星座で801ログ保管庫出張所

地球最後の…39

 牡牛は即座に荷車の手すりを地に置き、そこを飛び越えてフライパンを構えた。腰を落とし、声の方角を睨みつけて待機する。牡牛の耳には悲鳴のように聞こえたそれが、本当に悲鳴だとは限らなかったからだ。凶暴なものの叫び声かもしれないし、けものの吠え声かもしれない。
 まもなく、遊歩道の横の丘になったところを、こけつまろびつ降りてくる者の姿が見えた。人型である以上は腐ったものと判断し、牡牛は覚悟を決めた。だがそれは明かりが届く範囲まで移動してくると、とつぜん地に両膝をついた。両手も地に突き、頭を下げ、彼は言った。
「た、助けてくれ。助けてくださいっ!」
 牡牛は驚き、構えを解いた。
「山羊か」
 山羊は、え、とつぶやきつつ顔をあげ、牡牛を呆然と見上げた。そして言葉にならない声をあげつつ、地を蹴って立ち上がった。牡牛に走り寄り、腕を掴んで、猛烈な勢いで揺さぶる。
「牡牛か。無事だったのか牡牛っ!」
 揺さぶられながら牡牛は、なにを言っていいのかわからずに、じっと山羊の顔を見つめた。
 そんな牡牛の横に、蟹が立った。
「牡牛。丘の上に、乙女が居る」
 顔を上げて丘の上を見たが、牡牛の視力では何も見えなかった。しかし山羊は蟹の声に反応し、はっと背後を振り返ると、緊張した声音で言った。
「追われてるんだ。黒いコートのミイラみたいなやつが、俺を追ってきてる」
 なるほどと、牡牛は思った。
「山羊、大丈夫だ。そいつは乙女だ」
「なにを言ってるんだ。なんで乙女が俺を追いかけるんだ」
「逃げるからだろうな」
「蟹も、なにを落ち着いてるんだ! あいつをやっつけないと……」
 蟹はニコニコと笑いながら、山羊の頭を撫でた。
「そんなに怯えたら可哀想だよ。彼は体をひどく痛めてて、だから包帯だらけなだけだ」
 怯えきっていた山羊は、不安げな様子を消さなかったが、牡牛は丘を見上げつつ、乙女がやってくるのを待った。
 しかし黒いコートのミイラは、ずいぶん待っても降りてこなかった。牡牛が自分で迎えに行こうかと思い出したところで、やっと黒い影が丘を下ってくるのが見えた。
 乙女は明かりの届くぎりぎりの淵に立つと、低い声で言った。
「山羊はもう少し落ち着いた男だと思っていた。そんなに小心だとは思わなかったぞ」
 牡牛と蟹は笑い、山羊はうろたえ、おろおろとした。
「すまない。天秤を襲ったゾンビの仲間かと思ったんだ。ああ、みんなが集まってるってことは、天秤も無事なのか? きのう気を失ってからのことが、さっぱりわからないんだが」
 牡牛はとりあえず山羊に、魚を見せた。がんじがらめに縛り付けられた魚を見て、山羊はなんともいえない顔をしたが、牡牛は短く説明した。
「魚はおまえの言うところのゾンビだ。ぜったいに近寄るな」
 そして展望台への移動を再開した。山羊はもっと詳しい解説を求め続けたが、牡牛はただ、帰ったら手帳を読めと告げた。
 やっと展望台に帰り着くと、階段をのぼり、四人と一体と二匹が中に入った。明かりをつけて、ようやく落ち着いた牡牛は、乙女に土産を手渡した。乙女はあまり喜ばなかったが、嫌がる様子も見せなかった。
 山羊は手帳を読み、難しい顔をしていた。
 蟹は窓の手すりに魚をつなぎ、犬をそばに集めると、牡牛に言った。
「疲れてるだろうけど、話し合っておいたほうが良いね」
 牡牛は頷いた。
「布団を集めるたびに足りなくなるんだ。二人でひと組とか、工夫したほうがいいかな」
 乙女が素早く言った。
「いや、布団はどうでもいいだろう」
「どうでもよくない。どうやって寝るんだ」
「そういう話のことじゃなくて、おまえと俺が別れてからの話をしようということだ」
「それも大事だけど、布団も大事だ」
 蟹がさっと決めた。
「俺と乙女。牡牛と山羊。半モンスター組と大丈夫組ね。余ったのは客用布団。他には?」
「展望室に四人って狭くないか。魚と犬もいるし」
「夜間は俺と乙女が起きてる。昼間は牡牛と山羊が起きてる。活動時間がバラバラだから、なんとかなるよ。犬と魚は、外に小屋でも作った方がいいね」
「うんそれがいい」
 乙女が盛大な溜息をついた。
「もういいか? じゃあ、牡牛が出かけてからのことを聞きたいんだが。どうやって蟹を説得したんだ」
 牡牛は自分の体験を語ったが、蟹の罪については黙っていた。乙女がそれを知れば、蟹を拒否するような気がしたのだ。またそのことは、自分が勝手に説明するよりも、蟹に語らせるのが筋だとも思えた。
 蟹のほうは、乙女と別れてからのことを語り出した。
「乙女との別れは辛かったけど、希望も感じた。どこかで牡牛が無事に生きてる。魚も俺のそばにいる。モンスターなんて問題じゃない。俺は俺の家族が無事で、友だちがどこかで幸せに生きていれば、それで充分だった。
 ただ不安もあった。この世界に生き残った人間は数少ないと思うけど、その数少ない人間が、なぜかこの街に集まってきてる。いかにも長い旅のすえに、この辺りにたどり着きました、ってかんじのやつを、俺はよく見かけたんだ。実は乙女と別れたあとも、そんなやつを一人、見かけた。そして俺は、そいつに襲われた」
「なぜ襲ってきたんだ」
「そいつが俺の犬を食料にしようとした。俺は犬を助けようとした。そして襲われて、俺はそいつを殺した。乙女はどう思う?」
 乙女は「何を?」と聞き返した。
 蟹は、自分が人殺しであることについて、乙女の意見を聞きたいと言った。
 乙女は顎の下に指をあて、考えながら言った。
「……俺は、人間の敵は、感染者と野生動物だけだと思っていた。人間も人間の敵になるんだな」
「世界がこうなる前から、人間の敵は人間だったよ」
「愚かしい話だ。蟹が無事で良かった」
 乙女の感想はそれで終わり、牡牛はこっそりと安堵した。
 乙女は次に、山羊に顔をむけた。
「おまえはどうしてたんだ。ラプンツェルにさらわれてから」
 山羊はきょとんとした。
「ラプンツェル?」
「おまえをここからさらって、牡牛を激怒させた奴の仇名だ」
「……」
「射手もそいつと居るはずなんだ。わからないか?」
「俺は……、気がついたら、知らない場所に寝ていた。なぜだかわからないが、展望台に行かなければならないような気がした。だから外に出たら、そこが公園の花壇の道具置き場だって分かって……。夜で、暗かったけど、展望台のシルエットが見えたから、そっちに行った。そしたらとつぜん、目の前に乙女が出てきて、俺は……、その」
 乙女が淡々と言った。
「山羊は俺に回し蹴りをした」
「ご、ごめん!」
「俺がぐらついている間に、山羊が逃げ出した。追うしかないだろう。夜なんだぞ。こんな危険な時間帯に、外を走り回ったりしたら……」
「ごめん。……ごめん」
「まあ牡牛が捕まえてくれて良かった。俺のほうは、牡牛と別れたあと、べつに特別なことはなにもなかった。ひたすら外の柵を作ってたんで、もうほぼ完成だと思う。出来は荒いが」
 牡牛は礼を言い、山羊に言った。
「おまえはつい最近まで、ここに住んでたんだ」
「そう、なのか」
「うん。ええと……、正確には、おまえはあちこち移動してたんだ。でも面倒くさいから、ずっとここに居てたってことでいいだろ」
「いやそれは、ちょっと」
 山羊は慌てたし、乙女も解説を付け加えようとした。しかし牡牛はそれを遮った。
「必要なことだけ教えるほうがいい。それを繰り返して覚えこむほうが、山羊のためになる」
 そう言ったのは本音だが、他にも理由はあった。牡牛は、山羊が体に負っている傷についてのことを、山羊に考えさせたくなかったのだ。
 無理矢理な説明だったが、乙女と蟹は納得してくれた。そして蟹が犬を撫でつつ、牡牛に顔を向けた。
「この後のことなんだけど、まだ夜明けにはだいぶ時間があるから、俺はいったんトンネルに戻って、檻を取ってこようと思うんだ」
「大丈夫か?」
「俺一人だと襲われる心配は無いし、犬が居るからケモノに襲われることもない。だからすぐに戻ってこれる。乙女はどうするの?」
 乙女は、魚を見ていた。
「あいつをここに置いておいたら、牡牛と山羊が心配だな」
「明かりがある限りは大人しいよ。でも縛っておくのも可哀想だから、よかったら散歩をさせてやってくれないか」
「わかった」
「牡牛と山羊は、もう寝るよね?」
 蟹の口調は、尋ねる口調ではあった。しかし牡牛は、「もう寝なさい」と言われているような気がした。
「もう寝る」
「よし。じゃあさっそく出かけてくる」
 蟹が立ち上がると、忠実な犬二匹が、すばやくその足元についた。
 一人と二匹が出て行った後、乙女は魚のリードを手にして、複雑そうな顔をした。
「仕方が無いのはわかるが……、まるで虐待しているようだ」
 牡牛は、頷いた。
「SMみたいに見える」
「おかしなことを言うな」
 言い出したのは自分の癖にと牡牛は思ったが、乙女は一方的にそう言いきったあと、急いで魚を引っ張りながら出て行った。
 残された牡牛は、山羊を振り返った。
「寝るか」
 ぼうっとしていた山羊は、びくりと身をふるわせ、それから俯いた。
「俺は本当に、ここに住んでいたのか。おまえと」
「そうだけど」
「……そうか」
 山羊の声はとても疲れていた。
 牡牛は山羊が心配になったので、急いで布団を敷き始めた。