星座で801ログ保管庫出張所

地球最後の…20

 月光が、鉄階段を白く照らしていた。風が髪のあいだや耳のそばを吹き抜け、牡牛の皮膚をくすぐった。チチ、チチと虫の無く音が聞こえる。畑を歩き回り、牡牛の食べ物を盗んでいたらしい小動物が、草の音を鳴らして逃げていった。
 久しぶりの夜の世界を、牡牛は不思議な感覚で見つめた。怖いと思うと同時に、なぜか懐かしいと感じた。月がこんなにも明るいものだということを、牡牛は知らなかった。夜風がこんなにも優しげなものだということも、牡牛は忘れていた。木々や草の姿も、階段の段差も、はっきりと見えた。夜の澄んだ空気をまとった姿で。
 牡牛は足音を殺しながら階段を降り、大地に立つと、あたりを見回した。少なくとも懐中電灯の明かりが届く範囲には、山羊の姿は無かった。展望台を柱にそって一周しつつ、山羊を探す。極めて謙虚な声で、そっと名を呼んだ。答えは無く、ただ風が吹いた。
 手のひらの汗を衣服で拭い、牡牛は迷った。この危険な世界をどこまで探索すべきか。本音を言えば展望室に逃げ帰って、扉に鎖を巻いて閉じこもってしまいたいのだ。しかしそれをすれば、山羊は二度と、牡牛の元には戻って来ないだろう。
 牡牛は、やや大きな声で、山羊を呼んだ。
 少し待ち、返事が無いのを確認してから、さらに大きな声を出そうと息を吸う。
 その口を、背後から伸びてきた手に、そっと塞がれた。
 とっさに牡牛は振り返ろうとした。しかし脇下から差し込まれてきた手が、牡牛の胸と肩を押さえ、体を固定した。
 動けず焦る牡牛の耳に、小さな笑い声が響いた。牡牛の背後の人物は、柔らかな声でこう囁いた。
「だからおまえは特別だと言ったんだ」
 夜の世界への怖さと、懐かしさが、なぜか急に強くなった。誰か。誰だ。必死に考えても分からず、混乱だけを深める牡牛に、背後の声はまた囁いた。
「慌てないで。大声は、あぶない」
 それで牡牛は反射的な抵抗をいっさい止めた。力を抜き、相手の反応を待つ。牡牛の中に恐怖はあったが、相手の声音に敵意は感じられなかった。それが牡牛を冷静にさせた。
 声はこう問うてきた。
「叫ばないと約束できる?」
 牡牛は、うなずいた。
 しかし手は離れず、声の主は牡牛を固定したまま、楽しそうに喋り続けた。
「畑を見たよ。ふつうに生きてたんだな。ごく普通に、人間らしく」
「……」
「俺にはわかっていた。おまえがそうするだろうってことは。世界から、おまえ以外の人間が誰も居なくなって、たったひとりになっても、おまえはおまえであり続けるんだろう。……俺にはわかっていたよ」
 牡牛はなにか言いたかったので、言葉を発した。声は相手の手のひらに止められたが、そのくぐもった響きにやっと、相手は牡牛の口を解放した。しかし体は固定されたままだった。動けないまま、牡牛はまず、当然のことを尋ねた。
「誰なんだ」
「誰でもない」
「俺を知っているのか?」
「知っている」
「誰だ……。声に聞き覚えがある気がする」
「山羊を想像したなら不正解。我々は別の存在」
 その言葉で、背後の人物が、山羊の存在を知っているのがわかった。牡牛は思わず叫んだ。
「山羊はどこだ!」
 すると牡牛の口は、また塞がれた。
「大声は危険」
 しかし牡牛は今度こそ、精一杯の力をこめて暴れた。体をよじり、相手のふたつの手首をつかんで、渾身の力でもって引き剥がそうとした。
 そして気づいた。牡牛が掴んだ剥き出しの腕は、異常に冷たかったのだ。冷たく固く、細く白く、まるで氷を握り締めたようだった。思わずひるんだせいで、牡牛は力負けし、背後からおもいきり抱きしめられるかたちになった。
「いい子だから、動かないでくれ」
 どこか、うっとりとしているような響きを持つ声だった。
 牡牛は息を吐いた。混乱する己自身を静めるために、長くゆっくりと呼吸をした。吸って、吐き、落ち着きを取り戻すと、小声で低く、しかし力を込めた声で、背後の人物に問うた。
「誰だ。いや……、なんなんだ?」
 人形に抱かれているような、不気味な気分だった。そんな牡牛の心を察したのか、背後の、人間か、氷か、それとも何だかよくわからないものは、冷たく言った。
「姿を見る必要は無い。顔を見る必要は無い。我々は誰でもない。山羊は我々の監視下にある。次の質問は?」
「なぜだ。山羊をどうする気なんだ」
「牡牛次第。――じゃあ次は、俺の質問。素直に答えて。嘘は駄目。山羊に無事でいてほしいなら」
 牡牛は久しぶりに、他人への反感を感じた。敵意、害意、悪意、懐かしい負の感情が体の中を駆け巡った。拳を握り締めて、牡牛はただ、首を縦に振った。
 声の主は牡牛を慰めるように、指先で牡牛の胸を軽く掻いた。
「質問。一人は、寂しかった?」
 交換条件としての物資の量とか、そういった問いを予想していた牡牛は、虚を突かれた気分になった。不審に思いつつ、牡牛は答えた。
「あたりまえだ」
「誰かに会いたいと思った?」
「ああ」
「山羊に会えて嬉しかった?」
「ああ」
「山羊が大事?」
「おまえは当たり前のことばかり聞く」
「死にたいと思ったことは?」
 そこで初めて、牡牛は、少し考えた。
「よくわからない」
「ちゃんと答えて」
「……死にそうだと思ったり、いっそ死んでしまいたいと思ったことはある。でも、死にたいというのとは、少し違うと思う」
 背後の人物は、納得したようだった。しばらくの沈黙があった。
「俺もね、一人は寂しかったよ。おまえに会いたかった。やっと会えて嬉しい。おまえのことがとでも大事で、だから腹立たしい」
 牡牛は、眉をひそめた。
「なにを言ってる」
「我々は、牡牛に仕事を依頼する」
 それから彼はある場所と、そこへ到達する手順と、山羊と引き換えるものの正体を告げた。牡牛は驚いた。
「それは……」
「時間が無い。夜明けと同時に出発することを勧める」
 牡牛は焦った。牡牛としては、その条件を飲むことは、中味を知った今では、そう不本意なことではなかった。しかしタイミングが悪かった。
「待ってくれ。俺は今、人を待ってるんだ。俺の友達が、今日中に来る筈なんだ」
「誰」
 牡牛は迷った。その人物の名前を告げるべきか。
 しかし躊躇をさえぎるように、声は言った。
「我々はその人物がどんな名称を持とうとも、それにより仕事が遅延することを望ましく無いと考える。夜明けと同時に出発することを勧める」
「しかし」
 牡牛は気づいた。背後の声の調子は、ころころと変わるのだ。自分を『俺』と呼ぶときの調子と、自分を『我々』と呼ぶときの調子が、まったく違う。
 今回は『我々』の調子で、彼は語り続けた。
「牡牛は選ばなければならない。山羊か、それともその、我々の確認していない友達か。あるいは山羊とその友達の、両方を見捨てるという手もある。牡牛は一人に戻り、また別の人間との出会いを待つ」
「……」
「この手の選択は、この先、いくらでも出てくる。これが最初だ」
 だが牡牛は、示された答えのどれをも選ぶ気にはなれなかった。だから考えた。その用件を、今日の昼じゅうに済ませて、日が沈むまでに展望台に帰ってこれればと。そうすれば、男の願いをかなえて、山羊を取り戻し、乙女の来訪を待つこともできる。牡牛は誰も、なにも捨てる気は無かった。
 牡牛は頷いた。
「こっちも条件がある。ていうか、お願いだ。おまえの顔が見たい」
 答えは即座に来た。
「それも駄目」
「顔も見せない人間なんて信用できない。見せてくれないなら、俺は行かない」
「では、山羊は?」
「取り返す」
「どうやって」
「知らん。取り返すと言ったら取り返す」
「おまえはたぶん、リターンの期待できないリスクは負わない。そういった行動は取れない」
 やはり自分を知っている人間なのではないかと牡牛は思った。
 もしそうなら、牡牛の性格も知っている筈だった。牡牛は、そこに賭けた。
「俺がこの世でいちばん嫌いなことは、泥棒にものを取られることだ」
「……」
「泥棒の言うことなんか信用できない。山羊を返せ。返してくれたら信用する。返してくれないなら、おまえなんか信用しない。おまえの欲しがってるものは探してやる。でも見つけたら俺のものだ。おまえにはやらない」
 牡牛としては、滅茶苦茶なことを言っているつもりでもあり、本音を言っているつもりでもあった。嘘が真実を兼ねることもあるのだ。
 山羊を盗みながら、大切なものを盗まれつつある立場に立たされた背後の人物は、
「それと山羊を交換すれば、すべては丸く収まるのに」
 と、ごく普通の意見を述べた。これは『俺』の口調だった。
 牡牛は答えた。
「いやだ。断る」
 筋を通したいとかいうよりも、ただの意地に近かった。いやだと言ってしまった以上、牡牛はぜったいに、その線をゆずる気は無かった。
 声は、笑った。
「ほとんどのことに鷹揚で、決めたことに頑固。おまえらしい」
 牡牛の拘束はふいに解けた。
 牡牛は、しばらくじっとしていた。相手の返答を待つためだったが、いつまでも声がかからないので、ゆっくりと振り返った。
 そして、ラプンツェルの童話を思いだした。
 それは塔に閉じ込められた姫君の物語だった。ラプンツェルは、両親が禁じられた野菜を食べた罪で、魔女にさらわれるのだ。そして出入り口の無い塔のてっぺんに閉じ込められてしまう。彼女は長い髪を窓から垂らしている。魔女は彼女の髪をはしごにして、窓から塔に出入りする……。
 鉄階段の中ほどにラプンツェルは座っていた。明るい月明かりの下、彼の長い長い髪が、川のように階段の段差を流れていた。彼の衣服は白く、剥き出しの肩や手足も白く、髪も白かった。雪か、ミルクのような、そんな白さでありつつ、それらは冷たい光沢を持っていた。
 美しい、まるで妖精のようなその人物は、あたかも人間ではないかのようだったし、また目で見ていても、その実在が信じられなかった。
 ラプンツェルは、答えをまったく期待していない口調で問いを発した。
「俺が誰だかわかる?」
 牡牛の知り合いに、真っ白で、髪が身長より長くて、白いスカートをはいた男など存在しなかった。
 無言でいる牡牛に、ラプンツェルはささやいた。
「お願いとやらは聞いた。次は牡牛の番……」
 すっとラプンツェルは立ち上がり、そのまま飛んだ。
 牡牛の頭上を越えて、ラプンツェルは木立の方に着地したようだった。ばさっと枝が鳴る音が聞こえた。
 取り残されて、牡牛は呆然としながら、しばらくラプンツェルの去った方向と、ラプンツェルの座っていた階段を見比べていた。
 この非現実的な出来事に酔わされた状態にありながら、牡牛の中ではなぜか、生々しいほどの懐かしさが消えないのだった。