牡牛はふたたび、毎日おなじ仕事を繰り返す日々に戻った。そして仕事量は若干増えていた。朝は3杯のコーヒーを入れるようになったし、ゴミ穴も大きく掘るようになった。体を洗うついでにしていた洗濯物の量も増えたし、夕食も3人分をこしらえるようになった。日中の仕事をこなせるのが牡牛一人なので、どうしてもそうなるのだった。
そのかわりに、楽になったこともあった。柵作りが猛烈なスピードで進んでいた。夜間に乙女が働いているおかげだった。堀のほうは、柵ほど早くは進んでいないが、それでも目的の距離の半分ほどはもう完成していた。堀の進み具合のほうが遅いのは、仕事量が多いことと、射手が飽き症なことのほかに、堀の中に地下水が湧き出たことが大きかった。作業は困難になったが、畑のための水汲みが楽になった。
牡牛は、この一年すこしで、幼少時から家を手伝って得た農業知識を、劇的に改編させていた。機械が無く、道具が無く、農薬も肥料も無い状態での農業は、それらがある場合とはまったく違ったやり方が必要だったのだ。
たとえば牡牛は毎日、野菜についた虫を取るが、あまりにも被害のひどいものは、あえて放置した。虫にも嗜好があるのだ。食べやすく美味しいものに集まるのだから、それを餌として犠牲にすれば、ほかの野菜は被害が少なくて済む。餌になった野菜が枯死する寸前で抜けば、害虫をまとめてやっつけることもできる。
また畑に集まる害鳥についても、つかまえて食べれば良いのだということに気づいてからは、よく罠をしかけるようになった。スズメやハト、ヒヨドリなどがよく取れたので、牡牛は『食われた野菜は、これらの鳥を太らせるための餌だった』と考えるようになった。
ただ鳥害をふせぐための工夫もしていた。牡牛は畑のまわりの雑草をよく抜いたが、畑の中の草についてはむしろ放置していた。よく伸びた草が、作物の目隠しになり、鳥やケモノの害から防いでくれるからだった。そして防ぎきれないケモノは、罠で捕らえた。
その日の夜、牡牛は鳥をさばきながら、そういった知識を射手に伝えていた。
「農薬を使わないことは、それはそれで問題があるんだ。早い話が野菜がまずくなる。人に守られなくなった野菜は、自分で自分を守るために、自分を不味くしたり、自分を小さく、見つかりにくくしたり、自分の中に毒になる成分をこしらえたりするようになる。山菜が苦いのは、山に自然に生えてるからだ。あの苦味で自分を守ってるんだ。まあでも、野菜が変化するのは、今すぐって話じゃない。年単位の話だが」
スズメの腹に親指を入れ、くるりと皮を剥く。次の一羽をつまみあげようとしたら、射手に奪われた。
「俺もやらせて」
「ああ」
「それと、あとで罠の作り方、教えてくれ。面白そうだ」
「おまえ、鳥は素手で取れるじゃないか。カラス」
「あんなのチートじゃねぇか。ふつうは無理なんだから、ふつうに取ってみたいんだよ」
もし牡牛に、軽々と木の枝に飛び乗り、素早く鳥を手づかみするような能力があれば、その能力でもって遠慮なく狩りをするのだが。しかし射手はそれを、つまらない反則技だと考えているようだった。
こういった食事作りのとき、乙女はいっさい手伝わなかった。牡牛が口に入れるものに手を触れることを、乙女はいつも嫌がった。それどころか、自分の衣服も牡牛にはぜったいに触れさせなかったし、食事も外でしていたし、同じ展望室で眠ることもなかった。
そのときも乙女は、展望室に入ってきて、鳥を持っている射手を発見すると、即座に止めていた。
「それはよせ。やるんなら、その鳥はおまえだけが食え」
「乙女もやる? 自分のぶん」
「俺はいい。今日は食わない」
乙女の食事量はあいかわらず少なかったのだ。食事を一緒に摂らないのは、そのせいでもあった。そしていつもならば、乙女はこのあと、ずっと展望台の外でなにかの仕事をしているのだが、この日は違っていた。
「牡牛。少しつきあってくれないか。話がある」
珍しいことだった。いつもならば、日が落ちてから牡牛が外に出ることを、乙女はとても嫌がるのだ。牡牛としても、夜の外出はいやだったが、ただ友人二人の活動時間が夜間であるため、自分だけ寝ているのも気が引けて、たまに外に顔を出すようになっていた。たいていは乙女に追い返されたが。
だから不思議に思いつつ、牡牛は展望室を出た。乙女のあとを追いながら鉄階段を降りる。
乙女は川に向かった。左右をよく見て警戒しつつ、川べりに立つと、牡牛に言った。
「ここに火を焚いてくれないか」
すでに小枝があつめられており、一部が着火のために組んであった。牡牛はまた不思議に思ったが、黙ってポケットからライターを取り出し、組んだ枝の下の枯れ草に火をつけた。小さな火に少しづつ枝を投入し、大きくしてゆく。
火がある程度大きくなると、乙女が動いた。両手をコートの前にかけ、開いたのだ。
牡牛が黙って見守る前で、乙女は衣服を脱いでいった。コートを脱ぎ捨て、シャツを脱ぎ、ズボンを脱ぐ。下着も脱ぎ捨てたあと、体中をミイラのように巻いた包帯を、ほどきはじめた。
牡牛は乙女の目的を悟った。乙女は自分のからだを見せようとしているのだ。焚き火はそのための照明だった。
包帯がほどけるにつれて、乙女のからだの、酷い様子があきらかになった。まず全身のほどんどの皮がはがれていた。肉は柔らかさが無く、乾ききり、内部の骨格を表面に浮き立たせていた。また胸の一部は肉が裂けていて、あばら骨が白く覗いていた。腹の肉も欠けていて、包帯のふたを失い、そこが黒い穴となって内部を覗かせていた。
感染は乙女の顎のあたりまでで止まっていた。頬の皮がむけて、下あごにぶらさがっている。鼻から上、目元のあたりだけが無事だった。頭髪もふつうで、風の流れにさらさらと揺れている。
乙女は尋ねた。
「耐えられるか?」
牡牛は、尋ね返した。
「なにに?」
「色々なことに。たとえば、俺のこの有様。おまえ自身がこうなるかもしれないこと。耐えられるか?」
牡牛はじっと考えた。牡牛には分かっていたのだ。乙女は牡牛の嘘など見抜くだろうし、また慰めの言葉も期待してはいないのだということを。乙女は牡牛の、正直な思いを知りたがっている。それによって、自分が傷つくことも知っていながら。
「乙女。ええと……痛いか?」
乙女は、首を横に振った。
「痛覚は極めてにぶくなった。でなきゃ耐えられない。とっくに発狂してる」
「でも、すごく痛そうに見える」
「光が痛い。あれだけはたまらない。だがこういった、焚き火の明かりとかは、痛みはそう強くは感じないんだが、恐怖を感じる」
「なんでそんな体で、あんな強い力が出せるんだろう」
「痛みというリミッターが無いからじゃないか。怪我も骨折も気にする必要が無い。今の俺は」
「でも、ものが美味しいのはわかるんだな」
「ああ。――早く質問に答えろ。あまり見せたいものじゃないんだ」
牡牛はまた考えつつ、じっと乙女を見つめた。