星座で801ログ保管庫出張所

地球最後の…40

 ランプを吹き消す前に、牡牛は山羊に説明した。
「パジャマとかは無いんだ。ていうか服が少ない。洋服って個室や寝室にあるから、用心のためにそういう部屋を調べないから、なかなか手に入らない。でも今度、乙女や蟹に頼んでみる。あいつらなら、暗い部屋でも平気だろう」
「そうか。ありがとう」
「あとトイレに行きたくなったら、俺を起こしてくれ。乙女か蟹が、展望台のすぐそばに居るとき以外は、一人ではぜったい外に出るな」
「わかった」
「余った布団、蟹は客用っていったけど、山羊は疲れてるだろうから、もうひとつ敷いてもいい」
「いやそれは、べつに……要らない」
 やはり外が怖いらしかった。牡牛のほうは、ここ数日の経験のおかげで、夜の眠りに対する過剰な恐怖が、ずいぶんましになっている。
 ランプを吹き消し、床に潜り込んだ。牡牛は疲れきっていたので、すぐに眠れそうだと思っていた。じっと目を閉じていると、ずいぶん経ってから、山羊がごそごそと布団に潜り込んできた。
 山羊が抱きついてくるのを、牡牛は黙って受け止めた。暗闇に慣れても、やはり人の体温は心を落ち着かせてくれる。だが山羊が次に取った行動が、牡牛を仰天させた。牡牛は乱暴に口づけられていた。唐突に割り込んできた舌が、牡牛の口腔をかき回す。そして山羊の片手は牡牛の男根を直裁に握りこみ、痛いほどの力で揉んでいた。
 牡牛は目を開き、目の前の山羊の顔を見つめた。暗くてよくわからないが、彼の視線もじっと牡牛の目にそそがれているのがわかった。そして山羊の呼吸は荒げられ、酸素不足を牡牛の肺の空気で補おうとするかのように、唇が唇を激しく吸い上げている。
 牡牛がわずかに身じろいだだけで、山羊は牡牛を激しく押さえつけた。大胆なことをしているくせに、まるで牡牛が逃げ出そうとするのを恐れているかのようだった。
 体重を押し付けられて牡牛は動揺した。腿の辺りに固いものを感じたからだ。山羊は男としての反応をしている。その興奮を牡牛にぶつけている。牡牛は自分が犯されようとしていることに、やっと気づいた。眠気もなにも吹き飛んだ。頭を横に振り、舌の自由を取り戻して、牡牛は言った。
「山羊っ! ……やめろ!」
 鋭く言うと、山羊はぴたりと動きを止めた。それから押しのけようともしないうちに、牡牛の体から飛びのいた。
 牡牛は慌てて身を起こし、暗がりの中、山羊の気配のほうに目を向けた。なにを言ってよいのかわからず、じっと様子を伺う。しばらくは山羊の激しい呼吸の音だけが聞こえていた。やがて彼は言った。
「違う、のか。間違いか」
 牡牛は意味がわからなかった。
 牡牛の沈黙を恐ろしがるように、山羊は声を震わせながら、つぶやき続けた。
「間違えたのか。そんな……。なんで。なんでそんな。俺はちゃんと。どうして嘘を……。でも俺は、本当にそうだと……」
 牡牛の頭に、はっとひらめいたものがあった。
 牡牛は布団を抜け出し、寝る前に消したばかりのランプに火を入れた。
 山羊は壁に背を当てて座り込み、膝を胸に寄せ、頭を抱えて震えていた。混乱しきったその様子を見て、牡牛はあることを確信した。山羊の上着は、布団の足元に畳んで置いてあったのだが、それを取り上げて、胸ポケットから手帳を取り出す。ランプの明かりにかざして、読む。
 手帳の1ページに、あたらしい文章が書き込まれていた。

『目の前の男は恋人。抱き合え』

 かっと腹の底が熱くなる。怒りが大量の血液を脳に押し込んで眩暈を呼んだ。もとの字体とも、牡牛や乙女の字体とも違う文字は、山羊がさらわれていた間に書かれたものに違いなかった。だとしたら書いたのはラプンツェルだ。射手がこんなことを書く理由が無いし、牡牛は射手の汚い字体を知っている。
 あの白いものはどういう理由でか、手帳に従って生きることしか出来ない山羊の問題を利用して、弄んだのだ。たんに手帳に文章が書いてあるだけなら、山羊は行動しても生理的に反応できない。だが山羊はたしかに、その行為を知っていた。理解して、反応していた。
 つまり山羊は、新しいことを記憶することはできないが、毎日繰り返していることは、習慣として覚えておくことが出来る。そして山羊がさらわれてから、毎日繰り返していたこと。それが今、山羊の体に、反応となってあらわれている。
 だから山羊は混乱している。牡牛の反応に間違いだと否定され、しかし自分の体には正解だと囁かれ、でも山羊自身にはどちらも正しいとしか認識できない。右と左を同時に見ろと言われているようなものだ。
 牡牛は手帳を仕舞い、山羊を呼んだ。
 山羊はびくっと肩を跳ね上げ、しかし牡牛を見ようともしなかった。
「ごめん、牡牛。ごめん! ……間違えたんだ。ごめん」
「山羊」
「わからないんだ。なにもわからない。これで正しいんだと思ってた。そんなわけないのに。……俺は何が正しいのか分からない。何が正しいのか」
「山羊っ!」
「牡牛ごめん俺は、俺はおかしい。どうしよう。どうしよう。おれ狂ってる。狂ってる。俺は狂ってる。おかしい……」
 壊れる。牡牛はそう直感した。傷の入ったディスクのように、同じ思考を繰り返し、みずからを負荷で罰し、狂いの内側に閉じこもろうとしている。
 牡牛は山羊の腕を掴んだ。乱暴に引き、床を引きずって移動させた。そして布団の上に投げだし、上から見下ろす。
 山羊は、殺される寸前の小動物のような目をしていた。恐怖に引きつったその表情はしかし、牡牛という対象を得て、ぐるぐると果ての無い脳内思考から脱出できたようではあった。
 牡牛は知っている。山羊はクラスの女子が好きだったのだ。山羊の中の時間感覚では、山羊はまだ失恋した卒業式の日から、一日しか過ごしていない。まだ恋心も残っている事だろう。山羊らしく、純粋で、誠実な。
 牡牛は山羊の体の上にのしかかると、顎をつかまえて目をのぞきこんだ。山羊の瞳は不安に満ちている。それはそうだろう。山羊は牡牛のことなど好きではない。恋人だった月日も存在しない。しかし体は劣情を語り、目の前の男を求めている。いま牡牛が山羊を否定すれば、山羊は自分の感じている感覚そのものを否定せざるをえない。狂っていると。
 だから牡牛は、山羊の顎を捕まえて、動かないように固定したまま、唇に唇をしっかりと押し付けた。
 山羊が息を飲むのがわかった。