牡牛は何度も目覚め、目覚めては眠った。睡眠で脳と精神を回復させても、体の回復がそれに追いつかないせいだった。最初は体が揺れる感覚で目覚め、自分のからだが運ばれていることに気づき、安堵して眠った。次に目覚めたときには、自分の体が拭かれて、洗われていることに気づき、また安堵して眠った。次に目覚めたときには、自分が布団にくるまれていることに気づき、また眠った。眠りながら乙女と射手の話し声を何度も聞いたが、その内容を理解することは出来なかった。
やがて目覚めたとき、牡牛はそこが展望台の自分の寝床であることに気づいた。驚きとともに身を起こそうとして、筋肉痛を含むあらゆる痛みに襲われた。苦痛を訴えながら立ち、途端に眩暈を起こして膝をついた。
牡牛は両手でこめかみを押さえながら、乙女と射手の姿を探した。どこにも姿が見当たらなかったが、枕元に缶詰の山と一通のメモを発見し、牡牛はそれだけで乙女の気配を察して安堵した。だが急いで開いたメモには、乙女ではなく、射手の書いた文章が載っていた。
『公園の花壇に道具小屋があるらしい。乙女は病気をうつしたくないので、そっちで寝るので、俺もそっちに連れて行かれることになった。俺は布団で寝たいと言ったけど駄目だって言われた残念だ。けど夜になったらそっちに行くから牡牛は夜まで寝てなさい。起き上がってウロウロしたら乙女の雷が落ちます。俺は落とさない。射手』
字が非常に汚かったことと、メモを持つ手が筋肉痛で震えることと、疲労で頭がくらくらすることとで、牡牛は読むのに苦労した。そして読み終わると、妙に寂しい気分になり、溜息と共に布団に寝転がった。
そのまま怠惰に缶詰を食い、水を飲んで、寝て過ごした。途中で一度だけカーテンから外を見たら、時刻はもう夕暮れだった。牡牛は夕食の支度をしたいなと思ったが、面倒だったのと、乙女に怒られるのはさらに面倒だったのとで、止めた。
やがて展望室のドアがノックされた。牡牛は跳ね起きようとしてまた痛みに唸った。しかし牡牛がドアにたどり着く前に、それは向こうから開かれた。入ってきた二人のうち、乙女はまず、牡牛が言いつけどおりに寝ていたかどうかを目でチェックしていた。射手は遠慮なく牡牛を抱きしめて悲鳴をあげさせた。
牡牛はまず、昨夜のことを尋ねた。
射手が楽しそうに語った。
「普通に、乙女がおまえを運んだんだよ」
「俺は重いと思うが」
「でも運んだんだよ。こう、女をさらう原始人のようにだな。肩にかついで」
腐りつつある乙女は、同時に彼らの怪力を手に入れている。牡牛はそれを思い出した。礼を言うと、乙女はそっぽを向いた。
「射手にも頭を下げておけ。途中、襲われたんだ。射手が倒した」
牡牛を運んでいる乙女は、抵抗できる体勢ではなかったのだが、射手が角材を振り、一撃で敵の脳を叩き潰したのだという。
射手は、自分の手のひらを見つめていた。
「俺も持ってるみたいだ。アサシンパワー」
牡牛は、そうだろうなと思った。言動のおかげで人間的に見えるが、射手は普通ではない。外見もそうだし、その生命力もそうだ。ふつう一年以上も暗闇に閉じ込められ、食料を与えられず、水攻めの拷問にあえば、人は死ぬ。死なないなら、その者は、人が持ち得ない力を持っているということだ。
乙女も言った。
「射手は俺に近いんだと思う。感染者に」
腐り落ちる病とは何か。そしてラプンツェルとは何なのか?
その疑問について、乙女は語った。
「それについては、誰も結論は出せない。材料も乏しい。だから……」
乙女は、珍しく言い淀んだ。
牡牛がなんだと問いかけると、射手がかわりに答えた。
「山羊をさらったヤツに聞くしかないだろ? だから、それを条件に、俺はそいつの所に行こうかと。ラプンツェルの目的は俺だろ」
「駄目だ」と、牡牛は答えた。即座に。
乙女は明らかに、牡牛を説得しようとしていた。
「俺はそいつを見ていないが、そいつは射手と似た様子をしていたんだろう。そして射手を欲していた。おそらくそいつは射手とおなじく、光の中では動けなくなるんだ。そして何らかの理由で、射手や俺と同じような強い力を持っているにもかかわらず、ガラスの壁を破ることができない。だからおまえを利用した。利用して射手を助けさせた。ということは、射手に対してそいつが持っているのは敵意ではなく、仲間意識のようなものだと考えられる。牡牛、射手はそいつの所に行っても安全だ。むしろ俺たちより射手に良く接してくれる可能性が高い。そして山羊も帰ってくる。おまえには山羊が必要だろう」
牡牛はじっと乙女の言葉を聞きながら、黙っていた。
そして、言った。
「俺の考えを言ってもいいか?」
二人がうなずいたので、牡牛は言葉を続けた。
「乙女。おまえは射手を警戒してる」
乙女は答えなかった。それはやはり、乙女には珍しいことだった。
牡牛は次に、射手に言った。
「射手。おまえは乙女に警戒されていることを知っている。だから俺の寝てるあいだに、乙女と相談して、ラプンツェルのところに行くことに同意した」
射手は、驚いた顔をしていた。
牡牛は溜息をついた。
「そのくらいわかるぞ。乙女はずっと、自分が病気だってことを気にしてる。できれば俺から離れて、俺を守りたいと思ってるんだ」
乙女は、悲しげに言った。
「……当然だろう?」
「当然なもんか」
「おまえは一人じゃない。山羊がいる」
「ああ。俺が寂しいと駄々をこねて脅したから、おまえは別の人間を探したんだ。そして運良く、山羊をみつけた。山羊が腐る病気を持ってないもんで、乙女は自分のかわりに、山羊を俺に与えようと思った。そして俺たちが仲良くしているのを確認したら、自分は安心して去ろうと思ってた。なのに、山羊がさらわれてしまった。おまえは俺の置手紙を読んで、とにかく山羊を取り返そうと考えたんだ。あるいは、射手を俺につけたら更に安心できると考えたんだ。しかし見つけた射手は白くて、あきらかに普通じゃなかった。だからおまえは、山羊を取り返し、同時に、自分に近いと思われる存在である射手を、俺から遠ざけることを考えた」
そこで牡牛は射手に向けて「おまえの話をする」と言った。
「射手のこともわかる。おまえは好奇心でいっぱいで、とにかく世界のことについて知りたくて仕方が無い。ラプンツェルについて知りたいのも嘘じゃない。だけど同時に、おまえは自分を犠牲にしようとしている。なんでそう思うかというと、もし俺なら、他人に、これ以上は無いっていうくらい酷い目にあわされたあと、また他人に人生を決められて、他人に運命を左右されるのはうんざりだからだ。うんざりなのにそうするのは、もう人生を諦めているか、そうしなければ、自分が他人の運命を左右してしまうと思ってるからだ」
射手は、「後半が正解だ」と言った。
「諦めてない、俺は。けど、おまえを俺の事情に巻き込みたくない」
「もう巻き込まれてる」
「そう……なのか?」
「あたりまえだ。乙女も射手もわかってない。体が痛んだり、白くなったりするのが、もし病気なんだとしたらだ。この世界に住んでいる以上、俺だってとっくに感染してるに決まってるんだから、離れたって意味が無いじゃないか。いつか俺も山羊も、腐ったり白くなったりするに決まってるじゃないか。俺は覚悟してる。おまえらは覚悟してない。だから平気で俺を見捨てられる。――わかった。いい。好きにしてくれ。俺も好きにする。俺におまえらをふん縛る力があったら、馬鹿なおまえらを閉じ込めて、どこにも行けないようにするんだがな。俺にはそんな力は無いからな。――ああもういい。好きにしろ。知らん。くそ」
牡牛は徹底的に怒っていた。怒って、拗ねていた。暴れたい気分でもあったのだが、暴れてもどうしようもないことを理解していたので、暴れないだけだった。つまり牡牛はきわめて感情的に、いまの言葉を語ったのだった。
にもかかわらず乙女と射手は、牡牛の言葉を、非常に客観的なものとして捕らえているようだった。乙女はフードの下に瞳に知性の光を輝かせていたし、射手は瞳を閉じてじっと俯いている。
やがて射手が言った。
「牡牛が正しい」
乙女が首を横に振った。
「見捨てようとしたわけじゃない」
「でも、結果はそうなるんだ。牡牛が正しいよ」
「見捨てたりするものか。俺は――」
「見捨てるも同然だってことだろ。こんな危険な世界に、牡牛や山羊を放っておくのは」
「見捨てたんじゃない! だって、牡牛が感染してるとは限らないだろ――」
牡牛は素早く「感染してればいいんだな?」と言った。
「感染してればいいのか。わかった。噛みつかれてやる。あいつらに」
牡牛は立ち上がり、ドアに向かおうとした。しかし体が弱っているせいか、二人の力が強すぎるせいか、あっさりと止められた。そのことがさらに牡牛を怒らせた。押し戻された牡牛は乙女に、自分に噛み付けと言った。慌てて乙女が首を横に振ると、射手にも同じことを言った。そして乙女と同じ反応を返された。
牡牛は二人を睨みつけた。そして布団に転がると、頭まで掛布をかぶった。
乙女と射手の会話は、牡牛にとっては腹立たしいことに、布団の中にもぐっていても、とてもはっきりと耳に響いた。乙女が言った。
「射手。俺は、よくわからなくなった」
疲れ果てた声だった。それに答える射手の声は、笑い混じりだった。
「かわいいなあ、こいつ」
「かわいいものか。腹立たしい。俺とおまえが、あれだけ時間をかけて話し合って出した結論を、ものの数分でひっくり返してしまった」
「乙女、俺を警戒してたのか?」
数秒の間ののち、乙女のうなずきでも見たらしく、射手が言った。
「やっぱりな。当然だわ」
「すまない」
「いや当然だって。俺も、自分で自分を警戒してるかんじだ」
「ああ。――こちらがこれだけ気をつかってるのに、こいつときたら」
「そんなの知るかって態度だったなあ」
「昔と変わらん。頑固で欲張りで、自分の持ち分が減ることに我慢がならなくて、落ち着いているかと思えばどうしようもなく子供で」
「でも、正しいよ」
「……」
牡牛としては、二人の語る牡牛論になど興味は無かった。というよりも牡牛はもう、なにを聞かされてもどうでも良い気分だったのだ。牡牛はひたすら目を閉じ続けた。目を閉じ続けて眠りを呼んだ。時間はかかったものの、いまだ抜けない疲労と睡眠不足が、牡牛の呼び声に答えてくれた。
死ぬほど腹を立てたまま、牡牛は眠りに落ちた。