星座で801ログ保管庫出張所

地球最後の…14

 次の日の朝、目覚めた牡牛は、知らない場所に寝ていることに気づいてぎょっとした。そして記憶が蘇ってくると、辺りを見回して乙女を探した。だが姿が見当たらなかった。身を起こそうとして肩の痛みにうめき、布団を跳ね除けて腕の痛みにうめき、立ち上がろうとして足の痛みにうめく。
 満身創痍の牡牛だった。しかし今の牡牛にとっては、傷の痛みよりも、乙女が居ないことについての恐怖のほうが勝っていた。膝立ちで移動して部屋の隅々を見る。カーテンを開き、外を見る。どちらにも、誰の姿も無かった。
 牡牛はふと耳を澄ませて、ある音を聞いた。音に従って移動し、ふすまを開くと、乙女が狭い空間に横たわって寝息をたてていた。牡牛が思わず出した呼び声に、乙女は目を覚ましたらしく、唸りながらまぶしそうに顔を両手で隠す。
「……駄目なんだ光は。俺はこれから寝るから……」
「居なくなったのかと思った」
 牡牛の詫びる声も聞かず、乙女は牡牛に背を向けて、また寝息をたてはじめた。
 ほっとした牡牛はふすまを閉じると、ふたたび部屋を見渡し、最初は気づかなかった、布団の枕もとの荷物に気づいた。牡牛の私物のそばに、見慣れない物品があったのだ。それは防災セットだった。中には缶入りの水と、アルファ米と、救急箱が入っていた。そして乙女の書いたメモが、袋の上の乗せてあった。牡牛はそれを読んだ。

『色々と言いたいことがあるがうまくまとまらない。つらつらと書くが、おまえの生き方はすこし危機感に欠けているように思う。のん気すぎるんだ。だから怪我をするはめになる。今日は動かずに寝ておけ。牡牛が寝ている間に外に出て、団地の各部屋に入り、いろいろと見つけてきた。薬があったので傷を洗って、これを塗って、足を冷やしておけ。腹が減っても料理などせず、あるものを食って、とにかく休んでおけ。掃除もするな。乙女』

 メモと呼ぶには少々几帳面すぎる文面と、綺麗な文字だった。
 いろいろと苦労してきた牡牛にとっては、のん気という評価には抗議をしたいところだった。しかしその辛らつな言葉の選び方は、いかにも乙女らしかった。
 牡牛はとりあえず乙女の言葉に従うことにした。洗面所の鏡の前に移動して、傷の具合を見る。今まで見えなかった肩の傷を調べる。首の左右に、虎の爪の形に、斜めに走った傷があった。ばい菌が入ったらしく膿んでいて、熱い痛みがある。膿みをつぶし、傷口を水で洗って、薬を塗り、新しい包帯を巻く。
 続いて腕と手のひら、足を治療し、痛み止めを飲んで、布団に戻った。
 薬の力で浅く眠ったが、まだ日があるうちに目覚めてしまった。牡牛はしばらくごろごろとしていたが、退屈したので、乙女の言葉に従うことをやめた。
 なべに水を入れた。湯をわかすあいだに、またこの家の台所を荒らし、海苔の缶と塩を取り出した。海苔の缶をひらき、数枚の海苔をつまみ食いしながら、湯が沸くのをまつ。やがて沸騰し始めた湯を、アルファ米の袋に投入したところで、乙女が起きてきた。
 小言を言われるかと思ったが、乙女は黙って牡牛の手元を見つめるだけだった。牡牛は黙々と手に塩を振り、飯を握り、のりを巻いて、皿に並べていった。炊いた米をすべて握り終わると、べたべたする指を舐めて、自分の皿を取り、乙女に背を向けた。そうすることによって、乙女が移動しなくても良いようにという配慮だった。乙女が移動しなければ、乙女と自分が食べる距離が近くなり、人と食事をしているという雰囲気が濃くなるような気もしていた。
 まもなく背後で、乙女がその場にごそごそと座る気配がした。牡牛は満足し、出来立てのおにぎりを一個とって、食べた。
 途端に、すべての思考が吹き飛ぶほどの旨さを感じた。米の甘みと塩の辛みが、口の中いっぱいに広がった。牡牛は無心で食い、咀嚼し、飲みこんだ。なんの変哲も無い白いご飯と、海苔と、塩だけのおにぎりが、魂が消えるほどうまかった。会話もなにも無いままに、あっという間にすべての握り飯を頬張って、皿を空にしてから、牡牛はやっと息継ぎをした。
「うまいなあ」
 これまでずっと、濃い味付けの、冷えた缶詰をよく食べる生活だった。そんな生活のせいか、このあまり味の無い、塩だけの、しかし熱い食べ物が、とんでもない美食に感じられたのだった。
 牡牛は背中の気配をさぐった。乙女もうまいと感じてくれていれば良いと思いながら。
 まもなく、乙女の声が届いた。
「牡牛に会えて良かった」
 牡牛は嬉しかったが、続いて聞こえてきた言葉に耳を疑った。
「本当に、牡牛に会えて良かったと思う。だから、おまえと一緒には行けない」
 牡牛は勢いよく振り返った。
 乙女が座っている前に、食事の皿があった。おにぎりのひとつが、一口ぶんだけ欠けていて、乙女はもう口元を包帯で隠していた。
 乙女は、悲しげだった。
「うまいよ。本当だ。だが俺はもう、あまり食欲を感じなくなってるんだ。昨日は食べられたんだが、それは何日も食べてなかったからで、今日はもう駄目みたいだ。この意味がわかるか?」
 牡牛は、普通に答えた。
「胃が縮んだのか?」
「違う。詳しく言うと、昨日までは本当に、何日も飲まず食わずだったんだ。二十日くらいかな」
「……」
「からだが、感染者に近くなってるんだ。皮膚と肉が栄養を必要としなくなってるんだよ。そのかわり痛みはないし、体調を気にせずにタフに動けるが、傷ついたところが再生することはない。俺はもう治らない。だから……、おまえと一緒には行けない」
 牡牛は正直に、納得できない顔をした。
 乙女は溜息をつき、淡々と説明しだした。
「俺はもうすぐ狂う。わかるんだ。そうなった時におまえがそばにいたら、おまえを襲ってしまうかもしれない。またそうなるまでに、おまえにこの病気がうつってしまうかもしれない。どちらにしろ最悪だ。どう考えたって最悪な未来しか見えないんだ。だから一緒には行けない。理解してくれ」
 牡牛は黙りこくっていた。やがてゆっくりと、首を横に振った。
「乙女をつれて行く」
「牡牛!」
「べつに乙女に襲われてもいい」
「なっ……」
「俺に病気がうつっても構わない」
 乙女は絶句し、怒り出した。
「ふざけるな! おまえはまだまともなんだぞ。生きてるんだぞ」
「乙女だってそうだろ」
「俺はもうまともじゃない。こんな言い方は嫌だが……、もうほとんど化け物だ。怪物だ。おまえを食い殺す気になってないだけで、その力はもうあるんだ」
「けどまだ乙女だろう」
 牡牛は真面目な顔をしていたが、しかし実は、心中では、すこし面白がっていたのだった。乙女の真面目さや、考えの繊細さや、優しいがゆえに短気なところや、怒り出すと果てが無いところや、そういったすべてが、懐かしかったからだ。
 しかし牡牛は表面は、あくまでもそっけない口調で言った。
「乙女が狂ったら、そのときまた考える。今はまともなんだから、連れて行く」
「聞き分けのないことを言うな。俺は行かないぞ」
「いやだ。乙女が一緒に来てくれないんだったら、俺はあの窓から飛び降りる」
「はあ!?」
「俺が死んだら乙女のせいだ。この人殺し」
 乙女はあまりに怒りすぎて、言うべき言葉を失っていた。
 そこで牡牛は、からかうことをやめて、今度は心からの本音を語った。
「ずっと一人だったんだ。もう一人はいやだ。気が狂いそうだ。病気になって狂うのも辛いだろうけど、人間のまま狂うことのほうが辛いと思う」
「……」
「それに一人のままでいたって、ずっとまともでいられる保証は無いんだ。俺もいずれ病気になるんだとしても、それまでは、後悔の無い生き方をしたい。乙女と。おまえを連れて行かないと、俺はきっと後悔する」
 乙女は考え込むような様子をした。
 牡牛は、さらに説得にかかった。
「それに、乙女がいなきゃ困る。助けてくれ。からだ中痛いんだ。しばらく満足に動けそうに無い」
「足さえ治れば移動はできるだろう。展望台まではそう遠くない」
「だけど肩が。ちょっとまずいことになってる。これを見てくれ」
 言いながら牡牛は、肩に巻いていた包帯をほどきだした。
 乙女は、なにか病気についてのことを連想したらしく、牡牛の肩を見ようと、慌てたように身を乗り出してきた。
 牡牛は素早く手を伸ばし、乙女のコートをつかんだ。ぐいと引き、乙女の体を胸に抱きこむ。
 抱きとめたことによる傷の痛みはひどかった。衝撃で一瞬、気が遠くなった。予想した人間らしい温かさは感じられず、乙女のからだはひどく冷たかった。体重は軽く、背中は細く、まるで人形を抱いているような手ごたえだった。しかしそれでも、牡牛は心地よかった。腕の中でじたばたともがくものの感触が、生命と、人間を感じさせたからだった。やっと他人に触れられたと思った。自分以外の誰かに、牡牛はずっと触れたかったのだ。
 乙女はしばらく牡牛を罵りながら暴れていたが、牡牛が痛みを堪えて万力のような力で抱きしめ続けたので、やがて諦めたらしく、大人しくなった。罵り声も次第に小さく、弱気なものに変わっていった。
「……牡牛。離してくれ。病気が、うつってしまう」
「もう遅いと思うし、うつってもいい」
「駄目だ、そんなのは。……俺は本当に、おまえに生きていてほしいんだ」
「俺も生きたい。乙女と」
 乙女は黙った。
 そのままずっと長い間を置いて、やがて諦めたように脱力した。
「今すぐ返事はできない。しばらく考えさせてくれ」
「どのくらい?」
「おまえが動けるようになるまでに、結論を出す」
「うん」
「肩は本当はどうなんだ?」
「腫れて、膿んでる」
「熱は?」
「無いと思う」
「薬がいるな。もっと」
 牡牛の目から見れば、乙女のほうがずっと重症なのだし、気遣われるべきなのも、助けられるべきなのも乙女なのだ。しかし乙女が語るのは牡牛の身を案じての言葉ばかりだった。だからそこを利用したくて、嘘をついた。
「……ちょっと寒気がしてきた。熱かな」
「俺のメモを読まなかったのか? 読まなかったのなら不注意だ。読んでも動き回って発熱したんなら、自業自得だ」
 にべもなかった。
 乙女はなにかを後悔したように、そわそわとした様子になった。
「日が落ちたようだ。俺はまた外に出てくる。まだ調べてない家に行って、薬を探してこよう」
「大丈夫か?」
「俺はな。おまえは寝てろ。今度こそ」
「出かけていって、そのままどこかに行ったりしないか」
「しない。約束する。だから……窓から飛び降りるなよ?」
 牡牛の言ったからかいを、本気にしているようだった。
 乙女は牡牛の腕を抜け出すと、押入れに向かい、中から袋を取り出した。牡牛を腐った赤ちゃんから助けるときに武器にしていた、あの血まみれの袋だった。乙女は袋の様子をたしかめると、また押入れに手を入れて、枕をひとつ取り出していた。カバーをはずし、そのカバーの中に、袋の中身を入れ替える。袋の中身は大量の硬貨だった。そうして武器を新調すると、乙女は出かけていった。
 牡牛は油を節約するために、ランプを吹き消し、横になった。