次の日の朝、牡牛は、山羊に起こされた。
「牡牛! 牡牛! しっかりしてくれ!」
牡牛は驚いて目を覚まし、山羊に尋ねた。
「どうしたんだ」
「こっちのセリフだ。いったいどうしたんだおまえ」
牡牛は窓を見た。カーテンの一部がめくれて、朝日が差し込み、山羊と牡牛を照らしていた。
山羊は、非常に慌てていた。
「ここはどこだ。おまえはなんでそんな様子なんだ。天秤はどうした。おまえが俺を助けてくれたのか? あのゾンビの群れから」
牡牛はひとこと「手帳を読め」と命じて、コーヒーを沸かしにかかった。
やがてコーヒーが出来上がるころ、手帳を読み終えた山羊は放心していた。牡牛は山羊にコーヒーを与え、手帳に書いていないことを説明した。山羊が記憶に障害を持ってから、一年以上の月日が経っていること。山羊はどこかで乙女と出会ったらしいこと。乙女が山羊をこの展望台によこしたこと。
「俺もいろいろあったんだが、まあなんとか生きてる」
「……まったく覚えていない。俺はきのう、乙女に会ったのか」
「うん」
「俺には記憶が無いのか。もうずっとこんな世界なのか。ああ、それで、牡牛が老けてるのか。そうなんだ」
牡牛は「おまえも老けてるぞ」と言った。
そのあと牡牛が掃除をはじめると、山羊が手伝った。掃除を終えると、二人で外に出て、二人で畑の世話をした。昼までに世話を終え、牡牛は山羊を、作りかけの柵のそばに連れて行った。これらを作り上げたいのだがうまくいかないと言うと、山羊はこう答えた。
「柵よりも、堀をこしらえたほうが早いんじゃないか。穴を掘るだけですむから。堀が出来たら、そのふちに柵を作る。これで防御は完ぺきになる」
牡牛はなるほどと納得した。やはり自分ひとりの知恵だけではうまくいかないことでも、他人が居れば違う。
牡牛は穴掘りを山羊に任せて、住宅街に下りていった。安全そうな家屋を探していると、おあつらえ向きに、一戸の平屋が見つかった。牡牛はよくよくその家を観察し、明日、押し入ることを決めて、展望台に戻った。
展望台に戻ると、掘ったばかりの穴のふちで、山羊が休んでいた。牡牛は山羊を川に連れて行き、体を洗わせた。髭も剃ってやり、新しい服を与えて、まっとうな様子にさせた。
牡牛も体を洗ったのだが、服を脱いだ彼を見て、山羊は驚いていた。
「傷だらけじゃないか」
牡牛は、笑った。
「こんな世界だからな」
「いったいどんな暮らしを送ってきたんだ」
「べつに。ふつうにしてただけだ」
しかし山羊をよく見ると、山羊の方も傷だらけなのだった。牡牛ほど大げさな傷は無いが、山羊も苦労してきたのだろうなと牡牛は思った。
汗を洗い流すと、展望台に戻った。
そして牡牛は窓をふさぎ、食事をこしらえ、山羊と食べた。
食べ終わるころ、山羊がこう尋ねてきた。
「その……、へんなことを聞くが。牡牛はなんで老けてるんだ? ここはどこだ。天秤はどうした」
牡牛は今朝と同じことを説明した。説明が終わると、山羊から手帳をもらい、そこに今言った説明を書き加えた。
山羊はあらたな文章が加わった手帳を、何度も繰り返し読みながら、悲しそうな顔をした。
やがて牡牛は布団を敷いて、山羊にこう言った。
「敷布団がひとつしかないから、悪いが一緒に寝てくれ」
だが昨夜は、毛布を敷布にして、ふたつめの寝床をこしらえ、山羊はそちらに寝ていたのだ。しかしそのことを、山羊はもう忘れている。
ひとつの狭い寝床に二人で横たわると、山羊は最初、外の物音を気にしていた。しかし牡牛の体温に安堵したのか、すぐに寝息をたてはじめた。
次の日の朝、牡牛は、山羊に起こされた。
「牡牛! 牡牛! しっかりしてくれ!」
牡牛は、良い目覚ましができたなと考えた。起き上がると、慌てふためいている山羊に、手帳を読めと命じる。そして自分はコーヒーをこしらえ始めた。出来上がると、落ち込んで暗くなっている山羊に飲ませ、一緒に掃除をした。それから外に出て、一緒に畑の世話をした。牡牛の目から見て、山羊の作業は、昨日よりも早くなっているような気がした。仕事はえらく早く片付いた。
牡牛は山羊を伴って、きのう目をつけていた住宅に向かった。侵入のために塀を乗り越えたり、ガラスを割ったりといった作業をしたのだが、山羊は牡牛の手馴れっぷりに驚いていた。牡牛と山羊はその家の明るい部屋で、目ぼしいものを物色した。棚に洋酒が沢山あったので、適当に選んで奪った。台所にも入れたので、食べられるものを片端から集めた。
山羊の方は、庭の物置に興味を持っていた。ナンバー鍵がかかっていたのだが、山羊はどうやってか、鍵をガチャガチャといじって開いてしまった。牡牛は驚いた。方法を尋ねると、山羊は首を横に振った。
「俺はたまたま知ってるけど、教えない方がいいだろう」
モラルが意味を成す状況では無いのだが、真面目な山羊らしいなと牡牛は思った。
山羊は物置の中から、工具やロープといった役に立ちそうなものと、折れた傘や石油ポンプといった、なにに役立てるつもりなのかよくわからないものを取り出していた。しかし最後に取り出した台車はすぐに役に立った。手に入れた品物を台車に載せて、牡牛と山羊は帰宅した。
荷物を展望台に運んだあとは、牡牛は堀の穴を掘った。山羊は石垣に積んであった大きな石をハンマーにして、竹を穴のふちに打ち込んでいた。作業のあと、二人で川に行って体を洗った。
牡牛は山羊の体を見ながら、きのうは気づかなかったあることを気にしていた。それは山羊の体の傷についてのことだった。どれも小さな傷だったが、それらは明らかに人工的な傷だった。まっすぐで、縦横斜めすべての方向に走った傷があり、中には星型の傷もあった。それはつまり、なにか固くて細い物でぶたれたり、煙草を押し付けられたりした傷だった。
家で食事をしながら、牡牛は山羊に尋ねた。
「おまえ、昔、いじめられていたりしたか?」
山羊は、きょとんとした。
「誰に?」
「誰かに。学校で、とか」
「いや。牡牛は、いじめられていたのか?」
「俺のことじゃない。……山羊。おまえ、親に虐待されていたか?」
山羊は、眉をしかめていた。
「いったい何の話だ。俺の親は忙しい人だし、友達には変なやつが多いが、いじめられた覚えは無い」
嘘をついている様子は無い。ということは、山羊のからだの傷は、山羊が記憶に障害を負ってからつけられたものなのだろう。しかし傷について山羊に尋ねても、無駄なのはわかっていた。
山羊はそうめんをすすりながら、気分を害した様子で言った。
「俺はたぶん大人しい方だとは思うし、不本意なことをされても我慢をするタイプだとは思う。けど親は尊敬できる人だと思うし、厳しいところもあるけど、それがいじめだとは思わない」
「うん。そういう意味じゃなかったんだ」
「友達も。おまえを含めてだが。へんなやつが多かったし、へんなこともよくされた。だけどあれがいじめだとは思わない」
「わかってる」
山羊の中では、両親や友達の記憶が、まだ生々しい昨日のことのように刻まれているのだった。うらやましいなと、牡牛は思った。
山羊はまだ、納得できないような、不快げな様子だった。
「だいたいおまえ……。俺も変なことを聞くが、牡牛」
「うん」
「おまえ、なんで突然、そんなに老けてるんだ」
その問いを、牡牛は予想していた。だからただ、手帳を読めと答えた。