ほとんど眠れないまま夜が明けた。牡牛は乙女に向けて手紙を書き、それを目立つ場所に置くと、目的の場所に向けて出発した。
マウンテンバイクにまたがり、展望台のある公園から、北へ北へと走る。道路には、かつて空港へ逃げようとして、果たせなかった者たちの、乗り捨てた車がたくさん止まっていた。だが牡牛が急いだのは、それらへの障害物への恐怖からではなかった。夜までに展望台に帰るには、あまりにも時間が無かったからだ。
道はずっと上り坂だった。最初はゆるやかだったそれは、だんだんと急激なものになり、最後には漕ぐよりも歩く方が早いような有様になった。だが牡牛は、それを予想していた。男に示された場所は、山にある、有名な高級住宅街だったからだ。牡牛は電柱に示された住所を確認しながら移動し、とある表札の前までバイクを押してきて、止めた。
そこは大きな屋敷だった。山の急斜面を削って建てられたその家は、大きな門と、高い石塀と、その上に植わった鉄槍でもって守られていたが、それらが同時にまったくの無意味となっていた。家の背後の斜面が崩落し、土砂崩れが起きたらしく、家の西側が岩石と木々と、上方から流されてきた家の瓦礫でつぶされていたからだ。そこから容易に侵入が可能だった。ということは、誰でも何でも入っていける危険な家ということでもある。
瓦礫の山をそろそろと登り始めると、すぐに上方からパラパラと小石が降りそそいだ。土砂と建築物のバランスはいまだ不安定なものらしいと知り、牡牛は用心しつつ塀の中に侵入した。そして荷物の中から一本の松明を取り出し、火をつける。懐中電灯の明かりは前方にしか利かないので、横方向が危険になるからだ。それに腐ったものは光を嫌い、それを見ると逃げるか、隠れるか、消しに来る。消しにきた場合はむしろ火のほうが武器として役立つのではないか、という判断だった。
ラプンツェルに聞いていたので、牡牛は侵入口をすぐに決めた。正面玄関の前に立ち、片手でドアを大きく開くと、すぐに飛びのく。光が戸口から邸内に差し込み、中の様子を牡牛に見せた。
広いロビーにみっしりと、人が立っていた。もともとはこの家の使用人だったらしい中年の男女は、身じろぎもせず、ただ立ち尽くして眠っているようだった。やがてドア近くに居て、光を浴びたものが動き出した。呻き声をあげつつ、手で光を受けた箇所をかばい、奥へと移動し始める。その動きが、べつの一人に伝播し、動きは次々と伝わり、彼らは朝の電車ホームのように、一方向にスシ詰めになりはじめた。
牡牛は発狂しそうな恐怖を感じていたが、勇気を振り絞り、眠れぬ夜に立てていた計画の通りに動いた。リュックから瓶を取り出す。洋酒を詰めた瓶には、ボロ布で栓がしてあり、簡易で高価な火炎瓶と化していた。それに松明の火をつけ、投擲する。数個を投擲して火を立たせて、広間に炎のラインをこしらえた。腐ったものたちはいま、逃げようとしているが、気を変えて炎を消そうとするかもしれない。どちらにしろ、牡牛は時間を稼げるのである。
そうして彼らが自分に近寄らないようにしてから、牡牛はドアの内側に入り、東側へと移動した。壁のカーテンを開くと、小さなドアがあった。ドアには簡易なナンバー鍵がかかっていたが、牡牛はその解除法を夜じゅうかけて練習していた。素早く鍵をとき、ドアを開くことができた。急いでドアの内側に滑り込む。
そこは半地下の構造になっていて、どうやら物置のようだった。掃除用具や、様々な工具、壊れたらしいパソコン筐体などがある。それらを見て、牡牛は、山羊が喜びそうなガラクタだなと考えた。
松明を奥に向けると、戸棚が見えた。牡牛はそこに近寄ると、戸棚の左右を見比べて、床のホコリの積もり具合を確認した。左側のホコリが少なかったので、牡牛は戸棚の右側に立つと、戸棚を反対側に向けて押した。抵抗無く、戸棚は動いた。あらわれた壁には人一人が通れるくらいの穴があいていて、中には地下への階段が見えた。
牡牛は楽しいとは思わなかった。ミステリを楽しむ人間は、ミステリを読む人間だけで、絶対安全な場所から仮想の危険を楽しんでいるだけなのだ。登場人物はただ必死なだけだ。――牡牛はそういった思考でもって、自分の中の気後れを慰めると、地下へと降りていった。
階段はしばらく下り、突き当りにはまたドアがあった。今度は番号入力式の鍵がついていたが、停電のせいか解除されていた。牡牛はドアをスライドさせた。
ドアの向こうには、広い空間が広がっていた。だだっ広い空間は四方をコンクリートの壁で覆われていたが、コンクリにはひびが入り、木の根が生え、地下水が染み出していた。天井は一部に穴があき、そこから光が差し込んでいた。部屋の真ん中には大きな水槽があった。水槽は7、8メートル四方ほどの広さで、その透明なガラス壁は、床から天井までにぴっちりとはめ込んであった。しかし色は緑がかり、汚れていて、あちこちに傷やひび割れが入っている。
水槽の中には、ラプンツェルが居た。白い顔と白い髪は、牡牛が夜に見たものと同じだった。しかしこのラプンツェルはずいぶんと弱弱しかった。彼は裸で、髪も男にしては長いというくらいで、単なるアルビノの人間のようにも見えた。夜に展望台で見た者のような、異様な不可思議さが感じられなかった。
牡牛は水浸しの地下室に足を入れた。水の中のスロープを降りつつ、深さを心配したが、足は膝まで沈んだところで水平な床を踏んだ。牡牛は部屋を横切ってガラス壁に近寄り、ラプンツェルを呼んだ。
「射手。聞こえるか? 射手」
しかしガラスの向こうには声が伝わらないだろうと考え、牡牛は透明な壁を叩いた。ラプンツェルと化した射手はまったくの無反応だった。
牡牛は水槽の中の様子をよくよく確認した。テーブルと椅子、戸棚とベッド、洋式便器、小さな冷蔵庫らしきもの、それらすべてが床に固定されているようだった。なぜそれがわかるかというと、水槽内は天井から落ちる水滴が溜まって、まさしく「水槽」と化しつつあり、水面には紙や何やらが浮いていたが、家具類はすべて浮いてなかったからだ。
射手はテーブルの上に座っていたが、その彼の胸のあたりまで、水はもう満ちていた。昨夜のラプンツェルの言ったとおり、時間は無いのだ。牡牛が来るのがあと数日遅ければ、射手は溺死していただろう。
牡牛はリュックから空き缶とテープを取り出すと、空き缶をかぶせて松明を消し、テープでガラス壁に固定した。続いてスコップを取り出し、両手でしっかりと握り締めた。
剣先をガラスに叩きつける。ガラスには小さなひびが入っただけで、割れる気配も無かった。特殊な強化ガラスででもあるらしいと、牡牛はこれも夜に会ったラプンツェルに聞いていたので、諦めずにガラスを叩いた。殴打の音は地下室の壁に反響して耳に痛いほど響いたが、牡牛はその音を無視して、ただひたすらに作業を続けた。何十分か経ったあと、やっと親指ほどの穴があき、そこから水槽内の水が排出されはじめた。
しかしガラスを叩いていても無反応だった射手は、今もまったく無反応だった。牡牛は、水槽内の水が外に出て、地下室の水位を上げることを予感した。頭の中で立方体内の水に関する理科の問題を解きつつ、自分が溺れることは無いが、足元を深い水に取られて作業がやりにくくなるだろうという答えを出した。牡牛はまた急いでスコップを振り上げ、水槽の穴を広げ始めた。
穴を上方に広げていって、排出される水の量が増し、やがて水槽内の水位が下がって、穴の向こうに空気の空間が見え始めた。牡牛は穴に口を近づけて射手を呼んだ。しかし射手はやはり、反応しなかった。