星座で801ログ保管庫出張所

地球最後の…18

 山羊が来てから3日目の朝、牡牛はやはり山羊に起こされたのだが、少しだけパターンが変わっていたのだった。
「牡牛、牡牛! 手帳に書いてあることは本当なのか!?」
 牡牛を起こす前に、手帳を読んだらしい。山羊は新しいことを記憶できないが、毎日繰り返していることは覚えることが出来る。つまり『朝起きたら手帳を読む』という行為が、山羊の中に『習慣』として記憶されているということだ。
 牡牛がコーヒーをわかしているあいだに、山羊は布団をたたみ、掃除をしていた。余った時間でゆっくりとコーヒーを飲みながら、牡牛は考えた。山羊の体の傷について。
 山羊は自分が傷つけられたことを覚えていない。その出来事は、山羊が卒業式の日、記憶に障害を負って以降の出来事だからだ。いったい山羊の身に何があったのか。
 考えられるのは、天秤の仕業ではないか、ということだった。
 山羊の手帳の文面は、山羊によって書かれたものではない。『あなた』という呼びかけになっているからだ。もし山羊が自分で書いたものならば、人称は『わたし』とか『おれ』になっていただろう。ということは、記憶を失う直前まで山羊と一緒にいたという天秤が、山羊が障害を負って以降、山羊のために書いてやったという可能性が高い。
 しかしと、牡牛は思う。天秤がずっと山羊と一緒にいたのなら、なぜそんなことをするのか。天秤はそういうタイプの人間だっただろうか。
 考えてもわからないので、牡牛は尋ねた。
「山羊。好きなやつはいたか?」
 山羊は、戸惑っていた。

「学校に……か?」
「うん」
「い、いたような、いないような」
「天秤か?」
 山羊はコーヒーをこぼしていた。熱さにうろたえつつ、怒りだした。
「なんでそこで天秤が出て来るんだ! クラスの女子とか、そういう話じゃないのか」
「クラスの女子だったのか」
 みずから想い人の正体をばらしてしまう結果になり、山羊は顔を赤くしていた。
 しかし牡牛は、別のことを考えていた。
「そのクラスの女子と、つきあっていたりしたのか」
 山羊は少し、寂しげな様子になった。
「あまり話したこともなかったし……、気持ちを打ち明ける勇気が無かった。卒業して、ゆいいつ後悔していることが、それなんだ」
「天秤ともつきあっていなかったんだな」
「だからなんで天秤なんだ! 俺にはそういう性癖は無いんだ」
「天秤の性癖って、誰かを叩いて喜ぶような、そういうたぐいのものだったのかな」
 山羊は、深々と溜息をついた。
「牡牛。おまえは、遠まわしにさり気なくものを言っているつもりかもしれないが、中途半端にストレートなんだ。要するにおまえは、俺と最後まで一緒に居た天秤が、ホモセクシャルだったんじゃないかと疑ってるんだな?」
「というか、おまえをいじめていたんじゃないかと」
「俺が天秤といっしょに逃げていたのは、別に深い理由があったわけじゃない。たまたま目的地が一緒だったんだ。ここから西に駅があるだろう。俺は駅に両親を待たせてて、天秤は駅に女友達を待たせてた。だから逃げるというか、会いに行く方向が、一緒になっただけのことだ」
「女友達」
「と、天秤は言っていたが、彼女じゃないのか。卒業式の日に会うんだし」
 牡牛は天秤について、ひとつのエピソードを思い出していた。



 高校生活最後の文化祭で、3年1組は喫茶店をひらいた。そしてありがちなノリで、男たちは全員、女装をすることになったのだ。牡牛の装いの出来栄えは、見ている鏡を殴りたくなるようなものだったし、他もほとんど似たようなものだったが、数人ほど、洒落にならない仕上がりになった男が居た。
 その一人が天秤だった。自然で、少し背が高すぎる以外は、たしかにこういう女の子は居るな、と思わせる姿になっていたのだ。その天秤が牡牛を見て、やはり自然に笑いながら、
「やっぱり牡牛は、男らしすぎるんだよね」
 と、牡牛の微妙な気持ちをほぐしてくれるセリフを言ってくれたのだった。
 牡牛はしかし、こういう祭りの状況を楽しんでもいたので、
「天秤は可愛いな。指名してもいいか?」
 と冗談を言ってやった。
 すると天秤は、すっと牡牛に顔を寄せてきて、耳元にこう囁いた。
「というか、牡牛、あとで女の子に指名されてやって。……いや、彼女は内気だから、指名なんてできないだろうから、牡牛が自分で行って、あの子の隣りに座ってやってよ」
「あの子って誰だ」
 天秤は、とある女子の名前を言った。
 その女子は、隣りのクラスの登校拒否児だった。内気で目立たない生徒らしく、ただ登校拒否をしているという事実でもって、名前だけを有名にしているような生徒だった。牡牛は驚いた。
「来てるのか? その子」
「僕が呼び出したんだよ。あとでここに連れてくる」
 誰もふだんは存在さえ忘れている、しかも別のクラスの生徒を、なぜ天秤が呼び出せたのか。いつの間にそういう仲になっていたのか。牡牛は不思議だった。しかし同時に、天秤なら、そういう内気な子とも仲良くなれるんだろうな、とも思ったのだった。
 その後、天秤が、問題の生徒を連れてきた。牡牛はその子にジュースを注ぎに行き、また蠍や魚といった『きれいどころ』も彼女についた。その子はあまり喋らなかったが、牡牛を見てよく笑っていた。



 牡牛が取り出した集合写真を見ながら、山羊は深くうなずいていた。
「そんなこともあった。優しいな、天秤は」
「うん」
「そういう天秤について、おまえいったい何を考えているんだ。俺を叩いて喜ぶホモだと」
「おまえのからだに、へんな傷があるからだ」
 こうなれば隠しても仕方が無いので、牡牛は正直に、自分の危惧について説明した。
 山羊は自分のシャツをめくりあげて、背中の傷を確認し、首をかしげていた。
「本当だ。なんでこんな傷があるんだろう」
「腐ったやつ……、おまえの言うゾンビに、襲われた傷には見えないんだが」
「……わからない。覚えていない。俺にとってはその文化祭のことだって、すぐまえの学期の出来事なんだ。でも本当は、もう昔なんだろう」
「ああ」
「天秤とは思えないんだが。でもはぐれてしまったし。ずっと一緒に居て、途中であいつの性格が変わったんだろうか」
「そうかもしれないし、そうではないのかもしれない」
「わからない。思い出してやりたいが。……わからない」
 また、思い出せて幸せになれるとも限らないのだ。むしろ、忘れていた方が幸せなのかもしれないのだ。
 牡牛はもう二度と、この話をしないことに決めた。こちらから話題を持ち出しさえしなければ、山羊は半日後には忘れてしまうだろう。