星座で801ログ保管庫出張所

地球最後の…23

 牡牛は射手の隣りに腰かけ、寒さに震えながら、じっと考え込んでいた。
 まずはこう思いついた。水槽の外の水位が低かったのは、そちらは床にもひび割れが走っていて、そこからある程度の水が排出されているからだ。だったら水槽内の床にもひび割れをこしらえて、水を排出すれば良い。水が引いて床があきらかになれば、ドアを開く方法もわかるだろう。
 そして否定した。水中のコンクリートを割る方法が見つからない。スコップを叩き込んでも無理だ。時間をかければ可能だとしても、その時間がない。
 次にこう考えた。なにか細長い棒を見つけてきて、床のみぞに押し込み、テコの原理で開いてみようと。
 これはすぐに否定した。肝心の棒が無いからだ。上の屋敷を探せば有るかもしれないが、そもそもその屋敷内に、牡牛はもう行けないのだ。だいいち行けるくらいだったら、すでにそちらから脱出している。本末転倒だった。
 そしてこうも考えた。どうせ屋敷のほうにしか行けないのだったら、そっちに行って戦おうかと。滅茶苦茶に暴れればなんとかならないだろうか。人間は追い詰められると通常以上の力を発揮できるものだ。1パーセントでも勝てる可能性があるのなら、そちらに賭けてみるべきだ。
 これについては考えている途中で、自分の追い詰められっぷりを思い知らされただけだった。非現実的この上ない。仮にもし牡牛が武道の達人だとしても、射手を背負いながら戦うことなどできない。勝てる可能性など1パーセントも無いのだ。
 牡牛は天井の穴を見上げた。ガラスの外側にある穴からの光は、よくは見えないものの、確実に角度が浅くなっていた。もう時間がない。
 そして牡牛は――開き直った。
「射手。今晩は、ここに泊まりこむことになりそうだ」
 返事をしない射手の頭を撫でると、牡牛はテーブルから滑り降りた。
 時間制限があると思うから焦ってしまうのだ。夜を越す覚悟さえあれば、時間はたっぷりと有る。牡牛は確実に風邪を引くだろうが、一日で死にはしないだろう。だから一晩かけて考えればいいのだと、牡牛は結論づけた。自分は、手早くものを考えるよりも、腰を据えて考えるほうが向いている。幸いなことにここのガラス壁は極めて丈夫だということを、身をもって知っている。一匹くらい何かが侵入して来ても大丈夫だ。
 水槽内の家具の一個一個に近寄り、その様子をたしかめた。戸棚とベッドは完全に固定されていて、びくともしながった。便器も当然動かなかったが、小さな冷蔵庫は固定されておらず、浮力も手伝って動かすことが出来た。テーブルのそばの椅子も、座席に置かれた花瓶が重石になって沈んでいただけだった。牡牛はガラス壁の穴の前に椅子を置き、その上に冷蔵庫を置いて、穴をふさいだ。
 次に水に浸かったまま、びしょ濡れの衣服を脱いだ。寒かったが、濡れた服を着ているよりはマシだった。そうして裸のまま戸棚に近寄ると、棚の上段から濡れていない本を取り出し、テーブルの上に持って行く。テーブルにあがると、服の水をしぼる。本のページを破り取り、それで体を拭く。拭き終わると、花瓶を取り上げ、それもページで丁寧に拭いた。
 そして牡牛は、テーブルに座り込み、本から破り取ったページをねじる作業をはじめた。固くきつくねじっては、花瓶の横に積み上げていく。そうして彼は薪をこしらえはじめたのだった。



 時間がたつにつれてシェルター内の光量は減っていった。やがてほとんど辺りが暗闇になったので、牡牛はたいまつを花瓶に刺し、火をつけた。その火が尽きるころに、本のページの薪を投入するつもりだった。また、棚の仕切り板を外して割って、太い薪もこしらえてあった。それでも夜通しは持たないだろうが、火は心を安定させてくれるし、服を少しでも乾かすことが出来るし、多少の暖も取れる。
 オレンジ色の炎に服をかざしつつ、牡牛は射手に声をかけた。
「おまえは寒くないのか。ずっと裸で水に浸かっていたのに、平気なのか」
「俺は大丈夫なんだ。むしろ熱いのは苦手だ」
 牡牛はあやうくテーブルから転がり落ちるところだった。
 そんな牡牛の腕を、射手がしっかりと掴んできた。
「おいおい、気をつけろ」
 牡牛は久しぶりに言語機能を麻痺させた。口を開いたものの、しばらく言葉を発することもできなかった。
 そんな牡牛を、射手は楽しそうに見ていた。
「何を言えばいいのか、分からないって顔してるぞ」
「何を言えばいいのか分からない」
「そっか。じゃあ態度で示せばいいんじゃないか。こんなふうに」
 言いながら射手は、牡牛をがばと抱きしめてきたのだった。
「久しぶりだなあ牡牛!」
 その固い体をぼんやりと抱き返しながら、牡牛の中にやっと、この不条理さに対する、怒りのような、苛立ちのようなものが沸いてきた。だから不機嫌に、ぶっきらぼうに言った。
「ひどいじゃないか」
 射手はくっと顔をあげて、「なにが?」と言った。
 牡牛は不機嫌を隠さず、ぶすっとしていた。
「ぜんぜん喋ってくれなかった」
「ああ。喋れなかったんだ」
「動かなかったし」
「動けなかったんだ」
「なんで」
「俺にもわかんね。喋れなくなったり、喋れるようになったり、動けなくなったり、動けるようになったりするんだ」
「……」
「仕方が無いだろ?」
 牡牛は、仕方が無いのかな、と考えた。
 射手はご機嫌な様子で、牡牛を抱いては身を離して顔を覗き込み、また抱いては背中を叩き、興奮した犬のように振舞った。
「最近分かったんだけど。なんか天井がつぶれて、光が差し込むようになって分かったんだけど。俺、昼間は動けないみたいだ。夜になると動けるんだ」
「そうか」
「で、おまえ助けに来てくれたんだろ。そうだろ?」
 牡牛は今日の朝、動かない射手に長々と説明したことを、ふたたび丁寧に説明した。
 今度は射手は、相槌を打ち、時には質問をはさみ、ちゃんと返事をしてくれた。
 そして最後にこう尋ねてきた。
「なんで展望台に住んでるんだ。家出か?」
 牡牛は、射手が、なにも知らないことを知った。
 だから説明を付け加えた。ありとあらゆる人間たちが腐りだし、他人を襲い、世界はとても危険になっていて、ろくに移動も出来ないことを。遠いところから学校に通っていた牡牛は、いまだ帰宅もできないのだと。
 なにも知らない射手は、面白い映画の話でも聞いたかのように、目を輝かせていた。
「世界って滅んでるのか?」
 牡牛は曖昧に首をかしげた。
「滅ぶってことの意味が、人の数が少なくなるって意味なら、そうかもしれない」
「俺と、おまえと、乙女と、山羊か。それにその、ラプンツェル? それだけが生き残りなのか」
「ラプンツェルは人間なのかな」
「俺は人間だぞ。白くなっちまったけど」
「なんで白くなったんだ」
「それが……よくわからないんだよな」
 射手はどこか、遠いところを見る目をした。
「学校であの出来事があって……、俺はすぐに体育館の出口に走ったんだ。けど水瓶にぶつかってコケて。そしたらそのあと、どうも、出口でドミノ倒しが起きたみたいで」
「ああ。覚えてる」
「で、仕様がないから、水瓶と一緒に、館内の用具倉庫に隠れたんだ。出口のそばにあっただろ。他にも何人かいたけど、あいつら今頃どうしてるんだろう」
「そうだったのか」
「うん。跳び箱とかでドアを押さえて、必死で隠れて。体育館の中はすごいことになってるみたいで、ずーっと悲鳴が聞こえてたな。夜になって、自衛隊のひとが助けに来てくれたよ。運動場にヘリコプターが止まってた。俺たちはそれに乗って逃げた。基地に降ろされると、家からの迎えの車が来てて、俺はそれに乗せられて、家に帰ることになった。だから水瓶とは基地でわかれた」
 そこで射手はいったん言葉を切り、苦しげな、寂しげな顔になった。
 じっと続きを待つ牡牛に向かって、射手は言った。
「光が俺を殺す。熱が俺を溶かす。俺はそう言われたんだ。俺、病気なんだって。留学なんて嘘だったんだよ。俺を隔離するための嘘だった。家に帰った俺は、そのまま、この部屋に閉じ込められたんだ」