山羊が来てから四日目の朝、牡牛はいつものように混乱した山羊に起こされたあと、山羊に掃除をしてもらいながらコーヒーをいれた。山羊の質問に答えつつ、山羊をなぐさめながらコーヒーを飲む。そのパターンはもう固定されたものだった。そうして繰り返していくことでしか、山羊は新しい記憶を持つことができない。
牡牛は悩んだ。あしたまでに乙女が来なければ、あさって、牡牛は乙女を探しに行かなければならない。しかしこんな状態の山羊を置いていくことは不安だった。山羊は誰かの(今は牡牛の)手助けがなければ、一人で生きていくことはできない。だから連れていくしかないのだが、それではせっかく山羊の中に出来上がりつつあるパターンと記憶を、危険な外出によって壊してしまうことになる。
山羊のためにいちばん良いのは、この生活パターンをずっと続けさせることだった。そして今夜か、明日の夜に、乙女がやって来れば、牡牛の世界は変わる。ずっと欲しかった他人を、いっきに二人も手に入れることができる。
すべては乙女しだいなのだった。そして、どちらかを見捨てるという選択肢は、牡牛には無かった。
畑の世話をしながら、牡牛は山羊に尋ねた。
「そういえば、ナンバー鍵、どうやってあけたんだ?」
ダンゴムシを手にして、それが害虫なのかどうかで悩んでいたらしい山羊は、ぼんやりと顔をあげた。
「ナンバー鍵?」
「ナンバー鍵。物置の」
「……」
「あけてたんだ、お前が。物置の中味を見たかったからだ。こういう世界で、盗みはいけないもくそも無いぞ。必要だからそうしたんだ」
「そ、そうだな」
「あとで教えてくれるって言ってただろう、鍵の開けかた」
嘘と本当を巧みに織り交ぜたおかげで、山羊はあっさりと、開錠の方法を教えてくれた。実に単純な方法だった。
そうして午後からは台車と自転車を押してまた住宅街に向かい、昨日見つけた家に侵入して、乙女のぶんの食器や布団を盗んだ。この泥棒のような、採集のような作業は、山羊のおかげでずいぶん楽になっていた。短い時間ならば山羊に留守番をさせられるので、牡牛はそのあいだに『物件』を探しに行くことができたし、多少危険な、暗い場所の多そうな家であっても、山羊をつれて行けば見張りをさせることができた。なにかあれば二人でいっしょに戦えば、生存率は格段に上がりそうだった。そして単純に、一人よりも二人の方が、多くのものを運べた。
それに山羊という他人は、牡牛とは異なる知識や感覚を持つので、牡牛の思いつかなかった様々な工夫が出来た。ナンバー鍵を開くのもそうだったし、柵作りの方法もそうだった。山羊は手先が器用で、ガラクタを工夫するのがうまかった。竹を縛るロープが足りなくなると、ビニール紐を編んでこしらえていた。切ったり削ったりという作業がやりにくくなると、ゴミの中から、使用済みの丸めたアルミホイルを取り出し、刃物にこすりつけて錆を落とし、刃先を研いでいた。
農作業、住宅への採集、柵と堀作り、そのみっつの作業を終えて、二人は川で体を洗い、展望台に戻った。食事を取り、床につく。
布団を三組、手に入れてしまったので、同じ床で眠る理由は無くなってしまった。牡牛は寂しく思ったが、仕方が無いので別の布団に寝た。
しかしランプを消してしばらくしても、山羊は何度も寝返りをうっていた。また外の音が気になるのかと思い、声をかけると、山羊は意外なことを言った。
「その……、俺は、きのうも、こうやって寝てたかな」
「こうやって、とは」
「違和感を感じるんだ。なんでだろう。寒いような、物足りないような」
牡牛はまさかと思いつつ、布団を抜け出し、山羊の布団に潜り込んだ。暗闇で驚いているらしい山羊に、体をぴったりと寄せて、背中を抱いてやる。
山羊は納得したような、その納得が不満なような、つまり実に素直な反応を見せた。
牡牛は知った。牡牛といっしょに床に入る、というのも、山羊の中に習慣として記憶されているのだと。
「これでいいか」
「やはり、こうだったのか? 毎日」
「うん、まあ」
「な、なんでだろう。いや、おまえが嘘を言っていないことは分かるんだが」
山羊が外の音を怖がったからだ、というのが理由だが、それでは山羊は自分を情けなく思うだろうし、また少し嘘をついていることにもなる。牡牛も外は怖いのだし、だからくっついて眠れることが有り難かったのだ。だからこう答えた。
「俺が寂しかったから」
「牡牛が?」
「うん」
「牡牛って寂しがりなのか、意外だな」
「うん」
「大丈夫だ牡牛。大丈夫だぞ」
牡牛の背中をぽんぽんと叩いてくる。そして山羊はそれきり、大人しくなった。
順調に眠りに落ちつつある山羊を感じながら、牡牛は思った。布団がひと組余るなと。だが、それを勿体無いとは思わなかった。
山羊は寝相が良かった。くっついて寝ていても、あまり頻繁に起こされることは無かった。だから気づかなかったのだ。深夜、牡牛がふと目をさますと、腕の中は空で、山羊の姿が無かった。
途端に、がっと身を襲う不安をねじ伏せ、牡牛は慎重に動いた。ランプを引き寄せ、明かりをつける。光の届く範囲に山羊の姿は無い。そっと名を呼んでみるが、返事が無い。ランプを持って鉄扉まで移動した。ドアを見ると、鍵のかわりの鎖がほどかれていた。
夜の危険、闇の危険を、山羊は知っているはずだった。最後に手帳を読んでからまだ半日経っていないからだ。しかし山羊の中にある腐ったものの記憶は一日ぶんだった。恐怖をあまり切実なものとして感じていなかったのかもしれない。トイレにでも出たのかもしれない。
牡牛は懐中電灯を持ってくると、それをテープでスコップの柄に巻きつけた。ランプを消し、かわりに懐中電灯をつける。そして鉄扉の前に立つと、覚悟を決め、そっとドアを開く。
牡牛の中にも恐怖はあったが、その恐怖は二種類のものだった。ひとつは夜の世界の住人に対する恐怖で、もうひとつは、山羊を失うかもしれないという恐怖だった。