牡牛は黙って蟹の動きを見守っていた。蟹はかまどに火をうつし、鍋の中の水をわかしながら、ひび割れたマグカップをコタツに並べて、そこに粉状の何かを入れていた。湯が沸くと、カップにそそぎ、かき混ぜて、牡牛に差し出した。
「おいしくはないんだ。これは謙遜じゃなくて」
飲んでみると、薄すぎる緑茶の味がした。感想が表情として出ていたらしく、蟹は申し訳無さそうな顔をした。
「使った緑茶の葉を干して、また使って、また干して、すりばちで粉にしたやつなんだ」
「倹約してるんだな」
「俺はもう、あまりものを食べないし、飲まないからね。それで充分なんだけど」
「でも、犬はよく食べるだろう?」
「うん……、まあね」
蟹がふいに視線を反らしたところを、牡牛は見逃さなかった。
檻の中では、魚が動いていた。鉄格子の隙間から指を出し、牡牛をかき寄せようとしながら、あー、うーと声をあげている。魚の声帯が細いせいで、声はそう恐ろしいものではなかった。まるで大きな赤ん坊を見ているようなのだ。
牡牛は魚に言った。
「おまえはいつだって、特別なものになりたがっていたけど。特別ってそういうことじゃないだろう」
蟹は笑った。
「なにそれ。魚、そんなこと言ってたのか」
「ああ。自分が平凡なのが嫌なんだと言ってた」
「あれだけ上手く絵が描けて、それで平凡なんてとんでもないと思うけど」
「俺もそう思う。魚は欲張りだ」
「牡牛と同じだね」
「……」
黙り込んだ牡牛を見て、蟹はまた笑った。笑いながら、冷めた目を牡牛にそそいでいた。
牡牛は、溜息をついた。
「魚をどうこうするつもりは無い」
「そう。良かった」
「犬を殺して悪かった」
「うん。でもあれは俺も悪かったんだ。きみだけを責めるつもりはない」
「蟹は俺が嫌いか」
「昔は好きだったよ。とても」
「俺は蟹に嫌われると辛い。どうすれば許してもらえる?」
「……」
「俺に出来ることなら、なんでもする」
蟹はテーブルの上に肘をつき、腕を立て、指を組み、その手の向こうから、牡牛をうかがうように覗き見ていた。
「本気で言ってるのか」
「ああ」
「俺はきみに、ひどいことを要求するかもしれないよ」
「死ぬようなことと、痛いことは断る」
「でもたとえば、きみの大事な人を殺せと言ったらどうする。牡牛も俺と同じ目に会えと」
「乙女をそうする予定なんだが、かなり時間がかかる。それでもいいか?」
蟹が牡牛を困らせようと思って、今の言葉を言っていたのは間違いなかった。蟹は牡牛を驚かして、脅して、後悔をさせたかったのだ。しかし今、蟹は、逆に驚いていた。牡牛が驚かなかったことを。なんてことなく答えを述べたことを。そしてその、答えの内容を。
蟹は露骨に不快をあらわす表情をして、牡牛を責め始めた。
「乙女があんなだから、邪魔だから殺すのか。乙女よりも俺が、少しはましな様子だから、入れ替えても良いと思っているのか。きみがそんなやつだとは思わなかった。残念だよ」
「乙女はあんなだけど、ぜんぜん邪魔じゃないし、むしろすごく頼れるやつだ。俺は乙女が好きだ。すごく」
「じゃあなぜ、好きな人を、あっさり殺すなんて言えるんだ!」
「あっさりじゃない。だけど乙女は最初から俺を助けてくれた。だから俺もいつかは、乙女を助けてやらなきゃならない。きっとすごく辛いだろうけど」
牡牛はそれを普段、考えないようにしていた。だが考えるとなると辛かった。乙女のすぐれた脳を叩き潰すこと。骨を砕き、手足もつぶし、できれば焼き尽くすこと。そんなことが本当に出来るのだろうかと考えた。しかし同時に、やらなければならないとも思っていた。乙女は牡牛を信頼して、その処理を頼んできたのだから。
蟹は少し目元の険を取り、考える様子をした。
「……つまり、尊厳死の手助け、という意味か?」
「蟹はどうする。自分が狂ったら、檻で飼って欲しいか」
蟹は、牡牛を睨んだ。
牡牛はやはり、なんてことのない口調で語り続けた。
「乙女は殺して欲しいと言った。俺も殺して欲しいと言った。山羊は聞いてない。射手も聞いてないけど、あいつはたぶん狂うほうの病気じゃないと思う。魚は怖がりだから、俺や乙女とは違う考えを持っていたと思う。蟹はどうなんだ。おまえが狂うとき、俺がそばに居れば、俺は蟹の言うとおりにする」
「……」
「俺を信用してくれないか。もし信用できないんなら……」
「……」
「俺を魚の餌にしてもいい。魚はよく食べるだろう」
蟹は目を見開き、受けた衝撃をあらわにしていた。そしてその様子は同時に、牡牛の考えが正しかったことを告げていた。
蟹は沈黙ののち、体中がしぼむほどの溜息をついた。そして溜息の終わりに、疲れた声で尋ねてきた。
「なぜ、わかった」
「蟹は本当は優しいのに、意地悪を言うから、理由があるんだと思った」
「俺は俺が優しいとは思わない」
「蟹は優しい。だから犬を見捨てられない。魚を殺せない。でも守るものが多い人間は、同時に、強くならないと生きていけない」
「……うん」
「ほとんどの人間にとって、犬は友人だったけれど、こんな世界では優先順位が変わる。犬は友だちじゃなくて、食料になる」
「うん。うん」
「だから蟹は、人間を信用しなくなった。知らない人間は敵でしかなかった。実際、今朝までの夜みたいに、犬を狙って襲ってくる人間もいた。そういう人間を蟹は殺した。殺して犬に食わせてた。今朝は魚に食わせた」
「……寝ている間に網を投げかけられて、犬たちはひとたまりもなかったんだ。俺は魚を散歩に連れ出していて、帰ってきたら、犬は一匹しか残っていなかった。老犬で、病気だったから、泥棒も置いていったんだろう。それならそれで、そっとしておいてくれればいいのに、遊びで傷つけたらしい。犬は自分の流した血の中にうずくまっていた。俺は怒りに我を忘れた。すぐに追跡して、見つけると同時に魚を放った。俺も暴れた。やっと助け出せたのが、この二匹で。
相手は殺したけど意味が無い。俺のミスだ。魚と二人きりになりたいと思ってしまった。魚は久しぶりに出会えた、無害な友達だったんだ。すごく嬉しくて、もう、出来ることならなんでもしてやりたかった。だから二人きりで外出してしまった。狭い檻にばかり入れておくのは可哀想だと思って。あんなことしなければ良かった」
無害な他人に出会いたいという気持ちを、牡牛は心の底から理解していた。自分もそうだったからだ。
「蟹のせいじゃない」
「俺のせいだ。さっき犬たちを埋めてきた。守ってやれなかった」
「そんな風に泣いてもらえるんだから、犬たちは幸せだと思う」
組んだ手に顔を伏せていた蟹は、すっと顔をあげた。まだ濡れた目のまま、恥ずかしがることもなく、まっすぐに牡牛を見つめた。
「俺を責めないのか」
「ああ」
「人殺しだぞ」
「俺の考えでは、人のものを勝手に取るようなやつは死ねばいい」
「……」
「だから蟹はぜんぜん悪くない。犬が死んで、蟹が可哀想だ」
蟹はぱちんと瞬きをして、涙を一粒こぼした。
そして、ありがとうと言った。