グロテスクなものに美を見いだす嗜好は、牡牛の中には無かった。絵画でも、ゴヤやダリは好きではなかった。ホラー映画もあまり見なかったし、また見ても、面白みがわからなかった。ミステリはよく読んだが、推理や設定をよく楽しみ、残酷な死体描写などは飛ばして読んでいた。
なのに乙女の様子については、素直に醜いと思えなかったのだ。それは牡牛自身にとっても不思議なことだった。かといって綺麗だとか、素晴らしいとかの表現で、賛美する気にもなれなかった。これは本当に、そんなことは思わなかったからだ。
困りながら、牡牛は言った。
「乙女が痛くて耐えられないんじゃないかと思ってしまう。平気だって言われても気になる」
「自分がこうなるかもしれない事については、本当に覚悟が出来ているのか?」
「うん。まあ痛くはないそうだし、メシも食えるんだろう? なら、いい」
乙女はあきらかに納得していなかった。しかし牡牛としても、それ以上は答えようが無いのだった。
とりあえず、嘘をついていないことだけは納得してもらえたようで、乙女は質問を変えた。
「最後のときに、冷静な判断ができるか」
牡牛はまた、尋ね返した。
「最後のときって?」
「発狂した俺を容赦なく殺せるか?」
牡牛はまた考え込もうとしたが、乙女はそれを許さなかった。
「約束しろ。俺が狂ったら、容赦なく殺すと。あのスコップで、俺の脳幹を叩き潰せ。それでも体は生きているだろうが、おまえに害を成すことが出来なくなるまで潰せ。刻んでもいいし、できれば焼け。それを約束してくれれば……。それが約束できないなら、俺は、おまえと一緒にはいられない」
「……」
「頼む。俺は、人間として死にたい。あんな化け物になって生きたくない」
その化け物を、病人としてしか見られない乙女の感覚について、牡牛は考えた。乙女は昔から、人の、人としての権利やルールにうるさい人物だった。乙女が腐ったものを人間として見るのは、自分を化け物として扱うことを否定しているからだろう。ただ感染者は人間としてのルールを激しく逸脱しているので、こちらがやっつけても正当防衛だと考えているのだ。だから自分がルールを破るようになったら、そんな自分は否定されて構わないと思っているのだ。
牡牛も思った。たしかにそれは乙女ではないだろう。なにか別のものだ。
「乙女も約束してくれ。俺が狂ったら殺してくれ」
乙女は、と胸を突かれたように肩を揺らした。
牡牛は、ふたたび言った。
「殺してくれ。でなきゃ不公平だろう。俺がおまえを攻撃したりしたら、遠慮なくやってくれ」
「……」
「約束だ。俺も約束する。乙女が狂ったら、俺が殺す」
乙女は力なくうなだれた。
「牡牛が狂ったら、俺が」
沈黙が落ちた。川の流れる水音と、虫の声だけが場を満たす。
牡牛は気分を切り替えるように、声の調子をあらためた。
「包帯を取り替えた方がいいんじゃないのか?」
乙女は、その声音に救われたように、慌てて首を横に振った。
「あとでやる。体を洗うから……」
油断した乙女に、牡牛はすっと近寄った。気づいておののく乙女のからだを抱き寄せる。輪にした腕の中に乙女を囲い込むと、乙女は身を固くはしたが、特に抵抗はしなかった。
牡牛は、満足して言った。
「やっと触れた。いつも触らしてくれないから、痛いんじゃないかと心配してたんだ」
「……接触依存症だな、おまえは」
「うん、そうだ」
「最悪の抱き心地だろう」
「最悪ってほど酷くない。でもあんまり手に力を入れたら、乙女が折れそうだから、力を抜いてるから欲求不満なかんじだ」
「かまわんぞ。やれ」
それで牡牛は遠慮なく乙女を抱きしめた。痛んだ皮膚を崩さぬように、丁寧に腕に力を込めて。
乙女は、安堵しきった溜息をついた。髪を撫で混ぜてやると、その感覚はわかるらしく、心地よさげに目を閉じている。牡牛は乙女の頭を支え、ひたいに口づけた。続いて目元に、頬に。そして口にしようとしたところで、乙女はハッと目を開いた。
「駄目だ」
「いやだ。する」
「なっ! ……駄目だ! 駄目だというんだこら!」
頬に手を突っ張って抵抗されたが、牡牛はムキになって成し遂げようとした。二人はしばらくもがきあい、やがて牡牛が乙女に突き飛ばされた。
牡牛は、残念に思った。
「惜しかった」
乙女は、牡牛を恐れるように、水中にむけて後ずさりしていた。
「なにを考えてるんだ!」
「もっと触りたいなって」
「さ、触るというか、これは」
「どうやったら乙女が俺のものになるんだろうとか」
「……」
「ていうか、これはもう俺のものと考えて良いのかなとか」
「……」
「俺のものをどうしようと、俺の勝手だから」
いささか正直すぎた牡牛に対して、乙女は怒り出した。
「帰れ! 自分の部屋に! 一人で行け! 途中で襲われても知らん!」
「じゃ、あたらしい包帯を取ってきてやる」
乙女はいらないというような旨を叫んでいたが、牡牛は右から左へ聞き流していた。燃えている小枝を取り上げて差し出し、足元をたしかめると、遊歩道に踏み入ってゆく。
歩きながら、頭の中では計画を練っていた。牡牛と乙女と射手と山羊、四人で寝起きするには展望室は狭すぎるので、山羊が帰ってきたら小屋でも建ててみようかと考え始めていたのだ。
乙女と再会するまでの一年余り、あまりにも寂しかった牡牛にとって、彼らは失うことの出来ない宝物に等しかった。
しかし展望台に続く丘を登り始めたとき、牡牛は楽しい妄想を否定せざるをえなかった。
展望台の横、作りかけの堀のふちのあたりに、二人の白い人物が立っていた。
一人は射手。そしてもうひとりは、牡牛が最初に会ったラプンツェルだった。