五日目の朝、目覚めた瞬間から、牡牛の神経は極めて張り詰めていて、気力が充実していた。牡牛は朝のスケジュールを猛烈な勢いでこなすと、住宅街に下りて行き、とある家屋の庭に侵入した。その家には、一階には、あまり安全そうな部屋が無かった。窓にはすべてカーテンがかかっていたし、玄関ドアには鍵がかかっておらず、除き窓から中をのぞくと薄暗かった。つまり誰でも、「なにか」でも自由に入れる家だった。
だから牡牛の目的は一階ではなかった。牡牛はスコップの柄に紐をまきつけ、外の雨どいの前に立つと、雨どいにスコップを立てかけ、それを踏み台にして屋根に上がった。続いて持っていた紐の端をたぐりよせて、手元にスコップを引き上げた。そうして二階の窓ガラスに接近すると、中をのぞいた。二階の窓にはカーテンがかかっておらず、中の様子は丸見えだったのだ。思ったとおり、そこは寝室だった。東向きの大きな窓から差し込む光は、中のベッドや箪笥や文机といった家具をすべて照らしてくれた。
牡牛は窓をやぶり、中に侵入した。布団や枕や毛布を取り、紐でまとめた。箪笥の中には季節に合わない服と、牡牛には小さすぎるスーツなどがかけられていたが、乙女のためにそれを奪った。机の中には書類や文房具が入っていた。それらも適当にわしづかみにして取った。
そうして取るべきものを取りつくすと、二階の窓から一階にすべての荷物を投げ落とした。半分をかついで展望台に運び、戻り、残りの半分を運んだ。牡牛は空を見上げ、まだ時間があることを確認すると、今度は以前に侵入したことのある家屋に向かった。牡牛が窓を割ったせいで部屋が傷み始めているそこは、一階にキッチンがあった。食料などはもう奪いつくしていたので、牡牛の目的は別にあった。牡牛は食器棚から、食器をふたつづつ取っていった。すると食器棚の奥から、昆布や麩といった乾物が見つかったので、それも取った。
牡牛は急いで展望台に戻ると、畑から野菜を収穫し、洗い、下ごしらえをして、待った。乙女は夜にしか移動できないので、来るとすれば今夜しか無いのだ。乙女があまり沢山食べられないことはわかっていたが、五日もウロウロしていたのなら、腹が減っているだろうと牡牛は考えていた。
やがて日が落ちたが、牡牛は暗闇であぐらをかき、修行僧のように瞑目していた。外からはいつものように、獣の鳴き声や、正体不明の音が響いてきたが、牡牛が聞きたいのはただひとつ、展望台の鉄の階段を上がってくる乙女の足音だった。牡牛はただただ待ち続けた。一分が永遠かと思われる時間を、ひたすらじっとしてやり過ごした。
やがて牡牛はランプをつけると、荷造りをはじめた。乙女が今晩じゅうに来なければ、牡牛は明日、彼を探しに行かなければならない。すべての準備を終えると、扉の横に布団を引っ張ってきて、そこに座り、肩に布団をかけ、背中を扉にもたれさせた。扉に鎖を巻けば乙女が入って来られなくなるので、今夜は戸締りをせずに過ごさなければならないのだ。そのための用心だった。牡牛は時代劇に出てくる用心棒のように、刀代わりのスコップを抱いて、座ったまま眠った。
何時間か過ぎたころ、牡牛は目覚めた。
待ちわびた音を聞いた。カン、カン、と、鉄の階段を上がる音。
牡牛は布団を抜け出した。
やがて扉がノックされた。牡牛は急いで扉を開くと、外に立っていた乙女の手を引っ張り、中に引き込んだ。扉を閉め、鎖を巻く。それからランプに近寄り、火をつける。「遅かったな乙女」と言いながら振り返った。
しかしそこに立っていたのは、乙女ではなかった。
牡牛は目と口を限界まで開き、しかし目に映るものを信じられず、言うべき言葉も見つけられず、けっきょくどちらも使わなかった。ランプのぼんやりとした明かりの中に立っていたのは、よく知っている学生服を着た、髪が伸びた、そして服も髪もぼろぼろで薄汚れた、乙女ではまったくない男だった。その人物はやはり、目と口を限界まで開き、牡牛を見つめていた。やがて言った。
「牡牛だよな?」
牡牛はがくがくと頷いた。
「牡牛だ。牡牛だが、おまえは」
「おまえ牡牛なんだったら、これを読んでくれ早く」
言いながら男は手に持っていた紙を差し出してきた。突っ立っている牡牛の胸につきつけ、牡牛の手を取って、握らせる。なぜか必死な様子だった。
「読んでくれ、早く。俺はおまえにこれを読ませなければならないんだ」
牡牛は彼の慌てっぷりにつられて、いそいでランプを引き寄せ、その明かりの下に紙を差し出した。
それは、乙女からの手紙だった。
『牡牛へ。彼は散策の途中で見つけたんだが、少しまずいことになっている。詳しくは彼の胸ポケットに入っている手帳を読めばわかると思う。俺は気になることがあるので、もう少し調べごとを続ける。あと五日待て。俺を探しには来るな。乙女』
牡牛は彼に向かって、おまえの手帳を見せてくれと頼んだ。
彼は手で自分の体をさぐり、胸に手を当て、ハッとした顔をすると、急いで手帳を取り出した。
牡牛はランプの下で手帳を開き、読み始めた。
奇妙なことが書いてあった。
『あなたは山羊、ゾンビではない』
牡牛は驚いて彼を見つめた。
彼は途方にくれたような顔をして牡牛を見つめ返していた。その顔つきはたしかに、山羊のものだった。ずいぶん様子が変わっているが、彼は山羊に間違いなかった。
牡牛は手帳の2ページ目を読んだ。
『あなたの記憶は半日しか持たない』
牡牛はまた驚いて山羊を見つめた。
山羊も興味深そうに、牡牛の手元を見つめていた。そして独り言のようにぼそぼそとつぶやく。
「ああそうか。だから俺は、昼過ぎに、乙女と別れるより前のことが思い出せないのか。俺は乙女に、展望台に行って、牡牛に手紙を渡せと言われたんだ。でも、なんで展望台に行かなければならないのか、なんで牡牛に手紙を渡さなければならないのかが、わからなかったんだ」
牡牛は山羊にうながされて、手帳の3ページ目を開いた。
『あなたのそばに居る人物は、様子が変わっているが、天秤。
(しかし天秤とははぐれたようだ。乙女より)』
ま新しい文字は、乙女の書き込みに違いなかった。牡牛は山羊に尋ねた。
「天秤と行動していたのか?」
山羊は頷いた。
「卒業式の騒動のあと、俺は天秤と逃げたんだが、ゾンビの群れにぶつかったんだ。俺は天秤をかばって、階段から落ちて、そのあとは……、気絶したんだと思う」
「なるほど。それから?」
山羊は考え込む様子をした。その表情は、しだいに苦しげなものになった。
「今日の昼、乙女と別れて」
「いや、だからそれまで、どうしてたんだ」
「わからない。きのう階段から落ちてからのことが、どうしても思い出せなくて……」
牡牛は、呆れた。
「山羊。卒業式は昨日じゃない。もう一年以上も前だ」
山羊は、ぎょっとしていた。牡牛の本気を伺うように、しげしげと目を覗き込んできた。やがて不安げに、無理に自分を納得させるように、首を縦に振る。
「それで、牡牛が老けてるのか。そうなんだ」
どうやら山羊の中では、あの最悪の卒業式が、きのうの出来事として感じられているらしい。
牡牛は手帳の4ページ目を見た。
『山羊はあたらしいことを記憶できないが、毎日くりかえしていることは、覚えておくことができる。だから山羊は暇があれば、手帳を取り出して読むこと。それをくりかえすこと』
山羊も読みながら、うなずいていた。
「なんとなく、手帳を読まなければならない気はしてたんだ。でもおまえに手紙を届けるのが先だと思って、我慢してた」
牡牛は次のページをめくった。そこには、この世界についての説明が書かれていた。人はゾンビと化していること。噛まれると感染すること。夜や暗闇は危険なこと。等々。牡牛にとっては、基本的な知識ばかりだった。
牡牛は唸った。たしかに山羊には何を聞いても、満足な答えは得られそうにない。何を言うべきなのか、どうすべきなのかを牡牛は考え、やがて決めた。
「メシにしよう」
準備はすでに出来ていて、ただ食わせる相手が変わっただけのことだった。
牡牛がこしらえた野菜と麩と猪肉のシチューを、山羊はむさぼるように食べていた。食器の鳴る音、食べる音、感嘆の言葉、それらすべてを聞いて、牡牛は幸せな気分になった。心が満たされた。
今日奪ったばかりの寝具を、山羊のために敷いてやった。盗みに入った寝室が洋間であったせいで、敷布団を手に入れられなかったので、床に毛布を何枚も敷いた。固くないかと牡牛は心配したが、山羊が気にしていたのは、布団の固さではなく、展望台の外から響いてくる、正体不明の音たちだった。獣が鳴いているのか、何かが歩き回っているのか。展望台の窓と柱と床は、それらを音としてだけではなく、横たわっている布団への振動としても伝えてくるのだ。
牡牛は起き上がり、寝苦しそうな山羊のそばに自分の布団を引き寄せた。山羊の体温を感じる距離で眠ると、牡牛のほうは、音があまり気にならなくなった。