星座で801ログ保管庫出張所

地球最後の…33

 話を戻す。山羊は軽いパニックに陥っていたな。言うことが支離滅裂だった。俺は山羊を落ち着かせるために、質問するのをやめた。かわりに俺の事情を話した。病気が感染するかもしれないから俺に触るなと言うと、山羊はおまえと違って、おとなしく距離を置いてくれたよ。まったく、おまえもあいつくらい素直だったら良かったのに。
 そうだ。そのとき、山羊が手帳を取り出したんだ。山羊は手帳を読みたいと言い出したが、辺りは真っ暗で、俺は明かりを持ってなかったので無理だった。俺は夜目は効くほうだが、さすがに帳面の小さな文字までは読めない。でも山羊が必死な様子だったんで、明かりを探しに行くことにした。
 職員室に向かった。おまえ田野原を覚えているか? 数学の。あの教師はいつもタバコ臭かっただろう。だから自分の机の中にライターを持ってるんじゃないかと思って、職員室に取りに行くことにしたんだ。
 だが、たどり着けなかった。途中で襲われた。
 感染者じゃなかった。それは統率された動きをする野犬たちだった。狭い廊下の前後を挟まれて、逃げようがなかった。吠え立てられて追い詰められて、俺はもう腕の一本くらいを犠牲にするしかないなと考えていた。背中に山羊をかばいながら、犬を無傷で倒すのは難しい。数が多すぎる。
 だが、犬笛が鳴った。犬たちは急におとなしくなった。そして廊下の彼方の暗がりに、人が立っているのが見えた。そいつは窓の無い場所に立って、身を隠しているつもりらしかったが、俺には丸見えだった。俺がそいつを呼ぶと、相手は驚いていたな。そして近寄ってきて、こう言った。
『きみはモンスターじゃ無いのか』
 俺は『現在進行中でそうなりつつあるが、まだなりきってない』と答えた。
 そいつは頷いて言った。『きみ、最近、あちこちを探索してまわっていただろう。俺は何度もきみを見かけたことがあるんだ。どうもまともな様子には見えなかったので無視していたけどね。でも今回は山羊を連れているから、彼をどうする気だろうと思って、犬たちにちょっかいをかけてもらったんだ』
 賢明な判断だと思う。俺自身ずっと、生きた人間を見かけても、声をかけるつもりは無かった。近寄って病をうつしてしまうかもしれないし、だいいち近寄ろうとしても、こんな容姿だと誤解を受けるだけだから。ただ今回は例外だ。危険な夜の時間帯に、山羊を見つけてしまって、そのまま放っておくわけにはいかない。
 そう言うと、そいつは笑った。
『きみは俺の先輩になるな。俺もいつか、きみのようになる予定なんだ。俺もあちこち噛まれてるんだよ。だから俺にうつるかもしれないってことは、心配しなくていい』
 俺は、ほっとした。ほっとするのも申し訳ない話ではあるんだが、とにかく安心してこう言った。
『先輩じゃない。おまえの同級生だ。俺は乙女だ』
 そいつは、なんともいえない顔をした。同情とか、憐憫とか、そんなたぐいの表情だ。
『辛かったね、乙女。俺にはわかるよ。太陽を怖らずに外を歩いてみたいと思ったことは?』
 俺が、なんと返事をしたかはわかるだろう? 
 それから俺は、魚のことについて説明した。話が終わるとそいつは、山羊を連れてトンネルに移動してくれと言った。そこがそいつの住処なんだそうだ。自分は犬たちをつれて魚を見てくるからと言って。
 で、俺は山羊を連れて、学校を出た。今度は山羊がいたから、感染者を警戒しつつの移動になった。トンネル近くの道路まで行ったが。……おまえ、あんな場所をよく移動できたものだな。昼間だったとはいえ、無事だったのは運が良かったぞ。放置自動車に、たくさんの感染者が隠れていたんだ。車から出てきて、山羊を襲ってきた。トンネルに行くためにはそこを通るしかないわけだから、俺は立ち止まって応戦した。開いている車に山羊を押し込んで、そのドアの前に立ちふさがって、コイン入りの布を振り回したんだ。
 しばらくして、犬の吠え声が聞こえた。飼い主のあいつがあらわれて、俺に向かってトンネルに走れと言った。俺は山羊を車から引きずり出して、とにかく走った。線路脇のフェンスを越えて、トンネルに駆け込んだ。
 トンネルの中には、明かりがついていた。一斗缶の焚き火があったんだ。それで中の様子がよく見えたんだが、生活空間としては良いものだったな。広く畳が敷いてあった。その上にコタツが乗っていた。一斗缶はたくさんあって、そのうちのひとつは、缶を工夫してカマドらしきものにこしらえてあって、上に大きな鍋を乗せてあった。布を敷いたダンボール箱や檻もたくさんあって、それらは犬の寝床らしかった。
 俺たちのすぐあとであいつが駆け込んできた。背負っていた荷物を床に降ろすと、火バサミを焚き火に突っ込んで、燃えた木を取り出し、トンネル中の一斗缶に火を移していった。俺も手伝えと言われたんでそうした。
 トンネルの中が、まぶしいくらいに明るくなった。あいつは首にぶら下げていた笛を吹き、犬を呼び戻した。それから俺に言った。
『ごめん。明るいのは苦手だろう? でもこのくらいしないと、モンスターが入ってきてしまうから』
『いや、大丈夫だ』と俺は答えた。『おそろしい気はするし、落ち着かないし、ちくちくするような不快感は感じるが。でもそれは、おまえも同じだろう?』
 あいつは、『うん、光は嫌だね。でも、家族を守るためだから、我慢するよ』と答えた。家族というのは、犬のことだろう。
 明かりのもとに来れたので、山羊は手帳を取り出して読んでいた。そして手帳を俺に差し出してきた。それを読んで、俺はやっと山羊の事情を正確に知った。あいつにも読ませると、悲しそうな顔をしてこう言ったな。『山羊、可哀想に。きみは過去の辛いことを愚痴る力さえ奪われてしまったんだな』
 山羊はなんと答えたかな。途方にくれた顔をしていたのは覚えているんだが。だが山羊が何か言ったそのすぐあとで、悲鳴をあげたのを覚えている。
 あいつが持ってきた荷物が動き出したんだ。中からうなり声が聞こえた。だがあいつは、なんてことないように、『よしよし、すぐ出してあげるからね』などと言って、荷物を檻のほうに運んでいった。檻のふたをあけて、荷物を中に入れると、包装をほどいて、すばやく蓋をしめた。
 荷物の中味は、魚だった。
 犬のための檻だから、魚は立ち上がれずに四つ這いになって、鉄格子に噛み付いたりしてた。その異様な様子に山羊は震えあがっていた。無理も無い。魚が格子の隙間から指を伸ばして、引っ掴もうとしているのは、どう見ても山羊だったからな。狂った魚は、感染者である俺とあいつに興味を持っていなかった。
 あいつはそんな魚を眺めながら、『汚れているな。あとで洗ってやらないと』と呑気なことを言っていた。俺がどういうつもりだと聞くと、あいつはこう答えた。
『どうもこうもない。きみが山羊を助けたのと同じ理由だ。困ってる友だちを捨ててはおけないだろう』
『しかし魚はもう、魚じゃない』
『モンスター化したから? 凶暴になったから? 俺たちを理解できないから? そんな理由できみは友だちを見捨てるのか。狂った友だちはもう、友だちじゃないのか』
 牡牛。俺は言い返せなかったんだ。魚は俺とは違うから、俺やおまえのように、狂ってまで生きたくは無いとは、思ってなかったかもしれないだろう? 誰になにをしようが、がむしゃらに生きたいと思ってたかもしれないだろう。もっとも、あの状態を『生きている』と表現して良いのかどうかは疑問だが。
 とにかく、可哀想だったのは山羊だ。怖いのを必死で我慢してるのがよくわかった。
 あいつも気の毒がっていた。
『いまお茶をいれてあげる。お腹すいてない? 缶詰ならあるけど』
 山羊は『俺が最後にメシを食べたのはいつなんだろう』と言った。『どうやって食べてきたんだろう。どうやって生きてきたんだろう。天秤はどうしたんだろう。俺は魚と、さっき初めて出会ったんだろうか。それとも、ずっと一緒に居たんだろうか』
 山羊が記憶を途切れさせたのち、もし天秤が残酷に死んでいたのだとしても。また魚がもし、山羊の目の前で狂いだし、別の生き物に変化したのだとしても。山羊はそれを忘れてしまっているわけだ。……牡牛。山羊は忘れていたか。俺やあいつのことを。あと、可哀想な魚のことを」
 牡牛がうなずくと、乙女はなぜか、目元を笑ませた。
「山羊が覚えているのは、卒業式より前の、まともだった魚や、まともだった俺とあいつか。それでいいのかもしれない。少なくとも俺は嬉しい」
 牡牛は、あまり賛成できなかった。