夜明けを告げる鳥の声で、牡牛は目覚めた。展望室の中を見渡すと、牡牛の位置と正反対の隅っこに、もう一組の布団が敷かれていて、その脇に乙女が座っていた。つまり乙女はついに、牡牛の居ない場所で眠ることを諦めたのだった。この日の昼を、乙女は展望室内で眠るつもりなのだ。それに山羊を待つためには、そうせざるを得ない。
牡牛がコーヒーの支度を始めると、乙女はカップを持ち出してきて床に並べた。それで牡牛は乙女が、『食事の支度を手伝わない』ことも諦めているのだと気づいた。牡牛はとても気分が良くなり、ふたつのコーヒーをそそいで、ひとつを乙女に差し出した。
乙女は眠そうだったが、言うべきことを言おうと努力していた。
「気をつけろ。襲われたら逃げろ。本当は俺も行きたいんだが……」
「コーヒー、薄いか?」
「いや美味い。……射手がいればな。帰ってきた山羊を射手にまかせて、俺も日暮れと共におまえを追えたのに」
「射手は帰ってくるって言ってた。だからいずれ帰ってくるだろ」
コーヒーを飲み干した牡牛は、大きくふくらんだリュックを背負った。愛用のスコップは、乙女に作業をまかせるために手渡した。
「じゃ、行ってくる。乙女は寝てくれ」
「ああ」
牡牛は旅立ちの前に、乙女に触ろうかどうか迷ったが、触るといつまでも時間がたってしまいそうな気がしたので、諦めた。
外に出ると、朝日が公園に光と闇のコントラストを与えていた。牡牛は高い場所から公園を見渡しつつ、風景の中から明るい道を探し出して、その位置を頭に叩き込んだ。階段を降りると、そこに自転車が止めてあった。ごく普通のシティサイクルで、前カゴがついていた。牡牛は畑から適当に野菜を抜いて前カゴに投げ込むと、自転車にまたがり、走り出した。錆びた自転車はあまり漕ぎやすいものではなかったが、牡牛の足のほうも鍛えられていたので、自転車はきしみ音をたてつつも、問題なく進んでいった。
歩いては時間がかかった距離も、自転車だとあっという間だった。牡牛は学校に続く二車線道路にたどり着いた。最初はまばらだった放置自動車の姿が、自転車を漕ぎ進めるにつれて多くなっていく。ある場所で牡牛はいったん自転車を止めた。足をやすませ、気持ちを落ち着ける。空の雲の位置を確認し、しばらくは太陽が射したままだということを確認する。
そして、いっきに走り出した。ありったけのスピードで、車の間を走り抜けた。もし左右の車の割れた窓から手が伸びてきて、牡牛を中に引きずりこもうとしても、振り切れるだけの速力を込めた。牡牛は必死ではあったのだが、同時に爽快感も感じていた。そのスピードは、単に二本の足で駆ける程度では得られない、道具の力で得られるスピードだった。そういった人工の力で得られる速度、風、空気を切る感触というものが、たっぷりとした快楽を伴っているのだということを、牡牛は久しぶりに思い出していた。
やがて自転車は、線路ぞいのフェンスの破れ目までたどり着いた。牡牛は急いで自転車を降りると、フェンスのむこうに荷物を投げ込み、自分もそこを乗り越えた。服のすそがフェンスに引っかかって裂けたが、そんなことには構ってはいられなかった。牡牛は線路内に着地して尻餅をつき、同時に安堵の溜息をついた。
野菜を拾い上げてかかえると、トンネルに向かった。影になっていない位置から中を覗いたが、暗くてなにも見えなかった。牡牛は両手をふさいでいる野菜を地面に置くと、懐中電灯をつけて、ゆっくりと中に入っていった。
トンネルの中は、煙の匂いに満ちていた。錆びた線路を辿りながら、牡牛は昔見た映画を思い出していた。こんなふうに、線路を踏んで歩きながら旅をする映画があったのだ。そのころの牡牛は、旅や冒険はもっと楽しいものだと思っていた。そして自分にとっては遠いものだと。
まもなく、乙女の言っていた居住スペースにたどり着いた。敷き詰めた畳を囲むようにして、犬のベッドと一斗缶が並べてあり、トンネルの奥側には檻が置いてある。
一斗缶の中を見てみると、まだ炭が燃えていた。生活の匂いはあるが、蟹の姿も、犬の姿も、魚の姿も無い。牡牛は不審に思ったが、まずは自分の安全を確保しようと考えた。
檻の近くに薪が積んであったので、それを一斗缶のひとつに差し込んだ。犬のベッドからぼろ布を取り出し、小さく裂いて酒をまぶした。缶に入れ、火をつける。
そうして焚き火の数を増やしていくと、トンネル内はいっきに明るくなった。牡牛はほっとして、今度は注意深く辺りを調べた。するとトンネルの奥側に、血の跡を発見した。
不吉な予感に苛まれながら、牡牛は勇気を出してその場所を調べた。血は一箇所に大量に固まっていて、さらに奥の砂利の上に点々とついて、その先はトンネルの奥へと続いている。
血だまりはほとんど乾いていたが、中にはまだ固まりきっていない部分もあった。そう前の出来事ではない。なにかがここで血を流し、トンネルの奥へと移動したのだ。逃げたのか、追ったのか。
牡牛は最悪の可能性を考えた。魚が蟹を殺してしまったことを。しかし魚は蟹には興味を持たないだろうということを思い出し、犬がやられたのかなと考えた。虎を絞め殺した魚なら、犬も絞め殺せるだろう。
考えていると、足音が聞こえた。
牡牛は癖でスコップをさぐり、持っていないことを思い出して、薪のひとつを持ってかまえた。その重みの無さや、いびつな握り具合は、スコップに比べていかにも頼りない。足音はトンネルの奥から響いてきていた。砂利を踏みながら近づいてくる。
ふいに、唸り声が響いた。
暗闇からとぼとぼと歩いてきたそれは、両手をあげて、牡牛に近寄ろうとしていた。その手は青白く、顔も青白く、目は膜が張ったように濁っていて、知性の色は伺えなかった。それはなにか言い、身をよじり、牡牛を襲いたくてたまらないという様子を見せていたが、首についた輪と、それにつながった鎖に邪魔をされていた。
牡牛は、犬のように繋がれた魚を見つめて、その次に、魚の背後に立っていた蟹を見つめた。
蟹は長袖の服を着て、耳垂れのついた帽子をかぶっていた。首筋にはマフラーを巻いてある。光を避けるための格好に違いなかった。手には手袋をしていて、その手で鎖の端を握り締めていた。
蟹は言った。
「光が見えたので戻ってきたんだけど。牡牛だったんだな」
牡牛は緊張を解かずに尋ねた。
「散歩か?」
「トンネルだから、奥のほうにも出口があってね。そっちに行ってたんだ」
「乙女は、蟹のことを、俺に隠してたんだ。でも話してくれた。だから来た」
「なるほど。まあ座って。お茶をいれるから」
とりあえず、いきなり犬をけしかけられたり、ものを投げつけられたりしなかったことに、牡牛はほっとした。
蟹は魚を檻に閉じ込めると、トンネルの奥に向かって、犬笛を吹いた。すぐに反応があった。軽い足音が響き、まもなく二匹の犬が、明かりの中に飛び込んできた。
牡牛は蟹が犬の頭を撫でるのを、しばらく見守った。やがて心に疑問が浮かんだ。蟹の犬について、牡牛が持っていた知識が、目の前の光景と違っていたからだ。
「二匹だけか?」
尋ねると、蟹は悲しげに顔を伏せた。
「うん。残りは全滅した」