星座で801ログ保管庫出張所

地球最後の…28

 不安なときは不安な夢を見るものだし、幸せなときは幸せな夢を見るものだが、牡牛がそのとき見た夢は、どちらでもなかった。牡牛は水瓶の夢を見ていた。といってもそれは実際の記憶ではなかった。夢の舞台は学校の図書室だったが、牡牛は過去に、図書室で水瓶と会話をしたことなどなかったのだ。にもかかわらず、水瓶は貸し出しカウンターの向こうに腰かけて、本を読みながら、牡牛に話しかけていた。むかし読んだ科学読本のようなセリフを。
「すべては脳の見せる夢なんだ。目に映るもの、耳に聞こえる音、手で触れた感触、舌で感じる味、すべては脳内物質と、シナプスに走る微量の電気が見せる夢にすぎない」
 だから水瓶は探していたのだろうかと牡牛は思った。最善の、最高の夢を。合格通知をすべて捨ててしまったのは、そういうことなのだろうか。
 そう尋ねると、水瓶は首をかしげた。
「それはきみのことじゃないのか。進学という道を最初から捨てていたじゃないか。それは選ぶためか。最善で最高の夢を」
 夢などというものではなく、極めて現実的な理由だった。牡牛の父親は年を取ってから、若い母親と出会って結ばれ、牡牛をこしらえた。だから牡牛の父はすでに老いていて、母や牡牛の手助けが無いと、仕事に支障が出るようになっていた。
 かといって、それは嫌なことでは無かったのだと牡牛が言うと、水瓶は首をかしげた。
「それはおかしい。ドラマや小説のような劇的な生活なんて、少しも望んでいなかったのに、現実はそうなったじゃないか」
 だからこそ今、得られたはずの最善を、ふたたび探しなおしているのかもしれない。虫食いだらけの野菜をこしらえて。ドラマや小説のような劇的な現実に対して、そうでない現実でもって対抗しているのかもしれない。
 水瓶は顔を伏せたまま、淡々と語り続けた。
「ドラマや小説のような現実か。僕は本ならなんでも読むんだが、小説というジャンルは不思議だ。嘘を嘘として書いてあるにもかかわらず、それが時々、本当のこと以上に本当に思える」
 牡牛は、当たり前なんじゃないかと思った。うそ臭い小説など面白くないだろう。笑ったり、悲しんだり、胸がどきどきするようなことを、自分のことのように感じられるからこそ面白いのではないか。
 水瓶は頷いていた。
「しかしファンタジー小説に糧食としてよく出てくる干し肉。とても美味そうに感じられるが、美味いわけはない。塩で水気を抜いて、水で塩気を抜いて、干して固めて、味や食感よりも保存優先でこしらえてあるんだ。理屈で考えても、美味いわけはないじゃないか。なのにどうして美味いように書いてあって、美味いわけはないのに、美味いだろうと感じられるんだ」
「本当に美味いからじゃないか? その世界の、その状況では」
「なるほど。干し肉の美味い世界が本の中にあり、干し肉のまずい世界が本の外にあるということか」
「うん。世界が本から外に飛び出て、現実に広がったら、干し肉も美味くなるんだろう」
 水瓶は本から顔をあげた。
「干し肉の美味い世界は、幸せか?」
 牡牛は、眉をしかめた。
「腹が立つ」
「それは乙女や射手が勝手なことを言って、おまえを困らせたからであって、世界とは関係ない」
「いいや。こんな世界じゃなければ……」
 こんな世界でなければ。そもそも牡牛はこれほどまでに他人を欲することは無かったのではないか。他人を欲するとすれば、卒業して、家の跡をついで働きつつ、なにかの機会で好みの女性とでも出会ったときだろう。そして同窓会や飲み会やらで、乙女や射手に再会しても、それはただ普通に接して普通に別れて、あとは時々メールをしたり、年賀状を送ったりして、いずれはそれも無くなって、相手のことを忘れてしまったかもしれないのだ。
「というより、こんな世界だからこそだ。いつか誰かに出会えるかもしれない。そう思いながら生きてたころは、不安だったし、怖かったし、不運な状況ではあったけど、幸せだったのかもしれない」
「いまは幸せではないのか?」
「手に入れた幸せが無くなるってことは、不幸なんだと思う」
「それでは自分の幸せを、他人に依存していることになるな」
「そうじゃない。幸せってやつは、人の不幸を踏み台にしては、成り立たないと思うんだ。そういうことをして手に入れた安全とか、安定とか、ラクさってのは、実はとてもあやういものなんじゃないかって気がする」
「……」
「俺は完全な安定が欲しい。俺のためだ。相手のためでもある。ここは譲れん。だって当然の話じゃないか。くそ、思い出したら腹が立ってきた」
 水瓶は特に表情を変えず、黙って、憤る牡牛を見つめていた。
 やがて、ぽつりと言った。
「僕に会えるといいな」
 牡牛はうなずいた。
「俺が水瓶ほど頭が良ければ、こんなことにはならなかったのかもしれない」
「しかし貧弱な僕では、こんな世界で、生き残っている可能性は少ない」
「そうでもない。射手が言ってた。基地に保護されたそうじゃないか」
「ああそうか。むしろ生き残っている可能性は高いんだ」
「会えるといい。本当に」
 これほどまでに牡牛は欲している。そばに居て、ただ語り合い、ともに時間を過ごす存在を。にもかかわらず、それらは失われようとしている。
 牡牛はふたたび怒りを感じ、その高揚感で目覚めた。



 不規則な睡眠を摂ったせいか、目覚めても気だるさが消えなかった。鳥の声は無く、雨の音も聞こえないので、まだ夜明けではないことはわかる。だが牡牛は確認したいことがあったので、起き上がると、布団から出てきた。
 いつも定位置に置いてあるランプに火をつける。そして辺りを見回した。
 誰もいなかった。水瓶はもちろん。乙女も、射手も。
 牡牛は、すべての思考を消した。水を飲み、靴をはくと、展望室のドアに向かった。
 牡牛は出て行った二人を追跡するつもりだった。まだ太陽が昇っていない、危険な時間であることも、牡牛にとっては二の次の問題だった。だがドアの前に立って気づいた。いつもそこに立てかけてあるはずのスコップが無い。
 牡牛は記憶をさぐった。射手の家を脱出した夜、気絶するまでは持っていた。そのあと牡牛は展望台に運んでもらえたわけだが、スコップは運んでもらえなかったのだろうか。そういえばマウンテンバイクも置いてきてしまった。
 牡牛は自分を冷笑した。失うばかりだと思ったのだ。
 しかし鉄扉を開いた途端、夜風が、音を運んできた。
 カンと、なにかを叩く音。しばらくたってもう一回。また一回。
 手すりから身を乗り出して下を見た。
 作りかけの柵のそばに乙女がいた。手にひと抱えほどもある石を持ち、地に立てた竹に向かって、振り下ろしている。また音が鳴った。
 牡牛は大声で乙女を呼んだ。
 乙女は牡牛を振り仰ぎ、石を片手に持ちかえると、空いた手で牡牛を手招いた。
 牡牛は急いで階段を降り、乙女のもとに向かった。
 乙女は開口一番、牡牛を叱った。
「大声を出すな馬鹿。まだ夜は明けてない」
「居なくなったのかと思った」
「山羊を取り戻すまでは離れん。――このまま竹を植えていけばいいのか?」
「……」
「射手は、さっきまでそこを掘ってたんだが。――それは堀だろう?」
「ああ」
「堀を作ってたんだが、飽きてどこかに行った。そろそろ戻らないと、夜明けが来たら困るんだろうに」
 そのとき、植え込みがガサガサと鳴った。
 飛び出して来た射手は、数メートルの距離をなんなく越えて地に降り立つと、手に持った黒いものを、牡牛に向かって突き出した。
「なー。カラスって食えるのか?」
 よく見てみるとそれは確かに、一羽のカラスだった。まだ生きていて、さかさまに持たれたまま、羽をバタバタと動かしている。
 牡牛は質問に返答する代わりに、こう尋ねた。
「ラプンツェルのところに行くんじゃなかったのか?」
「どうせ迎えに来てもらえなきゃ行けないよ。山羊と俺を交換するんだろ?」
「……」
「行くかどうかは、迎えが来てから決める。乙女も、ここに居るかどうかは、山羊が帰ってきてから決める。とりあえず、そういう結論になった」
「……」
「だから、怒るなよ」
 牡牛は無言でカラスを受け取ると、ぐいぐいと首をねじりながら展望台に戻っていった。
 階段を上がりながら、ほっとしていた。