星座で801ログ保管庫出張所

地球最後の…26

 声で相手の正体を悟ったらしい乙女は、驚いた様子だった。
「射手? 射手がラプンツェル?」
「おまえ乙女なのか! 格好いいなあ。アサシンみたいだ」
 射手がさらに何か言いつのろうとするのを、乙女は手を上げて制した。
「話はあとだ。牡牛、上の家屋に火をつけたのはおまえか?」
 正確には火をつけたのではなく、床に火炎瓶を投げたのだ。牡牛がそう説明すると、乙女は呆れていた。
「なんでそんなことを」
「家にやつらがいっぱい居たんで、火で遠ざけた」
「どうしてそう、いつも大人しいくせに、とつぜん大胆なことをするんだおまえは。牡牛、住宅街が火の海になってるぞ」
 牡牛が地下にもぐったあと、火は火事になって家を燃やした。そしてこの一年以上、誰にも住まれず、手入れもされず、乾ききった町の家々に、次々と引火していった。この世界には火を消してくれる消防士も、消火器を振り回してくれる住民もいなかったので、火は風に乗って自由に町を暴れまわった。
 派手すぎるのろしのおかげで、乙女は迷うことなく、この周辺までたどり着くことができた。だが同時に、のろしが派手すぎて、細かい地点がよくわからなくなった。
「おかげでこの家がどこかも分からなくて、さんざん探し回ったんだ。最初は自然発火だと思ってたんだが、もし牡牛が関係していたらと、途中で思いついた。それでひたすら風上に向かって移動した。火元と思われるこの家の残骸を発見した。侵入して探し回ると、庭に穴があいていた。そこからうっすらと光が漏れていた。行って下を覗いてみたら……」
 射手が嬉しそうに言った。
「俺たちのピンチが見えた?」
「いや、感染者が群れて騒いでいた。よく状況が飲み込めなかったんで、とりあえず降りる道具を探して、彼らの背後から様子を観察して、そしてやっと、誰かが襲われているらしいと思ったんで……」
「冷静だなあ乙女。格好いいな」
「俺は襲われないから平気なだけだ。ただ牡牛とおまえはそうはいかないだろう。上は隠れ場所を焼け出された者たちが大勢さまよってるぞ。また誰か入ってくるんじゃないか」
 牡牛は腕組みをして考えた。
「悪いことをしたな。火事なんか起こして」
 今度は射手が呆れていた。そして乙女は怒った。
「当たり前だ! 無茶にも程があるぞ! この状況で安易に火を使ったら、どんなことになるか想像がつかなかったのか!」
 射手は、牡牛に向けていた呆れ顔を、乙女にも向けた。
「いや、世界から、家が燃えて怒る人がいなくなっちゃってるんだろ? 今。だったらしようがないんじゃないかと」
 牡牛は、「だけど人間の残したものを」と答えかけ、乙女は「わざわざ彼らの住み家を奪い」と言いかけ、その両方を射手はさえぎった。
「それより早く外に出ようぜ。外も危険らしいけど、ここよりはマシだろ」
 牡牛は射手のその意見に賛成した。危険だからというよりも、早く射手を、外の世界に出してやりたかったのだ。
 乙女は天井の穴から降りてきたので、そこには一本のロープが下がっていた。しかしそこをよじ登る力が、牡牛にはもう無かった。一日中の作業で、両腕から力が失われていたからだ。そこで乙女に先導してもらいつつ、地上への階段を登った。
 牡牛が最初に入った半地下の物置は、コンクリート製だったので、とくに変化は無かった。ただ木製のドアは燃え落ちていた。そのドア枠をくぐると、あの豪奢なロビーは存在せず、ただの瓦礫の山になっていた。丸見えの夜空を見上げると、あちこちの延焼中の家屋から登る煙が、空を支える柱のように伸びていた。
 化学物質の燃えた異様な匂いに、牡牛は眉をしかめたが、射手の表情は晴れやかだった。
「外だ。あぁ、風を感じる」
 両手を広げてうっとりと目を閉じる射手に、乙女が冷たく言った。
「油断するな。あちこち敵だらけだ」
「でもあいつら光を怖がるんだろ? 夜なのに火事で明るいから、むしろ普通の夜より安全なんじゃないか」
「かもしれんが、危険なことに変わりは無い」
 乙女はランタンの明かりを消した。そして焼け跡から焦げた角材を一本取り上げると、射手にむかって差し出した。
「このあたりにはおまえが詳しいだろう。おまえが展望台まで先導しろ。牡牛は射手のうしろにつけ。俺が、しんがりにつく」
 射手は角材を受け取ると、軽く振って、
「ふるちんで棒きれを振り回す男について、乙女どう思う?」
 と尋ねた。乙女は、
「どうでもいい」
 と答えて、射手に歩けとうながした。
 射手は燃え落ちた柱を軽く飛び越え、すたすたと歩き出した。その後ろに続きながら、牡牛は思った。元気すぎると。
 水槽内の食料と水がいつ切れたのかはわからない。だが要するに射手は、ろくに飲まず食わずだったのだ。運動もできなかっただろうし、なぜか衣服も与えられていない。光の射さぬ場所で、裸で水に浸かり、じっと動かずに過ごしてきたはずだ。なのに射手は、元気すぎる。衰弱した様子も、病気になっている様子もまったくない。
 牡牛のほうは、朝からずっと緊張状態で、水に浸かりっぱなしで、肉体労働に励んだせいで、くたくただった。ゆっくりとしか動けなかったし、すぐに息が切れて、歩いては立ち止まることを繰り返した。それが精一杯だった。そして、それが普通なのだ。
 射手は焼け跡と無事な建物の境い目を縫うようにして歩いていた。途中、街路樹に引っかかっていた布きれを、ジャンプで取っていた。どこかから風に飛ばされて来たらしい、燃え残りの焦げたカーテンだったが、射手がそれを身にまとうと、旅人のマントのようにも見えた。
 そして街路樹が途切れるあたりで、牡牛は異様なものを見た。
 そこは児童公園だった。広い空き地が延焼止めの役割を果たし、公園の片側ではまだ燃え盛っている家があったが、その反対側の家々は無事だった。炎はブランコやシーソーを赤く照らしていた。そして、地を這うものたちをも残酷に照らし出していた。
 彼らはすべて、五体の一部か、そのほとんどを失っていた。特に下半身を損傷していて、立つということができないようだった。あるものは手で、あるものは手足の無い胴体部だけで、蜘蛛や蛇のように地面を這っていた。這いながら、燃える家屋へと入っていくのだった。ぞろぞろと、百鬼夜行のように。もう炎をあぶないと判断できる知能も無いらしい彼らは、淡々と死への行進を続けていた。おそらく脚部の無事なものは、もうとっくに火の中に入るか、あるいは逃げてしまったのだろう。本能で火を消すつもりなのかもしれないが、見ている限りでは、望みの結果は得られそうになかった。
 彼らは完全に炎のみに気を取られていて、こちらには気づいていなかった。また気づいていても無視しているのかもしれなかった。それに気づかれても、移動速度が遅いので、あっさりと逃げられそうだった。だから三人は黙って、その様子を見守った。
 射手が言った。
「火葬だな」
 乙女が頷いた。
「残酷だが、彼らの魂にとっては幸せなのかもしれない」
 牡牛は、まったく別の感慨を持っていた。水と土に沈められようとしていた射手。風と火に焼かれようとしている彼ら。そして、そのふたつにまみれた自分。
 冷たく暗いもの。激しく熱いもの。極と極に振り回されながら、自分は何を求めているのか。
「……牡牛?」
「牡牛!」
 極と極のあいだを求めた。自分を呼ぶ声を聞きたいと、ずっと思っていた。呼ばれたい、触れられたい、そして安寧と充足を得たいと。自分は、少しは、そこに近づいているのだろうか。いつかそれを得られるのだろうか。
 地面に倒れこみながら牡牛は、そんなことを考えていた。