星座で801ログ保管庫出張所

地球最後の…38

 多すぎる食事のほとんどは牡牛が平らげた。残りをまとめ、すべての明かりを消して、蟹はとその家族は床についた。
 牡牛は、まだ急げば展望台に帰れそうだとは思ったが、それを諦め、トンネルの暗闇にじっとしていた。煙の匂い、料理の匂い、一斗缶にまだ残った熱、犬の寝息、蟹が寝返りをうつ気配、そのすべてが心地よかった。こんなにも心地よい、恐怖の無い、安心できる暗闇というものを、牡牛は初めて経験していた。今もし暗闇に何かがあって、それが牡牛を襲ってきても、牡牛は微笑みながら声もあげずに、そいつに食われてやれるのではないかとさえ思った。
 うとうとと眠ったあとは、夢想にも飽きた。トンネルの入り口に移動し、そこに座ってぼうっと西の空を見つめていると、しだいに日が傾き、彼方の家々の輪郭が影になり、屋根が橙色に染まりはじめた。ゆるく風が流れ、乾いた落ち葉が転がる微かな音と、寝ぐらに移動する鳥の声だけが世界を支配し、やがてそれも消えた。暗くなり、急激に温度が下がり、世界の様子も入れ替わった。フェンスの向こうに並んだ自動車がぎしぎしと音をたてて揺れ始めた。乱暴にドアを開く音、ガラスの破れ目を強引にくぐる音、叩かれるボンネットの音が
場の雰囲気をみだした。
 牡牛は名を呼ばれ、トンネルの奥に戻った。蟹は一斗缶のそれぞれに火を起こしながら、牡牛に詫びた。
「すまない。もうすこし早く起きるつもりだったんだけど」
「いや、いい」と牡牛は答えた。「楽しかった」
 蟹は察してくれたようで、それについては何も言わず、牡牛をコタツに手招いた。
「残り物を食べてしまって。勿体無いから」
「食べられない……」
「わがまま言わないの」
 牡牛は最後まで避けていた虫炒めを食べた。味は、それほど強烈なものではなかった。甘みと旨みを抜いた栗のような味で、かすかにほろ苦い。しかし牡牛は『乙女への土産にする』という名目で、食べ残すことへの許しを願った。許可を受けると、急いで箱詰めにして紙に巻き、帰り支度をはじめた。
 蟹のほうは、それほど多くの荷物を持っていなかった。犬の食器をポシェットに詰めると、檻の中から魚を取り出し、拘束し、リードをつけただけで準備は終了した。
「さてと。牡牛は知ってるかな。モンスターは火を見ると逃げるけど、頭の悪いやつと、逃げる力が無いやつは消しに来る」
「知ってる」
「幸いなことに、火を消しに来るモンスターはそう強くない。だから火を焚きながら歩いて、襲ってくるやつは倒す作戦でいくよ」
「わかった」
「トンネルの奥側に行く。そこから出たほうが安全だ。きのう犬を盗んだやつが、荷車を持ってたんだ。ここにある明かりを、その荷車に乗せる。それを押して歩く」
「武器が欲しいな。いつも持ってるやつを置いてきたから」
「きみの包丁を俺に貸してくれたら、俺がきみを守る」
 牡牛は包丁を蟹に渡したが、丸腰では不安だったので、フライパンを持った。牡牛としては、腐ったものを相手にするのには、切ったり刺したりする武器よりも、殴打できる武器の方が安心だという思いがあった。
 蟹はいったんトンネルの奥に向かい、荷車を引いて戻ってきた。そこに積めるかぎりの一斗缶と薪を置いて、二人と一体と二匹は出発した。まず犬が先導し、その後ろを荷車を引いた牡牛が歩き、その牡牛を追って魚が歩き、しんがりを蟹が歩いた。
 トンネルを抜けると、展望台のある公園とは別の緑地に出てきた。すぐそばに病院の建物があり、線路の先は橋を渡って駅に通じている。蟹は線路のフェンスに近寄り、そこにある扉を開いた。扉を出て公園の遊歩道に入ると、牡牛を手招いてまた先に行かせる。
 坂道の多い公園だった。重い荷車は引くのが大変だったが、それが牡牛の生命線なのだから、手放すことは出来なかった。
 雑草だらけの運動場の周辺をまわっていたとき、最初の敵があらわれた。犬が激しく吠えたので、牡牛は足を止めた。すぐそばに公衆便所があり、そこからスカート姿の女性が出てきた。
 女性は体中を激しく腐敗させていたが、なぜか上体部の左半身だけが綺麗だった。露出した乳房も、その左半分は生々しく揺れていたが、残りの右半分ははぜ割れて、中の脂肪層と干からびた血管が見えていた。
 彼女は意外なスピードで火に突っ込んできた。牡牛は素早く荷車から手を離し、フライパンを構えると、彼女の側頭部をおもいきり殴った。そして「軽い」と思った。手ごたえが軽すぎる。脳にダメージを与えなければ、相手の動きを乱すことが出来ない。
 続いての攻撃のために態勢を整えようとした牡牛だが、背後から何かがぶつかってきて、体制をくずした。牡牛はうつぶせに倒れ、その背中に別の襲撃者が乗ってきた。
 魚は両手を拘束されていたので、牡牛を抱き殺すことは出来ないのだった。それで直接からだを噛みに来たらしいが、口も猿轡でふさがれていたので、ただ鼻面を牡牛の肩にうずめる形になった。牡牛は必死で大地に手をつき、体を持ち上げた。立ちあがった拍子に、魚の口と牡牛の背中が摩擦され、猿轡が取れた。
 魚は口につめられた布切れを半ば吐き出しながら、ふたたび牡牛にずかずかと近寄ろうとした。牡牛はフライパンを探したが、それは手の届かぬ数メートル先に転がっていた。魚との距離が縮まり、本能的に両腕で顔をかばったとき、魚はふいに動きを止めた。
 蟹は魚のリードを短く持って引っ張りながら、魚を叱った。
「だめだよ牡牛は食べ物じゃない。きみを躾けるのは本当に難しいな」
 牡牛はそれで安堵し、ひたいの汗をぬぐった。荷車のほうを見ると、さきほどの腐った女の姿があったが、それは頭部を首の皮一枚で体の前面にぶら下げつつ、ぐるぐると円を描いて歩きまわっていた。
 蟹は魚の口に布を詰め込み、元通りにくつわを嵌めていた。
「これでよし。あっちも大丈夫だと思う。首の骨を切断したから、コントロールを失ってる」
 まだ恐怖で口がきけずにいる牡牛に、蟹は落ち着いた口調で語りかけた。
「リードを離さないと動けないからね。怖い思いをさせて悪かった」
「……いや」
「やはり檻を持ってくるべきだったなあ。荷車の焚き火を何個か降ろして、隙間に魚をくくりつけよう。彼は火を怖がるから大人しくなると思う。可哀想だけど仕方が無い」
 蟹はまずリードの端を荷車にくくると、荷車を運動場に引いていった。フライパンを拾い、それで土を掘る。そうして積み上げた土を、焚き火にかけて消火した。火が消えた缶を荷車から取り除き、荷台の空間を増やす。そして嫌がる魚をそこに詰め込み、荷車の柱に縛り付けた。
 その作業の間、牡牛は阿呆のようにぼんやりと突っ立っていた。
 やがて作業を終えた蟹は、フライパンを牡牛に差し出した。
「はい。もっと力を込めて殴った方がいいよ。相手が女性でも遠慮しない」
「力を込めて殴ったんだけどな」
「腰が引けてた。怖くても頑張らなきゃ」
「俺が弱いんじゃなくて、蟹が強すぎるんだと思う」
「力の強い弱いなんてたいした問題じゃない。心の強さのほうが大事」
「自信が無くなってきた」
「ぼやいてないで歩く。ずいぶん時間を食ってしまった」
 牡牛は思った。どうも蟹と一緒に居ると、自分が果てしなく弱くなっていく気がすると。精神的な甘えが出てしまうのだろうか。
 そしてふたたび移動をはじめ、緑地を抜けるまでは何も問題なかった。しかし両脇に街路樹が続く歩道に入ったとたんに、また襲われた。今度は牡牛が構える暇も無く、蟹が相手に踊りかかっていた。髪をつかんで腹側に引き、曲がった後ろ首に包丁を刺し込み、器用に切断していた。
 牡牛は、生き残るためには、こういう力が必要なのかと考えた。
 歩道はアスファルトで舗装されていたので、荷車も引きやすかった。ひたすら真っ直ぐに歩き続け、やがて展望台のある公園近くまでたどり着いた。
 距離的にはたいしたものでは無かった。牡牛は歩道をそれ、公園の入り口にたどり着くと、ぐっと荷車を引いて段差を乗り越えようとした。
 そのとき、悲鳴のようなものが聞こえた。