月光の下。ゆるやかな風と、虫の声だけが場を満たす夜の世界。
まったく童話めいた光景だと思いながら、牡牛は彼らに走り寄った。
牡牛に気づいた射手が叫んだ。
「牡牛、来るな!」
牡牛は立ち止まったが、それは彼自身の意思ではなかった。体が動かなくなったのだ。胸部がなにかに固定され、足が不自然につま先立ちのまま踵が浮き、両手首は宙に持ち上げられた。
牡牛は驚き、目をすがめて宙を見つめた。空中になにか、極めて細い糸のようなものが張られているようだった。そしてよく見るとそれは、周囲の木から木へ、展望台の鉄柱から鉄柱へと、蜘蛛の糸のように張り巡らされた、ラプンツェルの髪なのだった。しなやかで、引っ張っると食い込むが、じっとしていると存在も感じられないほど細くて丈夫な髪の糸だった。
射手は、ラプンツェルを睨んでいた。
「牡牛は、物じゃない。牡牛には牡牛の考えがあるんだ。おまえの好きにしちゃ駄目だ」
ラプンツェルは、無表情なまま、唇だけを動かした。
「個人の意思は関係ない。ただ、これは必要なこと」
「ちがう。それはおまえの意思だ。おまえが牡牛を欲しがってそうしてるんだ」
牡牛はその会話で、自分が、鳥罠にかかったスズメのように、捕らわれたのだということを知った。牡牛は驚き、混乱した。山羊はラプンツェルにさらわれてしまった。次は自分がさらわれるのか。
ラプンツェルは、考えるように首をかしげた。
「俺が牡牛を連れていきたい?」
射手は頷いた。
「そうだよ。それがおまえの意思だ。でもそれは、やっちゃいけないことだ」
「俺に意志は無い。我々は牡牛を連れて行きたい。牡牛をサンプルとして保存するため」
「違う」
「牡牛はサンプルとして合格している。保護が必要。保護によって牡牛の安全は永遠に守られる」
「違う、違う」
「牡牛がこれからの第一世界の自然環境に適応できる可能性は少ない。我々の監視下に置かなければ滅んでしまう」
「ふざけんな! 牡牛は人間だぞ。なんでおまえが牡牛のことを決めるんだ」
「俺は決めない。多面的意識が決める。射手は遺伝子置換が完了している。我々の一面として判断すべきだ」
「必要ないな。俺は人間だ。おまえも人間だ」
「俺は多面的意識の一面。もう誰でもない」
「牡牛!」と射手は叫んだ。「牡牛、こいつの名前を呼んでやれ。自分が誰かを思い出させてやれ!」
牡牛は戸惑うしかなかった。二人の会話の意味がさっぱりわからなかった。ラプンツェルは、山羊をさらって、今度は牡牛もさらいつつ、射手も連れて行こうとしている。そこまでは分かるが、それ以上のことが分からない。
「サンプルってなんだ」
牡牛が尋ねると、ラプンツェルはあっさりと答えた。
「人間のサンプル」
「俺を標本にでもする気か」
「肉体を保存しつつ精神を分離する。牡牛は遊離世界で幸福な夢を見る」
冬眠のようなものだろうかと牡牛は考えた。
「山羊は無事だろうな」
「脳に障害を持つので安定が難しい。この場所における牡牛との生活はもう忘れている」
「なぜ射手を欲しがるんだ」
「射手は我々で、我々は射手だから」
その独特のルックスの共通性を見ると、射手とラプンツェルは同じ病気に感染しているのだろう。それによる仲間意識だろうかと牡牛は考え、とりあえずはそれで納得した。
「おまえは誰だ?」
「誰でもない。多面的意識の一面」
「俺はたぶん、おまえを知ってる。おまえも俺を知ってるんだろう?」
無表情だったラプンツェルの顔に、ふいに色がついたように思えた。
ラプンツェルは、とても悲しそうだった。
「我々は……、俺は、俺も、おまえを守りたいんだ。信じてくれ牡牛」
「おまえは誰なんだ」
「俺はもう誰でもない。俺という存在はただの情報として拡散してしまった。もうどこにも居ないんだ。今の俺は、残り火みたいなものだ」
「違うだろ」と射手が言った。「おまえは、おまえだ。今そうやって悩んでるのがおまえだ。ラプンツェル」
ラプンツェルは射手に視線を向け、「ラプンツェル?」と聞き返した。
射手は、唇の端を曲げた。
「牡牛がくれた、おまえのニックネームだよ。俺のことでもある。集合的なんとかよりも、ずっと夢のある名前だわな」
「ラプンツェル……。童話の主人公」
「だけど牡牛なら、おまえに塔に引き上げてもらうよりも、おまえを地面に引きずり落として捕まえてくれるんじゃないか」
「……」
「おまえもそれを知ってる。おまえはずっと、それを知ってた」
ラプンツェルはまた表情を消し、射手に言った。
「最初の条件に戻ることを提案する。射手が我々のもとに来る。山羊を牡牛のもとに戻す。射手は我々のもとで必要な情報を得ることができる。これは脅迫でも強制でもなく、提案」
それが射手にとってはいちばんの誘惑なのだと、牡牛は直感的に悟った。だから言った。
「射手、返事をするな。うまい言葉に乗るな」
「うまい言葉?」と射手は言った。「すごく不器用な言葉に思えるよ」
射手はとんと地を蹴った。体重が無いかのように彼は飛翔し、次の瞬間には牡牛の前に立っていた。
牡牛の肩に手を置き、射手はしみじみと言った。
「俺を助けてくれて有難う」
牡牛はそれで、射手の意志を悟った。射手は、行こうとしている。射手はラプンツェルの正体を悟っている。射手は山羊を取り戻そうとしている。そして射手は、牡牛を守ろうとしている。
「行くな、射手」
「大丈夫だよ。俺は俺のまま、俺の意志で行くから」
牡牛は、失うことへの恐怖と、取り上げられることへの怒りを感じた。
「なんでみんな、せっかく見つけだしたのに、俺のところから消えようとするんだ! 誰が俺のものを取ろうとしてるんだ! 誰が!」
射手は、笑った。
「おまえほんと、欲張りだな」
「欲張らなきゃ生きてこれなかった。行くな射手」
「大丈夫だって。べつに消えてなくなるわけじゃない。ちょっと出かけてくるだけだ。すぐに戻ってくる」
「射手っ!」
「約束する。俺は帰ってくる。だから待っててくれ」
誤魔化しの嘘とは思えなかった。射手は冗談を言うが、嘘はつかない。だからこそ牡牛は、もう射手を止められないことを知った。
射手は牡牛の目を覗き込み、困ったように眉尻を下げた。
「そんな顔すんなって。俺はすべてを知りたいし、知ればきっとおまえの役にたつと思うんだ。だから行くだけだよ」
「俺はあいつを信用できない」
「ラプンツェルは……、本当の名前があるんだ。そっちの名前は信用できる」
「誰だ?」
「おまえのよく知ってる名前さ」
「……誰だ?」
「それを知ったらおまえ、あいつも手に入れたくなるかも」
くっくっと射手は笑い、牡牛は眉をひそめた。
「笑い事じゃない」
「笑うくらいさせろよもう、俺にしては珍しくへこんでるんだ。あんまり俺らしくない理由で。――なあ牡牛、おまえ本気にしてないけど、おまえを好きだって言ったの、本気だぞ。俺の世界はずっと暗闇だった。でもあのとき、目覚めて、真っ暗じゃなくて。俺のそばに火が灯ってて、そこにおまえの横顔が見えて。……あのとき、どれだけ嬉しかったか。おまえにはわからないよ。どれだけ嬉しかったか」
世界のすべてが暗闇と無で閉ざされていたら。その世界で、最初に出会った人間は、雛鳥にとっての親鳥に等しいのかもしれない。ただ追い求めることが、本能に刻まれる。
牡牛も、その感覚を知っていた。牡牛の世界は暗闇でも無でもなかったが、最初に出会う誰かを、ただひたすにら待っていたという点では、同じだった。
「俺だって嬉しかった。おまえに会えて」
「ありがとう。でも俺は、おまえの明かりにはなれない」
「……」
「だから火を取ってこよう。ちょっと待っててくれ」
くるりと、射手は牡牛に背を向けた。
ラプンツェルは射手を見て、牡牛を見ると、ついと視線を彼方に向けた。
二人は同時に地を蹴り、そのまま消えた。
同時に牡牛は戒めを解かれ、その場にひざをついた。
牡牛はしばらくじっと地面をみつめていた。
やがてそこを、拳で叩いた。