乙女は、新しい包帯を巻き終えると、汚れた包帯と、衣服を洗い始めた。すすいで、絞って、はたいて皺を伸ばすと、川に張り出した枝に干した。すべての作業を終えてから、やっと焚き火に近寄り、膝をかかえた牡牛の隣りに膝をついた。
「そう落ち込むな」
牡牛は返事をしなかった。なにも考えられなかったので、ただじっと黙っていた。
乙女は、包帯できっちりと皮膚を隠した手のひらを、牡牛の肩に乗せた。
「あいつはおまえを見捨てたわけじゃない。それは信じてやれ」
牡牛は黙っていたが、乙女は語り続けた。
「おまえの話から判断すると、やはりラプンツェルは射手を仲間と考えているようだな。俺のように体が痛む病気ではないが、白くなる病気を抱えていて、同じ病気の射手を、同志的に考えていると。どうも世界がこうなった理由を、知っているようでもある。……狂信的な集団があるようだ。白い者だけが集まる集団。牡牛のように無事な人間を、象徴的な偶像か何かと考えているのか。牡牛を捕まえて、崇めながら飼うつもりだったのか」
牡牛はぼんやりと考えた。行ってしまった射手は、ラプンツェルの正体を知っているようだった。
「もうひとつの名前」
つぶやくと、乙女はうなずいた。
「おまえと射手の知り合いなんだろう、そいつは。誰だかわかるか?」
牡牛は首を横に振った。
「知らん。知っていればわかる。印象的で、綺麗な男だ」
「俺も知ってるんだろうか。……絵で描けないか」
「絵心は無い。見るのは好きだけど」
乙女は牡牛の言葉の続きを待ったが、牡牛はそれきり黙りこんだ。
気詰まりな時間を、乙女は困ったように牡牛を見つめて過ごしていた。やがてためらいながら、言葉を詰まらせながら、言った。
「その……、俺は、人をなぐさめるのは苦手なんだ。だから、……これは間違いかもしれない。言うべきじゃないのかもしれないが、ひょっとして、これを言えば、牡牛の慰めになるかもしれないと思うんで言うが」
「……」
「おまえとしばらく分かれていた間。最初の五日間。俺は学校に行っていた。なにも無かったと説明してあったが、あれは嘘だ」
「……」
「俺は、学校で山羊を発見した。それは説明したな?」
「ああ」
「山羊だけじゃないんだ。実はもう一人、見つけていたんだ」
牡牛は、顔をあげた。
乙女は言いづらそうに、目をそむけた。
「すまない、黙っていて。理由があるんだが」
「言え」
それから乙女の、長い物語が始まった。
「夜になって、俺はすぐに学校に向かった。おまえが昼間に学校で見たものを、夜間に俺が見たら、また別のものが見えるんじゃないかと思ったんだ。あと図書室にも行きたかった。あの学校の図書室は大きかっただろう? だからそこに行けば、おまえの役に立つ本が手に入るんじゃないかと思って。
俺はずっと歩き続けても疲れないから、学校にはすぐに着いた。運動場は感染者が二人ほどうろついていたが、特に俺を襲いに来るということもなかった。あれから一年以上経つから、地雷もほとんど爆発していたらしく、俺が行ったときも、感染者が吹き飛んだりはしなかった。だから、おまえの話を聞いていて良かったんだ。おまえが言っていた地雷は、おそらく射手を救いに来た自衛隊が敷設したものだろう。それを知らなかったら、俺も襲われないのをいいことに、のこのこと運動場に入り込んで、足を吹き飛ばされていたかもしれない。
まずはコンピュータ室に行った。双子の板書は残っていたが、おまえの言った通り、人の住んでいた様子は無かった。しかし考えてみれば、おかしな話だ。おまえの話によると、あの卒業式の日、体育館から一番最初に脱出したのは双子だ。なぜ双子はそのあと、コンピュータ室なんかに行ったんだ? そしてそのメッセージを送ったんだ? まるで双子のやつ、そののちの体育館で何が起こるかを知っていたみたいじゃないか。
で、俺の推理だが。事件に関係なく、双子はコンピュータ室に用事があったんだ。おそらく卒業式のあと、誰かと待ち合わせていた。だからその人物のために、黒板に向けて『ここはキケンだから移動する』と書いた。そしてパソコンでメールを送った。不特定多数の誰かに送ったということは、双子はあの事件について、何らかの事情を知っていたが、それを誰にも相談できなかったんだろう。相談できる仲間がほしかったんだ。『生きている、まともな』仲間がな。
俺は次に体育館に向かった。明かりをつけるとむしろ危険だから、窓からの月明かりだけで判断するしかなかったんだが。ある筈の死体が無かった。一体も。しかしこれは不思議なことじゃない。食い尽くされたか、別のものになって、いま運動場をうろついているかだ。被害者の落とした物品が転がっていたが、特に目を引いたものはなかった。射手が隠れたという用具倉庫は見ていない。そこまで気が回らなかった。
次に行ったのが図書室だが。……俺がこの探索をしているあいだ、いちばん気をつけていたのが野生動物だ。おまえの言っていた虎や犬、それに俺は昔、動物園を逃げ出したらしい熊なんかも見たことがあるし、とにかくそういうのが怖かった。戦っても勝てるかもしれないが、これ以上、この体を傷つけられてはたまらない。なのに図書室の中から、なにかが吠える声が聞こえてきたんだ。激しい声だった。俺は一旦は逃げた。だけど気になった。図書室のドアは閉まっていたんだぞ。その動物はどうやって入ったんだ? またなんで興奮してるんだ? 俺は歩みをもどして、図書室のドアの前に行き、ドアを開いて中を覗いた。
魚が居た。いや、かつて魚であったものというべきか。俺が見ている目の前で、虎を絞め殺していたよ。こう、両手で抱きしめて。さっきの吠え声は、魚に引きずり込まれた虎の、断末魔の声だったんだ。俺は図書室の中に入ったんだが、魚は反応しなかった。音をたててドアをしめても、すぐそばまで近寄っても、俺のことを空気みたいに無視して、虎のからだが千切れそうなほど細くなるまで抱きしめていた。それで俺は魚が、もう完全な感染者になってしまったんだってことを悟った。頭の中まで完全にだ。俺みたいに体の痛んだ部分が見えなかったから、さいきん空気感染したんだろうと思った。つまり俺とは逆に、体は無事なまま、頭がいかれたんだ。
俺は魚の友人として、やるべきことをやろうとした。魚の頭を潰そうとしたんだ。だが武器を振り上げた瞬間、うしろから殴られた。くらっとは来たが、俺のからだは衝撃にも強くなっているらしくて、すぐにふり向いて反撃することが出来た。
そのとき俺の後ろにいたのが山羊だ。モップを握って立ってたんだが、その武器を俺は叩き飛ばしてしまった。山羊はちょうど、最初に俺を見たときの牡牛みたいに、怯えきった様子ではあった。でも勇敢だったぞ。俺を睨みつけて、殴りかかってきたんだ。その手を押さえて俺は、山羊の名前を呼んでやった。山羊は文字通り、腰を抜かしていた。おまえは誰だと言うんで、俺も名乗って、魚のことを尋ねた。
しかし山羊は、例の理由で、答えられなかったんだ。ええと、こう言っていたな。『目が覚めたら夜だった。天秤を探して図書室に入ってきたら、おまえが魚を襲ってた』
俺は当然、『なんで学校に居たんだ。魚と行動をともにしていたのか?』と尋ねた。山羊の事情がまだわからなかったからな。
山羊はまあ、『わからない』と答えたよ。『なんで俺は学校に戻ってるんだ。駅で待ち合わせをしていたのに。魚はどうしたんだ。あの虎はヌイグルミか何かか。乙女はどうして仮装してるんだ』
それで俺は、山羊がちょっとおかしいということに気づいたんで、図書室を連れ出した。なぜかというと、魚が山羊に気づいて反応したからだ。持っていた虎を投げ出して、山羊に手を伸ばしてきた。いま山羊の目の前で、魚を倒してしまうのはまずい。山羊は魚が狂ってしまっていることを、よく理解していない。だから急いで図書室を脱出した。
牡牛、誤解しているな。俺が『一人見つけた』といったのは、魚のことじゃない。魚はもう人とは言えない。