スコップを振り上げては叩きつける単純な作業は、牡牛にとっては慣れたものだった。彼は今までその道具で、土を掘り、木を折り、石を砕き、敵と戦ってきたのだ。それは道具であると同時に武器であり、牡牛にとってのお守りでもあった。今回も地味な作業の繰り返しに耐えて、牡牛の願いを適えてくれつつある。すでにガラス面には頭ほどの大きさの穴が開いていた。ただ水槽内から水が排出されたせいで、部屋の水位は牡牛の太ももあたりまで増している。水位が上がるにつれて作業はやりにくくなったが、牡牛は黙々と動き続けた。
やがて冷え切った足から感覚が無くなり、腕がしびれて力が入らなくなったので、牡牛は出入り口のほうに避難し、階段の上にあがって休憩した。右手で左肩を揉み、首をまわしてゴキっと鳴らす。足踏みをして下半身に血をめぐらせつつ、天井を見上げた。
天井の穴から差し込む光の角度は、ほぼ垂直になっていた。これまでの作業で正午ちかくまでの時間がかかっているということだ。これからガラスの穴を、牡牛の肩幅が通るくらいまで広げるのに、あと3時間はかかるだろう。それから水槽の中に入り、射手を説得し、外に連れ出し、展望台に帰る。すべてがつつがなく出来たとしても、ぎりぎりのスケジュールだった。
牡牛はふたたび水の中に入ると、今度は用心のためにドアを閉めた。水槽前に移動すると、作業を再開した。肉体はすでに機械のように、同じ動作を覚えこんでいる。だから体を動かしながら、頭も動かす余裕が出来ていた。
牡牛は考えた。射手の父親がこの地下シェルターをこしらえた理由は何か。この空間は少なくとも、土砂崩れによる一方向からの負荷に耐えるようには設計されていなかった。ということは地震用でもないだろう。強盗のためのシェルターにしては大げさすぎる。では核シェルターだろうか? しかし核に対してなぜ水槽が必要なのか。
やがて牡牛は、作業の途中で手を止めては穴に頭をつっこみ、肩が通るかどうかを確かめはじめた。3回目までは無理だった。4回目、やっと牡牛は望みの大きさの穴を得た。無理をして引っかかってしまってはたまらないので、用心のためにもう少し穴を広げる。そしてリュックを脱ぎ、それを目の前に掲げるようにして、穴を通り抜けた。
水槽内の床は、汚泥がたまっているらしく、どろどろとしていて滑りやすかった。牡牛は苦労しつつテーブルの前までたどり着き、射手の正面に立った。
それはラプンツェル化しているものの、たしかに射手の顔をしていた。髪が伸びていて、その色が白く、肌の色も白く、ただ半ば閉じたまぶたの下の瞳だけが真っ赤な、射手に間違いなかった。
射手と呼んでみたが、彼は人形のように無反応だった。その目は色ガラスのように何も映し出してはおらず、息をしているようにさえ見えない。
牡牛は腕を伸ばし、そっと射手の頬に触れた。光沢を帯びた肌はやはり冷たく、固かった。牡牛はこれが本当に人形なのではないかと思い始めた。だからいささか躊躇しながら、説明をはじめた。
「射手。夜にな、おまえみたいな白いやつが来たんだ。俺の住んでいる展望台に。……俺は山羊といたんだが、そいつに捕まったみたいで、返して欲しければ、おまえを連れて来いと言われた。……正直、俺にはわけがわからない。あれが何者なのか、おまえがなぜ、そんな様子になっているのか。……なあ、俺はおまえをあいつに渡す気は無いぞ。あいつがどう言おうと、絶対に渡さない。おまえの居場所を教えてもらえたのは幸運だった。だから来るべきだと思ったんだが、でもまさかこんな、おかしな状態になってるなんて……」
反応の無い射手はやはり、よく出来た人形としか思えなかった。しかし牡牛はこの場所を教えられ、ここに射手が居るのだと教えられたのだし、だったらこれが射手だとしか思えなかった。
牡牛は辛抱強く、語りかけを続けた。
「この場所と、様子を聞いていたんで、ここまではうまく来れたんだが、実は帰る方法を考えていないんだ。上にあがれば、俺はあの腐った連中に殺されてしまう。しかしここに居たら、おまえといっしょに溺れ死んでしまう。あまり考えている時間も無い。日が沈めば脱出できても、展望台に帰ることができなくなる。……おまえの言葉が必要なんだ。あいつからこの場所の説明を受けたときに思った。そんな狭い通路を、どうやって家具が通過したんだと。実際に来てみて確信した。あの通路から、ここにあるベッドや戸棚を運び入れることは不可能だ。ということは、別の出入り口があるんだ。それを教えてくれ。そこから脱出するしかない」
射手はやはり無反応だったが、牡牛はめげなかった。牡牛は射手の両肩に手を置き、ひたいが触れあうくらいまで顔を近づけ、じぶんの言葉を相手に染みこませようとするかのように、ゆっくりと声を発した。
「俺はずっと一人だった。誰かと会話をしようと思えば、夢の中で話すしかなかった。このまま言葉の使い方さえ忘れてしまうのかと思っていたが、乙女と再会できた。山羊とも。だけどいま乙女は出かけているし、山羊もラプンツェルにさらわれた。……おまえが射手のかたちをした人形だろうと知ったことじゃない。俺はおまえを連れて行くぞ。おまえが射手だったら、友達として、言葉を思い出すまで話しかけてやる。ただの人形だったら、見つけた以上は俺のものだ。持っていく」
言い終えると牡牛は、いったん机を離れて、水槽の外に出た。壁に貼ってあった松明を、少し剥がすようにして斜めに角度をつけ、火をつける。そうして光量を確保すると、水槽内に戻り、射手の座っている机の上にあがった。牡牛がガラスにあけた穴のおかげで、水槽内のほうの水位は下がっており、机の天板は水上に露出していた。牡牛は靴を脱いで中の水を捨てつつ、高い位置からあたりをよく見回した。ガラスは四方の壁だけではなく、天井にも張られていた。崩れつつある天井の圧力で激しくひび割れているが、このガラスは、欠け落ちる、ということにたいして極めて強く出来ているらしい。細かいガラス片がまるで、完成したあとに揺さぶられて、あちこちのピースが浮き上がっているパズルのように、つながりあって天井にくっついている。
射手はどうやってここに入ったのか。射手を中に置いたあと、巨大な水槽をすっぽりと被せたのだろうか。牡牛は考え、そんなやり方よりも、床に出入り口があると考えるほうが現実的だと思った。そしてその出入り口は、ベッドや戸棚を運びこめるほど広いはずだった。牡牛がシェルターに入ってきた通路は、あくまでも緊急避難用なのだろう。
牡牛は視線を下方に向けた。家具の配置を観察すると、便器と対角線上の角にベッドが置かれている。のこり二つの角のうち、一角には棚があり、一角だけには何もない。テーブルは部屋の中央よりも少し棚寄りの位置にある。つまりテーブルの前に、運び込んだものを一旦置くためのスペースを設けてあるのだ。最後の一角の床が答えだ。
牡牛はまた水に入った。目的の場所に移動し、足裏で床の様子をさぐりはじめる。
水底はつるつるとしたコンクリートの感触だった。細かい泥のほかには異物は無かった。注意深く歩き回ってみると、たしかに床には四角形の細い溝があったが、取っ手やノブのようなものは見つからなかった。
電気の仕組みで開くドアなら、停電したときに鍵自体は解除されているはずだ。どうやって開くのか。牡牛は射手をふりかえった。
「ここがドアなんだろう? どうやって開くんだ」
牡牛はもう、答えがないことのほうを期待していた。そして予想通り、射手からの答えは無かった。