほうに下りていった。慌てたような動きは、照れているせいに違いなかった。どうやら山羊は恋人と思われる人物に対して、義理を果たしたらしい。否定をするわけにはいかないので、牡牛は黙ってスコップを取り上げ、土を掘りはじめた。
そのあと牡牛は、自分の小さな領地を見回った。柵が完成したおかげか、夜でも展望台のまわりに人の気配があったせいか、獣の害が少なくなっていた。そのかわりに、罠にかかっている獣も無かった。牡牛は、狩りをする必要があると考えた。または家畜を飼う必要がある。今は干し肉が豊富にあるが、人数も増えたし、いずれはタンパクになるものが足りなくなるような気がしたのだ。
それからは、いつもの仕事をこなした。畑に水をまき、虫を取り、過剰な雑草を抜く。
山羊は抜いた草を拾い上げ、バケツに詰め込んで運んでいた。何回かの往復ののち、牡牛に言った。
「ちょっと聞いていいか。乙女と蟹と魚は上で寝てるが、天秤はどこに行ったんだったかな」
牡牛は手を止めずに思った。昨夜の記憶が消えたな、と。
山羊は草でいっぱいになったバケツを持ち上げると、何かが気に入らないように眉をひそめた。
「そういえば、ここはどこだ。俺はなぜ農作業をしているんだろう」
「……」
「えーと。俺は、おかしなことを言っている、よな?」
牡牛は覚悟を決め、手帳を読めと答えた。
山羊はまたバケツを地に置き、ごそごそと体をさぐり、胸ポケットに手帳を発見すると、取り出して読んでいた。そして、ぎょっとしたように牡牛を見た。
腰が痛んできたので、牡牛は立ち上がった。すると山羊は弾かれたように後ずさり、バケツを蹴り倒した。牡牛は散らばった草を見下ろし、ふーっと息をついて、握りこぶしで腰をトントンと叩いた。
「まあそういうわけだから。腐った奴らと、魚と、俺は危険だから気をつけてくれ」
「牡牛。おまえは。おまえは……」
牡牛は草を拾い集め、バケツに詰め込むと、ゴミ穴へ移動した。
ゴミ穴を埋め、畑に戻る。山羊は完全に挙動不審になっていた。腰を引いて身を低く落とし、対戦相手を迎えるようにして牡牛を待ち構えていたのだ。
牡牛は、気づかないフリをした。
「このあと予定があいてるんだが。山羊は柵をチェックしてくれないか。あれはもともと、おまえが作ってたんだ」
「……わかった」
「俺は堀をつくる。チェックして問題が無かったら、途中で交代してほしい」
「ああ。了解した」
短い蜜月だったなと牡牛は思った。昨夜の山羊はわりと可愛かったのだが。しかし演目は変わってしまった。牡牛がこれから演じるのは、恋人ではなく変態だ。
水の溜まった堀に、ひざまで浸かって土を掘った。作業中に体を何箇所も蚊に食われ、牡牛はボウフラ対策を考えなければならなかった。
交代して休憩しつつ作業を終え、牡牛は山羊を川に誘った。
シャツを脱いで洗い、次に体を洗いつつ、牡牛は山羊を観察した。その限りでは、山羊の体には、とくに新しい傷は刻まれていなかった。ラプンツェルはサディストでは無かったということだ。
だが、観察の途中で山羊に睨まれた。
「あまりじろじろ見るな!」
すっかり刺々しくなった山羊に対して、牡牛はせつない思いを抱いた。黙って目を反らし、体の泥を落とし終えると、二人で無言で展望台に戻った。
蟹はすでに起きていた。
「おかえり、ご苦労様。スープを作っておいたよ。良かったらメニューに加えてくれ」
と言われて牡牛は、おふくろが居るようだと思った。
畑で取れた野菜を蟹に手渡し、眠っている乙女を起こすと、夕食作りに取りかかる。備蓄を増やすために、取り込んだ野菜は漬物にした。茹でたジャガイモと、サラダと、肉入りスープだけの質素な食事を食べながら、また会議をした。牡牛は昼のあいだに考えた、生活の改善点について、報告を済ませた。
食事後、蟹と乙女と魚と、犬二匹が外に出ていった。牡牛は食器を濡れタオルで綺麗に拭き、仕舞うと、山羊に言った。
「まだ早いが、寝るか」
山羊は、きっと牡牛を見た。
「そのまえに話がある。そこに座れ」
牡牛はなんとなく話の内容が予測できたが、黙って床に座った。
山羊は牡牛のまえに正座して、真剣なまなざしを牡牛に向けた。
「情けないとは思わないのか」
牡牛としてはハイともイイエとも言えないので、無言で表情を歪めるしかなかったのだが、山羊は、真面目な顔を崩さなかった。
「この世界が、恐怖映画のような世界になっていて、おまえは大変な苦労をしてきたんだろうってことは、俺にだってわかるんだ。たとえ記憶が無くても、想像は出来るからな。でもだからって、いくらストレス過多な人生だからって、その欲求不満をすべて下半身で晴らそうというのはどうなんだ。人として情けないじゃないか。そうは思わないか」
牡牛は素直に頭を下げ続け、言った。
「今すごく情けない気分だ」
「自覚はあるんだな」
「うん。でも、せめて触るくらい駄目かな」
すると山羊はぱっと赤面し、そわそわと折った足の位置をずらし、うつむいた。手帳の文句が変わったおかげで、いきなり決定的な行動には出なくなったものの、やはりラプンツェルの呪いは解けていないのだろう。山羊の中の欲求が、目の前の男を求め出したらしい。
「い、一回だけだ」
「うん」
「今晩だけだ。一回だけだぞ。一回だ」
「わかった。ありがとう」
そのあと牡牛は布団を敷き、昨夜とおなじことをした。